2011年4月27日午前11時20分
聖徳太子御遺跡霊場第14番「法隆寺」
来ました、やっとたどり着きました。
その昔に一度訪ねているはずなのに、全く記憶がない感じ。
だから新鮮。・・・・・・・ドキドキ
ちょいちょいパノラマ撮影してみてはいるが・・・・・・
あぁぁぁ、なんか緊張するなぁ~
早速門をくぐってみると
怪しげな天気と、まだいた小学生。
いい天気だった空が2時間でこんな黒い雲に覆われてしまった。
「中門」
金剛力士ににらまれるとさすがにおそがい。
「五重塔」
「金堂」
この法隆寺は世界最古の木造建築として知られている。
用明天皇が自ら病気平癒を祈って寺と仏像を造ることを願っていたが
実現をみないまま崩御。
推古天皇と聖徳太子がご遺願を継いで造られたのがこの法隆寺。
「本堂」
国宝・重要文化財に指定されたものは190件。
1993年12月にはユネスコ世界文化遺産に登録。
「聖霊院」
聖徳太子の尊像を安置。
ここで御朱印をいただく。
残念ながら尊像を拝むことはできなかった。
ここで不思議なものを発見・・・・?
飛行船が飛んでいた。
何の宣伝なのかはわからなかった。
このあと、国宝や重要文化財が立ち並ぶ大宝蔵院へ。
写真は遠慮した。
すごく大きい仏像を前に、何か胸を打たれるものがあった。
でも、今すでに忘れている。
さらに、この時期にある法隆寺秘宝展が開かれていたので
早速行ってみることに。
もういっぱいありすぎて、なにがなんやら・・・・・・
聖徳太子立像なんかもたくさんあるんだが
お顔のつくりが、同じものが一つとしてない。
そりゃ、全部想像で造られたんだろうから
同じになるはずもなく・・・・・・
見終わって、ちょいと一息。
法隆寺は今までの西院伽藍とこれから行く東院伽藍がある。
「鐘楼」
「中宮寺」と陰刻 された梵鐘が吊るされている。
「夢殿」
行信僧都という高僧が聖徳太子を偲んで建てた。
八角円堂で、中央に聖徳太子等身大の秘仏救世観音像を安置。
聖徳太子を供養するための殿堂。
「舎利殿」「絵殿」
舎利殿は聖徳太子が2才の時合掌した掌から出現したとされる舎利を安置。
絵殿は聖徳太子一代の事蹟を描いた障子絵が納められている。
これで法隆寺は終わり。
1時間半に及んだ。さすがに広い!
そして、隣接する本当に最後の場所
聖徳太子御遺跡霊場第15番「中宮寺」
現在は隣接しているが創建当初は400メートルほど東にあった。
穴穂部間人皇女の宮を寺(尼寺)にしたと伝えられている。
ただ、どこにも中宮寺創建に関する記述がないため確証がない。
「本堂」
高松宮妃殿下の御発願で昭和43年5月に落慶。
天寿国曼陀羅繍帳がある。国宝である。
これは聖徳太子薨去で御妃の橘大郎女が嘆き
太子が往生なさった天寿国 理想浄土を刺繍したもの。
蓮の上にあるのが聖徳太子ではないかといわれている。
実物は見れない。残念。
これでようやくミッション達成・・・・・・・と思いきや
実はもうちょっとある。
でも、ここで一息。
ここで月見そば。
麺太め。でも、おいしかった。
麺太め。でも、おいしかった。
もうちょっと行きたい場所に行くために、もう一回自転車をかりた。
雨が降りそうだったので、インフォメーションの人が傘も貸してくれた。
ありがとうございます。
さて、出発。
聖徳太子御遺跡霊場第18番「成福寺」
ここは廃寺。
飽波葦垣宮の伝承地である。
聖徳太子が膳大郎女とともに晩年をこの宮に過ごしたと伝えられる。
しかし、せっかくの古都が大事なところで手抜きの保存。
太子ゆかりの寺で霊場となっているのに・・・
御朱印頂きたいのに住職がいなきゃ貰えず
せっかくの御朱印帳も役割を果たせず・・・
ところが後で調べたら法隆寺でもらえるらしい・・・・
もっと早く教えてよ~~~~~
と嘆くのもここまで。
この周辺は宮があった。
その跡地を整備して公園になっている。
「上宮遺跡公園」
晩年この地で過ごしていた・・・・・・か。
「和を以って貴しと成す」
難しいだろうが、世界がこの本意に従えば
本当に平和になるんだろうな。
政治家がこれに従えば・・・・・・・無理だな。
我欲にへばりついてる人ばっかだからな。
そんなことを考えながら法隆寺まで戻ろうとしたその時
雨が降ってきやがった。
しかし自転車なので傘をささず
猛ダッシュで戻った。
インフォメーションの人に不思議な顔をされたが
一言お礼を述べて宿に戻ることにした。
この時点で午後3時近くになっていた。
何とか目標は達成できた感じ。
今回の旅は成功といってもいいのかな。
次回は少々反省点を考慮し挑みたいと思う。
まだまだ続く、聖徳太子を訪ねる旅。