ちゅーたのたび

人生メロメロ奮闘記!?

聖徳太子を訪ねる旅4

2012-04-29 | 旅行記
2011年4月27日午前11時20分
聖徳太子御遺跡霊場第14番「法隆寺」
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来ました、やっとたどり着きました。
その昔に一度訪ねているはずなのに、全く記憶がない感じ。
だから新鮮。・・・・・・・ドキドキ
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ちょいちょいパノラマ撮影してみてはいるが・・・・・・
あぁぁぁ、なんか緊張するなぁ~
早速門をくぐってみると
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怪しげな天気と、まだいた小学生。
いい天気だった空が2時間でこんな黒い雲に覆われてしまった。
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「中門」
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金剛力士ににらまれるとさすがにおそがい。
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「五重塔」
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「金堂」
この法隆寺は世界最古の木造建築として知られている。
用明天皇が自ら病気平癒を祈って寺と仏像を造ることを願っていたが
実現をみないまま崩御。
推古天皇と聖徳太子がご遺願を継いで造られたのがこの法隆寺。
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「本堂」
国宝・重要文化財に指定されたものは190件。
1993年12月にはユネスコ世界文化遺産に登録。
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「聖霊院」
聖徳太子の尊像を安置。
ここで御朱印をいただく。
残念ながら尊像を拝むことはできなかった。
ここで不思議なものを発見・・・・?
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飛行船が飛んでいた。
何の宣伝なのかはわからなかった。
このあと、国宝や重要文化財が立ち並ぶ大宝蔵院へ。
写真は遠慮した。
すごく大きい仏像を前に、何か胸を打たれるものがあった。
でも、今すでに忘れている。
さらに、この時期にある法隆寺秘宝展が開かれていたので
早速行ってみることに。
もういっぱいありすぎて、なにがなんやら・・・・・・
聖徳太子立像なんかもたくさんあるんだが
お顔のつくりが、同じものが一つとしてない。
そりゃ、全部想像で造られたんだろうから
同じになるはずもなく・・・・・・
見終わって、ちょいと一息。
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法隆寺は今までの西院伽藍とこれから行く東院伽藍がある。
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「鐘楼」
「中宮寺」と陰刻 された梵鐘が吊るされている。
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「夢殿」
行信僧都という高僧が聖徳太子を偲んで建てた。
八角円堂で、中央に聖徳太子等身大の秘仏救世観音像を安置。
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聖徳太子を供養するための殿堂。
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「舎利殿」「絵殿」
舎利殿は聖徳太子が2才の時合掌した掌から出現したとされる舎利を安置。
絵殿は聖徳太子一代の事蹟を描いた障子絵が納められている。
これで法隆寺は終わり。
1時間半に及んだ。さすがに広い!
そして、隣接する本当に最後の場所
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聖徳太子御遺跡霊場第15番「中宮寺」
現在は隣接しているが創建当初は400メートルほど東にあった。
穴穂部間人皇女の宮を寺(尼寺)にしたと伝えられている。
ただ、どこにも中宮寺創建に関する記述がないため確証がない。
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「本堂」
高松宮妃殿下の御発願で昭和43年5月に落慶。
天寿国曼陀羅繍帳がある。国宝である。
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これは聖徳太子薨去で御妃の橘大郎女が嘆き
太子が往生なさった天寿国 理想浄土を刺繍したもの。
蓮の上にあるのが聖徳太子ではないかといわれている。
実物は見れない。残念。
これでようやくミッション達成・・・・・・・と思いきや
実はもうちょっとある。
でも、ここで一息。
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ここで月見そば。
麺太め。でも、おいしかった。
もうちょっと行きたい場所に行くために、もう一回自転車をかりた。
雨が降りそうだったので、インフォメーションの人が傘も貸してくれた。
ありがとうございます。
さて、出発。
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聖徳太子御遺跡霊場第18番「成福寺」
ここは廃寺。
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飽波葦垣宮の伝承地である。
聖徳太子が膳大郎女とともに晩年をこの宮に過ごしたと伝えられる。
しかし、せっかくの古都が大事なところで手抜きの保存。
太子ゆかりの寺で霊場となっているのに・・・
御朱印頂きたいのに住職がいなきゃ貰えず
せっかくの御朱印帳も役割を果たせず・・・
ところが後で調べたら法隆寺でもらえるらしい・・・・
もっと早く教えてよ~~~~~
と嘆くのもここまで。
この周辺は宮があった。
その跡地を整備して公園になっている。
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「上宮遺跡公園」
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晩年この地で過ごしていた・・・・・・か。
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「和を以って貴しと成す」
難しいだろうが、世界がこの本意に従えば
本当に平和になるんだろうな。
政治家がこれに従えば・・・・・・・無理だな。
我欲にへばりついてる人ばっかだからな。
そんなことを考えながら法隆寺まで戻ろうとしたその時
雨が降ってきやがった。
しかし自転車なので傘をささず
猛ダッシュで戻った。
インフォメーションの人に不思議な顔をされたが
一言お礼を述べて宿に戻ることにした。
この時点で午後3時近くになっていた。
何とか目標は達成できた感じ。
今回の旅は成功といってもいいのかな。
次回は少々反省点を考慮し挑みたいと思う。
まだまだ続く、聖徳太子を訪ねる旅。




