かつて、京王線明大前駅から歩いてすぐのところに、とある私設美術館があった。資金の都合からか、今は、もう無い。間口が狭く、見過ごしてしまう人も多かったに違いない。
さて、そこは、もはやこの世にいない、ある女流画家の『絵のない美術館』 —— なぜ絵がないかというと、関東大震災で、そのすべてが焼けてしまったから...。
彼女の画業は、その詩画集出版のために版元が撮影した数枚の天然色写真と白黒写真に残るのみである。
画家の名は、高間筆子。
資料によると兄は、大正から昭和にかけて少なからず名の売れた鳥類画家・高間惣七。余談だが、そんな兄の作品も今はもう簡単に観ることはできない。東京芸術大学が同大美術館で卒業制作の自画像展を開催する機会に、注意していれば辛うじて見つけられるだろう。
さて、その高間筆子は不運にも大正中期に世界的に流行したスペイン風邪にかかり、高熱を発して以来、いくぶんおかしな言動をするようになったという。そのリハビリを兼ね、筆子は、兄のアトリエで絵を描くようになる。
ある時、アトリエに出入りしている兄の画友が、
「オイ、高間、筆ちゃんの色使い、すごいじゃないか!」と言い出したことで才能の開花が認められ、画家の人生を歩み始める。
窪島誠一郎(著)『高間筆子幻景―大正を駆けぬけた夭折の画家』にあるとおり、作品は、発熱で視神経まで冒されたのかと疑いたくなるほど、絵の具の大胆な選択と混合。
筆子が画家として生きたのは、最初にスペイン風邪にかかり、次に再びスペイン風邪にかかるまでのわずか二年間。
二度目のスペイン風邪で再び高熱を発した筆子は、床に伏せていた二階の部屋の窓から発作的に飛び降りる。
死因は、頭蓋骨破裂。享年二十一才。
『才媛の洋画家 飛び下り自殺』と当時の新聞は伝えている。