漠とした表現で恐縮であるが、最近、ますます世の中の閉塞感が強まっている感じがしてならない。多くの識者がいう通り国内政治の停滞などが国債暴落リスクを高めており、悪性インフレの香りすら漂い始めている。私も、やれワタミだ、林原だ、ソフトバンクだなど間抜けなブログ記事を書いている場合ではない。ただ、この先どうやって生きていけばよいのか、不安は雪だるまのように大きくなっている。
そこで最近は先人の知恵から直接学ぼうと遅まきながら古典や名著に触れるようにしており、特に気分がさえない夜にはこの本をひもとき、自分を奮い立たせるようにしている。
<概要文:まとめるとこんな感じ>
ユダヤ人精神分析学者によるナチス強制収容所体験記。著者は悪名高いアウシュビッツとその支所に収容されるが、想像も及ばぬ苛酷な環境を生き抜き、ついに解放される。
著者は学者らしい観察眼で、極限におかれた人々の心理状態を分析する。なぜ監督官たちは人間を虫けらのように扱って平気でいられるのか、被収容者たちはどうやって精神の平衡を保ち、または崩壊させてゆくのか。こうした問いを突きつめてゆくうち、著者の思索は人間存在そのものにまで及ぶ。というよりも、むしろ人間を解き明かすために収容所という舞台を借りているとさえ思えるほど、その洞察は深遠にして哲学的である。
特に気に入った箇所を、自分が後日見返しやすいように以下に記しておく。参考にされたし(太文字は私によるもの)。
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p.124
来る日も来る日も、そして時々刻々、(中略)(収容所内の)むごたらしい重圧に、わたしはとっくに反吐が出そうになっていた。そこでわたしはトリックを弄した。
突然わたしは皓々と明かりがともり、暖房のきいた豪華な大ホールの演台に立っていた。わたしの前には座りごごちのいいシートにおさまって、熱心に耳を傾ける聴衆。そして、わたしは語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。
今わたしをこれほど苦しくうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される…・・・・この描写のおかげで、わたしはこの状況に、現在とその苦しみにどこか超然としていられ、それらをまるでもう過去のもののように見なすことができ、わたしをわたしの苦しみともども、わたし自身がおこなう興味深い心理学研究の対象とすることができたのだ。
スピノザは『エチカ』のなかでこう言ってなかっただろうか。
「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」(『エチカ』第5部「知性の能力あるいは人間の自由について」定理三)
しかし未来を、自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。
p.129
必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。
p.155
強制収容所の人間をしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だ。
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極限の閉塞状況の中で、現在の苦悩を過去のものとして置き換えてみるという発想は目からウロコ。ホントに凄いと思う。
よくよく考えてみれば、どんな時代でも先行きは不透明。現在も確かに閉塞状況にあるが、著者の置かれていた状況と比べればなんと恵まれていることか。
そんなわれわれが自分たちの未来をイメージできないでどうする、と言われているような気がする。
あなたは、人生が自分を待っていますか?
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そこで最近は先人の知恵から直接学ぼうと遅まきながら古典や名著に触れるようにしており、特に気分がさえない夜にはこの本をひもとき、自分を奮い立たせるようにしている。
夜と霧 新版 | |
ヴィクトール・E・フランクル | |
みすず書房 |
<概要文:まとめるとこんな感じ>
ユダヤ人精神分析学者によるナチス強制収容所体験記。著者は悪名高いアウシュビッツとその支所に収容されるが、想像も及ばぬ苛酷な環境を生き抜き、ついに解放される。
著者は学者らしい観察眼で、極限におかれた人々の心理状態を分析する。なぜ監督官たちは人間を虫けらのように扱って平気でいられるのか、被収容者たちはどうやって精神の平衡を保ち、または崩壊させてゆくのか。こうした問いを突きつめてゆくうち、著者の思索は人間存在そのものにまで及ぶ。というよりも、むしろ人間を解き明かすために収容所という舞台を借りているとさえ思えるほど、その洞察は深遠にして哲学的である。
特に気に入った箇所を、自分が後日見返しやすいように以下に記しておく。参考にされたし(太文字は私によるもの)。
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p.124
来る日も来る日も、そして時々刻々、(中略)(収容所内の)むごたらしい重圧に、わたしはとっくに反吐が出そうになっていた。そこでわたしはトリックを弄した。
突然わたしは皓々と明かりがともり、暖房のきいた豪華な大ホールの演台に立っていた。わたしの前には座りごごちのいいシートにおさまって、熱心に耳を傾ける聴衆。そして、わたしは語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。
今わたしをこれほど苦しくうちひしいでいるすべては客観化され、学問という一段高いところから観察され、描写される…・・・・この描写のおかげで、わたしはこの状況に、現在とその苦しみにどこか超然としていられ、それらをまるでもう過去のもののように見なすことができ、わたしをわたしの苦しみともども、わたし自身がおこなう興味深い心理学研究の対象とすることができたのだ。
スピノザは『エチカ』のなかでこう言ってなかっただろうか。
「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」(『エチカ』第5部「知性の能力あるいは人間の自由について」定理三)
しかし未来を、自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。
p.129
必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。
p.155
強制収容所の人間をしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だ。
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極限の閉塞状況の中で、現在の苦悩を過去のものとして置き換えてみるという発想は目からウロコ。ホントに凄いと思う。
よくよく考えてみれば、どんな時代でも先行きは不透明。現在も確かに閉塞状況にあるが、著者の置かれていた状況と比べればなんと恵まれていることか。
そんなわれわれが自分たちの未来をイメージできないでどうする、と言われているような気がする。
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明日殺されるかも知れぬ身の人たちから比べれば、日本国内の問題なんか問題じゃないですよね。心が腐りかけていた自分にとってすばらしい言葉が込めれれたこのブログを読むことができ財務アナリストさんには心より感謝いたします。