聖徳太子を訪ねる旅3

2012-04-29 | 旅行記
2011年4月27日
雨が降るといわれていたが、なんかいい天気。
奈良交通のバスで法隆寺前まで。
・・・・・・・・・やはりここでも修学旅行なのか
学生の団体に遭遇。
インフォメーションセンターで法隆寺周辺散策用にレンタサイクル。
Ikaruga
一番の目的はもちろん「法隆寺」だが
インフォメーションセンターの人に
「団体は午前中でみんないなくなるから先に周辺へ行ってみたほうがいいかも」
とアドバイスを受けた。
なので、まず行ったのは
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聖徳太子御遺跡霊場第16番「法輪寺」
別名「三井寺」
聖徳太子が飛鳥から三つの井戸を移したことから起ったとされている。
御子の山背大兄王が太子の平癒を願って建立されたとされている。
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国宝だった三重塔は昭和19年に落雷で全焼。
国宝指定は解除。
しかし、仏舎利が取得できたことから昭和50年に再建された。
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「金堂」と「鐘楼」
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「講堂」
展示像11体のうち重要文化財は6体
薬師如来坐像は飛鳥時代の木像如来像の中で最大といわれている。
止利が造ったとされる。
この講堂に入った時、何ともいえない威圧感を感じた。
壮大だったからなのか・・・・・・
この寺の開基である聖徳太子の御子 山背大兄王は
太子没後、皇位継承の政争に巻き込まれ蘇我入鹿らの襲撃を受ける。
家臣に戦を進言されると
「我が身のために万民を疲弊させることは望まない
身を捨てて国を固められるなら、それこそ丈夫ではないか」
そう言い残し、斑鳩寺で一族共に自害された。
ここで聖徳太子の血は途絶えることとなる。
悲しい運命・・・・・・
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次に訪れたのは聖徳太子御遺跡霊場第17番「法起寺」
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「講堂」と「聖天堂」
聖徳太子が法華経を講説された岡本宮を寺に改めた。
太子の薨去前、御子 山背大兄王に遺命したものとされる。
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発掘調査で岡本宮と見られる宮殿が存在していたことがわかった。
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「鐘楼跡」
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木像11面観音菩薩立像
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「三重塔」
現存する最古のもの。もちろん国宝。
先の法輪寺とこの法起寺と法隆寺の塔で
「斑鳩三塔」として親しまれている。
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徐々に雲が出てきた感じ・・・
出発してからまだ1時間もたっていない感じ。
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まだまだ法隆寺にはいけない。
ってことで次に行ったのは
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「藤ノ木古墳」
法隆寺西院伽藍の西方約350メートルある。
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横穴式石室で家形石棺に成人男性2人が合葬されていたという。
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副葬品が金銅製の馬具や装身具、刀剣などがあり
当時の支配階級の一人であったと考えられるが
大王ではなく、その一族ではないかとされている。
『日本書紀』が記す587年6月の暗殺時期と一致することなどから
聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された
穴穂部皇子と宣化天皇の皇子ともされる宅部皇子の可能性が高いとされている。
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恐ろしや蘇我馬子・・・・
このあと、斑鳩文化財センターに寄ろうと思ったが
なんと、休館日・・・・・・・残念。
そろそろ団体も去った頃だろうか
最終目的地法隆寺へ。
ここでいったん自転車を返却。
観光バスは格段に減っていた。
これなら大丈夫だろう。




