daddy-kのいきあたりばったりⅡ

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幾春別~石炭の時代は遠く…

2023-08-03 | ちょっとお出かけ

幾く春別れるか、良い名だなぁ… 曲の依頼に来た倉橋ルイ子の話を聞いていた宇崎竜童が、彼女の出身地を聞いた時にそう漏らしたそうで、出来て来た曲が「幾春別の詩」。

哀愁を帯びた曲は悪くは無いけど、地方から出て来て必死にシティ・ガールになりきろうとした娘、その裏返しの哀感みたいなものを感じさせる曲で人気の出た彼女には、やや民謡風にも聞こえるあの曲はちょっと合わないかな?と、当時は感じていたのですが。

 

三笠市は炭鉱で有名な街でしたが、私には知合いも無く、特別な想いの無い場所でしたが、中級ジジィとなった今、昔栄えて北海道経済を支えてくれた炭鉱の事も、見て、知っておきたいと、例のノスタル爺が足を運ばせてくれ、三笠市幾春別へ。

私にとって三笠は富良野や美瑛への通り道なので、市立博物館があるのは知っていたのですが、主に恐竜の展示が中心だろうと寄った事が無く、野外展示の事も初めて知りました。

その野外展示順路で最初に出合うのが森林鉄道の跡。

現在の桂沢湖周辺には良質なエゾマツやトドマツがあり、それを運び出すため昭和31年まで運行されていたそうですが、その跡を整備したのがこの場所だそうです。

ここで見られる機関車や積み下ろしの様子は、昭和28-9年頃の様子だそうで、田舎で父が若い頃、造林で働いていたと聞いた事があり(父は人力と馬でしたが)、そんな若き日の姿を想像したら、少し、しんみりとしてしまいましたが。

少し歩き、小高い場所に上ると旧幾春別炭鉱錦立坑櫓。

立坑櫓は、人や石炭と地下とを結ぶ言わばエレベーターで、櫓の高さが約10m、地下まで約200m。大正時代に完成し、現存する道内の立坑櫓では一番古い物となるそう。

写真中左は捲揚室の様子で、資材や人・石炭を移動させる動力源が備わっていた場所です。

炭鉱そのものは明治19年に開鉱し、設備は昭和20年代までは元気で稼働し、現在の博物館の辺りには多くの炭鉱住宅が並んでいたそうです。

更に進むと旧錦炭坑口。ここから斜めに下ると先程の錦立坑とつながり、そこから垂直に下り、最深部450mまで掘って行ったと聞くと、暗所恐怖症でも閉所恐怖症でも無い私ですが、そこまで到底無理。鉱夫の皆さんに尊敬を通り越し畏敬の念を覚えます。

 

産業を支える「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭の露出、そしてこの辺りの地層は長い間の左右からの圧力により垂直になるまで押し曲げられた、という説明がついていました。

地質について興味は無いのですが、こうした姿や積丹半島のカールした地形を見ると、地球の営みは素直に凄いなと。

進んでゆくと、先程の森林鉄道を通すための神泉隧道。

このトンネルは、三笠層を素掘り(防護策を施さずそのまま掘る)で掘り進んだ跡だそうです。思うと勇気ある話ですが。

 

博物館まで戻ると、先程は気付かなかった「幾春別の詩」の歌碑があって、ボタンを押すとスピーカーから倉橋ルイ子の歌声が流れてきます。平日なので他に人のいない広場に。

今巡ってきた展示、当時の人々の暮しなどを想い、この曲をあらためて聞くと、住んだ人でないと伝わりにくい感情もあるかとは思いますが、この場で聞く「幾春別の詩」には心が揺さぶられるものがありました。ルイ子さん今まで気付かずにごめんなさい。

そんなセンチな気分の帰り道、これも来た時は気付かなかった麦秋と麦藁のロールに、そうだ、炭鉱は無くなっても皆さん前を向いて仕事をしている…と、豊かな実りに励まされ、元気の出た帰り道となりました。

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