最近の書評家やライターは、作家に敬意を表してか、或いはおだててか、安易に『文豪』の敬称を送る。
文豪の『豪』は、富豪(超々金持ち)の豪と同じ価値を持つ必要がある —— 例えば数百億円持っている人を富豪と呼ぶなら兎も角、百万円や二百万円の貯金の一般人を富豪とは呼ぶのは間違っている。まあ、馬鹿にして呼ぶなら話は別だが。
文豪とは、国民の多くが、彼の作品を読んだことはなくても、作品の題名のひとつやふたつ覚えていて、なおかつ『執筆総量が膨大』な作家を指す。明治以降ならば鷗外、漱石、荷風は問題ないにしろ(分厚いハードカバーの全集が四十巻前後をもって編まれている)、戦後は、超ベストセラーがあっても、まだ作品数自体が少ない若い作家を文豪とは呼称しないのが教養というものだ。
かつて、大学生の頃、指導教授と雑談で、
「戦後売り出した作家で、質・量共に文豪に値する人っているでしょうか」という話になったことがあった。
「今のところ(70年代)、その可能性があるのは清張くらいじゃないか」というのが先生の意見だった。
【The Animals - Baby, Let Me Take You Home】