『神官は王を狂わせる』は…今回のお話は戦争を馬鹿にしているとしか思えない戦争の終わり方でした。まず、虹髪虹瞳というだけで“ありがたや”と平伏するのが理解できません。羅剛は純粋に冴紗自身を愛しているので、アホかこやつらはと呆れるのには同感です。
大神殿の最長老を首魁とする神官どもは虹髪虹瞳の冴紗がは天帝《虹霓神》が遣わした《虹の御子》だから王宮に引き取られても、すぐに大神殿に渡すのが当然だと思っていて、いつまで経っても渡そうとしない羅剛に不満を抱き、永均に騙された羅剛が冴紗を守るために一時預けたのをいいことに返してくれと言っても無視して4年が過ぎました。冴紗は羅剛がずっと自分を取り戻そうと必死だったのも知らず、近衛騎士となる夢を潰して神官にしたことを恨んでいたのですから呆れます。大神殿に冴紗を追い払って羅剛から引き離すべく吹き込んだけれど嘘ではなく軍に入隊したままにしておいたら、時を置かずして男という男が一人残らず獣欲を滾らせたケダモノと化して輪姦されていた窮地を羅剛に救われたのに冴紗の恩知らずが。
最長老と5名の長老どもに宗教的洗脳を施され自分は《虹霓教聖虹使》としてあらねばならぬのだと思い込んでしまった冴紗は神官になりたくなかった、もっとやりたくない《聖虹使》の責務を押しつけられて虹霓教を忌み嫌う自分の本心を忘れ、《聖虹使》の果たさなければならない理由はないのに、否応無しに責務を無理強いされているのに続けるのですから、何を考えているのでしょうね。《聖虹使》を続けることで羅剛と侈才邏のためになると思い込んでいますが、逆に苦しめるだけだとわからないようです。
そして、《聖虹使》は他の人々にとっても害毒でしかありません。信仰という名目に隠した依存と甘えを吐き出し縋るだけの民が口先だけの優しい言葉で一時癒されたとしても、その代わりに人々は自分でどうにかしようと努力することを忘れ、自分の足で立ち自分で歩くことを忘れます。その中には獣欲を滾らせ口説き落として凌辱しようと企む碣祉王のごとき輩も混じっています。一旦は冴紗の言葉に従ってもいつまで保つか?仮面をつけていても冴紗を我が物にしようと略奪を企んで羅剛を罠に嵌めて殺そうとした男です!冴紗の顔を見てしまったら、なおのこと抑えが効かなくなるのは確実です。
そして、努力すれば解決する些細なことまで冴紗に背負わせ縋る愚民に自分の力で生きることを忘れさせ、獣欲を掻き立てさせている元凶は他ならぬ冴紗なのですから、我が身を守り道を踏み外させず自分で歩くことを忘れた民を他国から来る人々を本当に思うなら、優しい言葉をくれると期待して縋りつく《聖虹使》という甘えの対象であることを辞めるべきです!冴紗は男を狂わす魔性ゆえに誘惑のフェロモンを迸らせているので獣欲の対象でなくなることは不可能ですが。しかし、虹霓教からは冴紗は足を洗うべきだと思いました。最長老を含めた神官どもが《聖虹使》は、神の御子は天に還られた…つまり、死んだということにして羅剛に返す気になる日は来るのかしら?
