『美ヶ原溶岩台地に於ける詩人・尾崎喜八のセルフ・ポートレート』
日頃、文学のことを考えていると、ふと思い出す小説がある。それらに、現代国語の教科書に採り上げられるようなものは少ない。
例えば、そのひとつに登山家・川崎精雄(かわさき・まさお 1907~ )の『尾瀬の犬』がある。
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私に、尾瀬の馴染みの山小屋の主人から葉書が届く。番犬を兼ねて飼っていたメスの狩猟犬が母親になったから、子犬をもらってはくれまいかという内容である。幼い二人の娘も欲しがったので、もらいがてら娘達と小屋へ出かけて行くと返事をした。
子犬をもらって以後、私と娘達が小屋を訪れるたびに、シロと名付けたその犬も私達に同行し、峠道を歩いて越えて小屋へ通った。
シロをもらって何年か経った年の、小屋からの帰りの山道、シロは先に走っていくと、歩みの遅い私達を立ち止まって振り返る。シビレを切らすと戻ってきて、後ろを遅れて歩く幼い娘達の側まで走っていく。そしてまた、先に走っていってしまう。
何度もそれを繰り返し、シロが娘達の側まで行った時、突然背後で娘達の叫び声とも悲鳴もとつかない声が上がった。ハッとして私が振り返ると、娘達の近くで熊が立ち上がっているのが見えた。シロは、娘達と熊の間に割って入り、熊を吠え立て、対峙した。
シロの熊を威嚇する後ろ姿に、猟犬の母親譲りの闘志が見る見るうちにみなぎってくるのがわかった。
熊は、恐れをなし、退散する。
あらすじは、たったこれだけの掌篇である。しかし、小説の要件のすべてがコンパクトに取り入れられている。
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この掌篇、今となっては伝説となった、山の文芸誌『アルプ(昭和33年3月 ~ 昭和58年2月・通算300号)』の一冊に掲載された。この作品は、恐らくここでしか読めないのではないか。
『アルプ』-----アルプスの森林限界を超えた草原-----は主筆に哲学者・串田孫一、寄稿者に詩人・尾崎喜八、作家・深田久弥、版画家・畦地梅太郎、画家・辻まこと等延べ600名。25年間にわたり掲載された、これら芸術家達による文芸作品は、写真、絵画も含め、およそ五千数百点。『アルプ』には広告はなく、執筆者への原稿料も随分滞ったようだ。
山の自然を賛美し続けた300号という労作は、いよいよ昭和58年2月号をもって終刊に至る。
最終号で主筆・串田孫一は、噛んだ唇から血が滲むような悔しさをもって書いた-----文明がもたらした『自然と人の心』の破壊に対し、文学と美術はまったく無力であったと.....。
FINIS
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