良い天気だなぁ~~~

2012-04-28 | 日記・エッセイ・コラム
良い天気だが、春はどこへ行った!?
もう初夏だがね!!!
今日の帰り、銀行やら郵便局やら寄り道して帰ってきた。
いつの間にか蜂が左窓にへばりついていた。
おかげで窓を開けるのをあきらめた。
片側だけ開けて・・・・・・・
これじゃぁあまり風通しがよくない。
でも、開けると蜂が入ってきそうで・・・・・・
お尻の針で「チクッ」なんてやられたらかなわない。
スピードを上げてみても飛んでいく様子はない。
見事に貼り付いていた。
結局家にまで来てしまった。
でも、車庫入れが終わったらシレ~~~~~ッと飛んでいきやがった。
確かに、家の前にはたくさん雑草が生えていて
近くに神社の林もあるし
タンポポだって気丈に咲いているよ。
だからってオレの車の窓にへばりつかんでもいいでしょうに。
アイツなんて名前の蜂なんだろう・・・・
こんな感じだったような・・・・・
お腹側しか見えなかったからな。
体長は2~2.5cmぐらい。
こげ茶色で顔は蜂の顔・・・・・・・
ミツバチのような丸い感じではなかったから
ちょいキモイ感じ。
昔アシナガ蜂に威嚇で刺されたことがあるから
嫌なんだよね~~~。
本当に痛いんだから、1時間ほどチク痛感が取れなくて
病院に行ったぐらいなんだから。
ついに虫たちも活動を始めましたか。





