久々に、応援団ネタです。
今日3月21日から、阪神甲子園球場で『第82回 センバツ高校野球大会』が開幕しました。いよいよ本格的な春の到来ですね(まだ寒い日があるけれど…)。
出場32校の代表として、北海道・北照高校の西田 明央主将が選手宣誓しましたが、高校生らしく、さわやかな感じの内容で、とっても良かったと思います。
今日からの12日間、32校の球児達の戦いぶりに注目ですね。
さて、センバツはもちろん、夏の全国大会でも、いつも気になるのが、その「応援スタイル」。
高校3年間、応援団を続けた私としては、野球の勝ち負けよりも、ついついそちらに注目してしまいます。
私と同様、高校3年間、応援団を続けられた、おばらあつひろさんが、興味深い記事をエントリーなさっていました。
『時代の趨勢を感じつつ』と題した記事、全文引用させていただきます。
*****************************************
カミサン所蔵のVHSに、本当にものの数分ではあるけれど、アタクシが在学中、最後の夏の県大会の映像があった。会場は花巻球場。相手は盛岡中央高で、勝てば準決勝。
とにかくメタメタでした。全校応援。
リードを取るリーダーの精神的かつ技術的な力量不足は言うに及ばず、何と言いますか…。
あれから10数年。バンカラらしさとは?と時折思い出していたりします。
しかし高校野球の試合をテレビ中継で観ていたりするけれど、応援団リーダーをメインとした応援、というのは下火になったような気がする。特にバンカラ応援という代物は。
これも時代の趨勢…なのでしょうか。
*****************************************
特に…
『しかし高校野球の試合をテレビ中継で観ていたりするけれど、応援団リーダーをメインとした応援、というのは下火になったような気がする。特にバンカラ応援という代物は。』
の部分は、私も今まで感じてきたことです。
このおばらさんの記事に対して、私はこんなコメントを残しました。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
>リードを取るリーダーの精神的かつ技術的な力量不足は言うに及ばず…
これ、応援団にとっては、特に試合に負けるとそうなりますよね。
試合に勝っても応援が悪い時もあるし、そんな時にOBから「罰練」を課されると、もっと頑張らないと…と。
さて、現代の応援スタイル。
私も、おばらさんと同じ感覚です。
応援団がリードして、皆と一緒に…が減って、とにかく「鳴り物」に任せて、それが「正」と思っている様な気が…。
私たちが現役当時のスタイルも、ありだと思うし、バンカラ色が濃い応援も見たいですよ。
(以下、略)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
そんな私のコメントに、おばらさんは、以下の様にレスして下さいました。
=========================================
「お前たちの応援が悪いから…」
その言葉が何より身に染みます。それが嫌なので「今に見てやがれ」と意地になっていたかもしれません。
(中略)
そして昨今。
鳴り物が鳴ってればよし、ではないでしょう。
鳴り物に肉声が重なってこそ応援らしいといえるはずです。
ただ“あればいい”“いればいい”というのでは…。
見ている者も思わず声援を送りたくなるような応援風景が見たいものです。
=========================================
応援団をやっていたからこそ、相通じるもの…。
おばらさんと私との「会話」で、読者の皆さんが何かを感じて下されば、私としては本望です。
『鳴り物が鳴ってればよし、ではないでしょう。鳴り物に肉声が重なってこそ応援らしいといえるはずです。ただ“あればいい”“いればいい”というのでは…。』
この部分、本当に同感です。
『見ている者も思わず声援を送りたくなるような応援風景が見たい』
私も、それを期待して、高校野球中継を見ています。
過去に、こんな記事や、あんな記事で、応援のスタイルに対する不満みたいなものを書いてきたけれど、その不満は、全く解消されていないです。
高校名を挙げて批判するのは良くないけれど、奈良・天理高校の「応援スタイル」…どうしても我慢できません。
私が少年だった時からの「甲子園常連校」だし、吹奏楽も全国のトップレベルにあることは認めます。
でも、その「吹奏楽の力」で、選手を「応援」するスタイル(やり方)は、やっぱり違う気がします。
これは、高校で応援団に入部する以前から、ずっと思ってきたことです。
で、実際に自分が応援団を3年間続けてみて思うのは、やっぱり「リーダー」が指揮して、皆と共に母校を応援するスタイルが、おばらさんが仰る「鳴り物に肉声が重なってこそ応援らしい」というレベルに近づいていくはずだ…ということです。
私の母校の、埼玉県立春日部高校の応援団が『応援指導部』なのも、その「一体感」を作り出そうという願いが込められているからです。
応援団(リーダー)は、そのため「だけ」に存在していると言っても、決して過言ではないと思っています。
ですが、どうでしょう?
近代になって、バッターボックスに立つ選手ごとに、曲を変えて吹奏楽を鳴らす「ヒッティングマーチ」形式が多くなり、先の天理高校の様に、攻撃中ず~っと何らかの曲が吹奏楽で鳴っているという形式が、目立っている気がしませんか?
いつの間にか、それが「正」になってしまっているのは、私達が現役の頃の応援スタイルが「古い」し「流行らない」からなのでしょうか?
それとも、応援のスタイルとは、時代とともに変遷するのが「当たり前」なのでしょうか?
