図書館で日本文学史を手に取り(勿論買ってもいい)、昭和時代以降、詩人として認定を受けた人は数十人いるが、詩人自らによる朗読を聴いたことのある一般人はそんなに多くないだろう。
YouTubeの無かった時代は、詩人の自作朗読を聴くには肉声しかなく(極めて稀にレコード)、朗読会も仲間内に限定されたもの以外は存在しない時代背景があった。一般人が交通費や会費を払ってわざわざ詩の朗読を聴きに行くことなどあり得なかったわけだ。
ぼくは、大学の詩歌論の最初の講義で神保光太郎先生が自作詩、もうひとつ、音源で尾崎喜八が自作『ある晴れた安息日の夕暮れに』の朗読を聴いたことがある。それらの朗読は、テレビなどで『プロの歌手』が歌うのと『シロウトがカラオケで歌う』のとほど違いがあった。具体的には抑揚、強弱があり、まさに歌い上げるような音声表現であった。
YouTubeで詩の朗読をしている人は少なくないが、どれを聴いてもカラオケでシロウトが歌っているような印象のものがほとんど。それを排斥はしないが、聴く側は、それらは飽くまで詩人本人が創作時の気持ちを込めて行う朗読とは随分かけ離れたものであることを覚えておくのがいい。
(タイトル・カットは、昔、ちょうど黄金週間の頃、葉山港近くの海岸で読書する水口イチ子。この直ぐ後ろまで民家が迫り、ぼく達の友人が通年でビーチハウス兼レストラン・バーを営んでいた。)