聖徳太子を訪ねる旅2

2012-04-27 | 旅行記
2011年4月26日
当初この日は斑鳩方面にしようとしていた。
が、天気予報で27日が雨となっていたので急遽飛鳥方面へ変更。
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レンタル自転車でサイクリングにした。
まず向かったのが高松塚古墳。
出だしからつまづく!Photo
小学生の集団に阻まれとりあえず別の場所へ行ってみることに。
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聖徳太子御遺跡霊場第9番「定林寺」
小堂の西側の春日神社境内に塔跡をはじめ基壇、礎石等の遺構が残っているらしいが
今回はそこまで行かなかった。
この定林寺が聖徳太子とどのような関係にあるのか
よくわからないからだ。
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次に向かったのは聖徳太子御遺跡霊場第8番「橘寺」
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クソッ、ここでも小学生の団体にぶつかる。
しかしあきらめるわけにも行かずそのまま参拝。
ここは聖徳太子が産まれ育った場所。
天皇(推古天皇)の命により聖徳太子は勝鬘経(しょうまんきょう)を講義したと伝えられ
その時、庭に蓮の華が降り積もり、太子の冠から光が輝いたという。
天皇は驚き、この地に寺を建てるように命じたとされ
聖徳太子は御殿を改造して寺を建て橘樹寺(たちばなのきてら)と命名(橘寺は通称)したと
伝えられている。
当時は金堂・講堂・五重塔を含め六六棟もの堂舎が立ち並んでいたという。
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これは「黒駒」
聖徳太子が空を駆けた愛馬、達磨大師の化身とも言われている。
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「二面石」
人の心の善悪二相を表したものといわれている。
そろそろ高松塚古墳のほうも空いてきた頃だろうと思い戻ることに。
しかし、戻るときの道案内が徒歩用で、自転車で登り下りが激しく大変な思い。
そのおかげで金剛寺を断念。
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天気も快晴とは行かなかったが、
予定を変更し、今日をサイクリングの日にしたことは間違ってなかった。
暖かくてサイクリング日和。
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「高松塚古墳」
聖徳太子とは関係がないが、国宝に指定された壁画があるので行ってみた。
本物は修復と保存のため一般公開はしておらず
高度の技術で再現されたレプリカを見ることができた。
この古墳は被葬者については諸説あり特定されていない。
出土した被葬者の歯やあごの骨から40代から60代の初老の人物と推測されており
石上麻呂・百済王禅光・高句麗の王族等いろいろある。
太子とは関係ない古墳から離れ、次に向かったのは
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「石舞台古墳」
ハァァァァァァ。ここにも小学生が。
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ここには蘇我馬子が眠っていたとされる。
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ここで珍客。
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人をものともせず寝ている猫。
はじめ見たときは微動もなく死んでいるんじゃないかと思うぐらい。
この時点でちょうどお昼。
お腹が空いていたが、もう団体と会いたくなかったから
さっさと次へ出発。
寄るつもりはなかったが、通りの看板を見てちょいと寄り道。
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「酒船石遺跡」
斉明天皇の「両槻宮」と推定されている。
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祭祀を行っていたといわれている。
これも太子とは全く関係ない場所だった。
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さて、次は聖徳太子御遺跡霊場第11番「飛鳥寺」
ここでは残念ながらこの写真1枚だけ。
飛鳥寺は日本最古の本格的寺院でもある法興寺の後身。
本尊は日本最古の「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来。
蘇我馬子開基。
飛鳥時代、この飛鳥は蘇我馬子の本拠地と言ってもいいのではないか。
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「奈良文化財研究所」
これは全部レプリカ。
奈良時代にはこういった石造がたくさんあったといわれている。
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不思議な石造だな。
この研究所には資料館があり
そこでは高松塚古墳の壁画(レプリカ)や上記の石造
飛鳥時代の建造物などの展示がされている。
ちょうどこの時間、風が吹き始め
コンタクトのオレには過酷なサイクリングに変貌。
何度もコンタクトを洗う羽目に。
そんな困難を押しのけ次に向かったのは
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「天岩戸」
グウァハハハハ
聖徳太子とは全く関係ない場所。
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そのそばにあるのが本命。
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聖徳太子御遺跡霊場第13番「日向寺」
何を調べても細かいことがわからないところ。
調べ方が悪いのかな・・・・・・・・
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「甘樫丘」
蘇我入鹿が拠点にしていた小高い丘。
正面に小さく見えるのが多分、耳成山。
ここの麓で一息。
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ここでまたも珍客!?
ハエ君が這っていた。
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最後の目的地へ。
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聖徳太子御遺跡霊場第12番「向原寺」
百済から日本へ献上された仏像を蘇我稲目が祀ったところ。
後に推古天皇の宮(豊浦)、そして最古の尼寺豊浦寺となった。
この界隈は冬になるとそこらじゅうで発掘作業が行われているという。
その中で、この場所に見つかり保存されているという石畳があった。
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この石畳の上を聖徳太子が歩いていたと思うと
なんだか不思議な気持ちになった。
寺のお宝である金銅観音菩薩立像。
明和9年(1772年)近くの難波池で頭部が発見され、体部、光背が補作される。
昭和49年(1974年)盗難。平成22年(2010年)、オークションに出品され再発見。
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聖徳太子とどのような関係なのかさっぱりわからない。
ということでこの日の旅はここまで。
結局6時間半かかった。昼飯抜きで。
宿に帰り、結局コンビに飯。
ビール片手に足マッサージ。
飛鳥には日本の古がたくさん詰まっているな。
次は斑鳩。
聖徳太子の本拠。




あるある・・・!?

2012-04-27 | 日記・エッセイ・コラム
その1 パソコンの数字とにらめっこしてお金の計算をしていると「大」をしたくなる。
その2 手を洗うと「小」をしたくなる。
その3 本を読み始めると「大」「小」問わず行きたくなる。
その4 車の運転していると前の車にぶつけたくなる。(絶対しないけど)
その5 走っているとつまづいて転んだ自分を想像する。
その6 星を見ていると口が開く。
その7 政治家が出ている番組を見ていると「バカじゃねぇ~」と言う。
・・・・・・もっと探してみよう。