私は、違うと思っています。
時代は変わっても、「応援の本質」みたいなものは決して廃れないと、私は今でも信じています。
「時代の趨勢」で、鳴り物にまかせる今のスタイルが「正」となってしまうのは、あまりにも寂しい…と、強く感じます。
今日3月21日から、阪神甲子園球場で『第82回 センバツ高校野球大会』が開幕しました。いよいよ本格的な春の到来ですね(まだ寒い日があるけれど…)。
出場32校の代表として、北海道・北照高校の西田 明央主将が選手宣誓しましたが、高校生らしく、さわやかな感じの内容で、とっても良かったと思います。
今日からの12日間、32校の球児達の戦いぶりに注目ですね。
さて、センバツはもちろん、夏の全国大会でも、いつも気になるのが、その「応援スタイル」。
高校3年間、応援団を続けた私としては、野球の勝ち負けよりも、ついついそちらに注目してしまいます。
私と同様、高校3年間、応援団を続けられた、おばらあつひろさんが、興味深い記事をエントリーなさっていました。
『時代の趨勢を感じつつ』と題した記事、全文引用させていただきます。
*****************************************
カミサン所蔵のVHSに、本当にものの数分ではあるけれど、アタクシが在学中、最後の夏の県大会の映像があった。会場は花巻球場。相手は盛岡中央高で、勝てば準決勝。
とにかくメタメタでした。全校応援。
リードを取るリーダーの精神的かつ技術的な力量不足は言うに及ばず、何と言いますか…。
あれから10数年。バンカラらしさとは?と時折思い出していたりします。
しかし高校野球の試合をテレビ中継で観ていたりするけれど、応援団リーダーをメインとした応援、というのは下火になったような気がする。特にバンカラ応援という代物は。
これも時代の趨勢…なのでしょうか。
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特に…
『しかし高校野球の試合をテレビ中継で観ていたりするけれど、応援団リーダーをメインとした応援、というのは下火になったような気がする。特にバンカラ応援という代物は。』
の部分は、私も今まで感じてきたことです。
このおばらさんの記事に対して、私はこんなコメントを残しました。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
>リードを取るリーダーの精神的かつ技術的な力量不足は言うに及ばず…
これ、応援団にとっては、特に試合に負けるとそうなりますよね。
試合に勝っても応援が悪い時もあるし、そんな時にOBから「罰練」を課されると、もっと頑張らないと…と。
さて、現代の応援スタイル。
私も、おばらさんと同じ感覚です。
応援団がリードして、皆と一緒に…が減って、とにかく「鳴り物」に任せて、それが「正」と思っている様な気が…。
私たちが現役当時のスタイルも、ありだと思うし、バンカラ色が濃い応援も見たいですよ。
(以下、略)
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そんな私のコメントに、おばらさんは、以下の様にレスして下さいました。
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「お前たちの応援が悪いから…」
その言葉が何より身に染みます。それが嫌なので「今に見てやがれ」と意地になっていたかもしれません。
(中略)
そして昨今。
鳴り物が鳴ってればよし、ではないでしょう。
鳴り物に肉声が重なってこそ応援らしいといえるはずです。
ただ“あればいい”“いればいい”というのでは…。
見ている者も思わず声援を送りたくなるような応援風景が見たいものです。
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応援団をやっていたからこそ、相通じるもの…。
おばらさんと私との「会話」で、読者の皆さんが何かを感じて下されば、私としては本望です。
『鳴り物が鳴ってればよし、ではないでしょう。鳴り物に肉声が重なってこそ応援らしいといえるはずです。ただ“あればいい”“いればいい”というのでは…。』
この部分、本当に同感です。
『見ている者も思わず声援を送りたくなるような応援風景が見たい』
私も、それを期待して、高校野球中継を見ています。
過去に、こんな記事や、あんな記事で、応援のスタイルに対する不満みたいなものを書いてきたけれど、その不満は、全く解消されていないです。
高校名を挙げて批判するのは良くないけれど、奈良・天理高校の「応援スタイル」…どうしても我慢できません。
私が少年だった時からの「甲子園常連校」だし、吹奏楽も全国のトップレベルにあることは認めます。
でも、その「吹奏楽の力」で、選手を「応援」するスタイル(やり方)は、やっぱり違う気がします。
これは、高校で応援団に入部する以前から、ずっと思ってきたことです。
で、実際に自分が応援団を3年間続けてみて思うのは、やっぱり「リーダー」が指揮して、皆と共に母校を応援するスタイルが、おばらさんが仰る「鳴り物に肉声が重なってこそ応援らしい」というレベルに近づいていくはずだ…ということです。
私の母校の、埼玉県立春日部高校の応援団が『応援指導部』なのも、その「一体感」を作り出そうという願いが込められているからです。
応援団(リーダー)は、そのため「だけ」に存在していると言っても、決して過言ではないと思っています。
ですが、どうでしょう?
近代になって、バッターボックスに立つ選手ごとに、曲を変えて吹奏楽を鳴らす「ヒッティングマーチ」形式が多くなり、先の天理高校の様に、攻撃中ず~っと何らかの曲が吹奏楽で鳴っているという形式が、目立っている気がしませんか?
いつの間にか、それが「正」になってしまっているのは、私達が現役の頃の応援スタイルが「古い」し「流行らない」からなのでしょうか?
それとも、応援のスタイルとは、時代とともに変遷するのが「当たり前」なのでしょうか?
私は、違うと思っています。
時代は変わっても、「応援の本質」みたいなものは決して廃れないと、私は今でも信じています。
「時代の趨勢」で、鳴り物にまかせる今のスタイルが「正」となってしまうのは、あまりにも寂しい…と、強く感じます。