冴紗は自分のことしか考えておらず、羅剛の苦悩に思い至らない。苦悩も冴紗に対する優しさもない神官どもに騙され、奴らに哀しみと苦悩を味わわせていると思い込んでいる冴紗はやはり木偶でしかない。侈才邏の掟を利用して衆人環視の中で《婚姻の儀》を行った羅剛の恋する冴紗を晒し者にしてまでも《銀の月》として見せつけた恋の暴走の前に遂に永均や宰相を筆頭とする重臣どもは羅剛&冴紗を引き裂く愚挙を断念しました。
何故ならば、「Ⅸ 婚姻」で衆人環視の中で冴紗を凌辱するという強硬手段を行い恋する冴紗を晒し者にしてまでもかまわぬ狂おしい恋心ゆえに“侈才邏王家の国王は正妃一人に精を与える!それ以外は、妾妃を幾人娶ろうとも精を注ぐことは許されない!!”という侈才邏の真の掟を利用して重臣どもから下働きに至るまで王宮中の人間を呼び集め、冴紗を凌辱するという形で精を注ぎ《婚姻の儀》を執り行い、平たく言えば公開プレイを見せつけた羅剛をと非難しましたが、私はよくぞやったと拍手しました。王たる者はどーとかこーとか永均や重臣どもばかりか好き勝手なことを言って冴紗までもが人間としての羅剛の心を無視したことばかりです。羅剛も勝手にアレコレ言う連中の…誰よりも肝心の冴紗に反論など出来ぬことをしてやって立派だぞ、と私がその場にいたら褒めてあげたのに。
「Ⅸ 婚姻」で“王!我が命をかけても、お諌め申し上げまするぞ!このお方が、虹のお方であろうがなかろうが、あなたさまのなさったことは、人としての道義に悖りまする!”と非難した永均には呆れました。正論ぶった屁理屈を振り翳して2人を引き裂いた自分たちこそが本当の意味で“人道に悖る行為をしでかしたのは…王である前に一人の人間である羅剛様の心を踏み躙ったのは我々だ”と漸く己の罪を悟った永均は「Ⅹ 祈り」で竜騎士団と共に羅剛の求婚に随行し冴紗に受けるように勧めました。それなのに、“王の手をとってしまったら、神殿や民を裏切ることになる。自分は幸せになれても、人々を切り捨てねばならぬ。それであったら、なんのためにいままで、せつない恋心を抑えてきたのか。”と自分たちを引き裂いた片方の元凶である大神殿を捨て、侈才邏の民を含めた詣でる人々を切り捨てることなど何とも思わないくせに、この期に及んで羅剛の手を拒み逡巡する振りをするのは何故か?羅剛のためだけに生きているのならばその他大勢などどうでも良いだろうに。「Ⅷ 美優良王女」で“……まわりが、…まわりの方々が、それを許さぬ。王と自分との恋は、人々を裏切るものなのだ。”と自分が小心者で卑劣なのを羅剛にまで押し付けるな!その他大勢が許さなかったら皆殺しにしてしまえ!この腐れ女が!!お前など羅剛には勿体無い。それなのに、羅剛よりも高位にあるなどという設定は間違っている。
最長老に《侈才邏王妃》と《虹霓教聖虹使》の二役をせよと命じられて漸く羅剛との婚姻を承諾するなんて、羅剛を恋するから求婚を受け入れたことにはならない!最長老と5名の長老どもに宗教的洗脳を施され虹霓教の木偶でしかない冴紗の愚はこの先も羅剛と侈才邏のためだと思い込み《聖虹使》の猿芝居を続けることで羅剛を苦しめ続ける。
冴紗には自分が神官として入ったというのは表向きの名目であることや、この4年間、再三にわたる羅剛の返還要求を隠蔽し冴紗に羅剛を恨むがままにさせていた大神殿の首魁である最長老は、羅剛&冴紗の幸福など踏み躙って冴紗を現人神に仕立て上げ操ることしか考えていない!「Ⅱ 大神殿での冴紗」で“他者の痛みをみずから痛みとして感ずることこそ、虹霓教の教えでございますよ”とほざいたが、羅剛を慕う冴紗の心の痛みを無視して《聖虹使》を強制して、冴紗を返してくれと懇願する羅剛の声を無視し彼の心を踏み躙り続けた腐れ外道が言っても説得力はありません!その魂胆は、王妃となった冴紗を介して国を虹霓教の思い通りにする道具と化し国も民も支配しようと企んでいるのです。
雑誌掲載時の扉絵の裏に書かれているキラの悲劇の元凶であるアッシュ公国の公王(或いは大公)ズール公の妃となったジオ皇女イリスの言葉は読み返すたびに心を抉られるようです。『銀のレクイエム』は1993年に大幅に加筆修正して角川ルビー文庫で初の文庫化された時に幾らキラが皇帝ルシアンとその皇妹であるアッシュ公妃イリスとは乳兄弟の幼馴染でもタメグチで“ルシアン”“イリス”と呼び捨てなんて無礼千万ですし、皇帝ルシアンの側近サマラも主君と挙式後はマイラは皇后なのに彼女を“マイラ”と呼び捨てにしていたのは改めて当然です。しかし、変更すべきだったのに抜け落ちている点は、“ソレル王家をソレル皇家に変更”しなかったことですね。帝王とは皇帝の別称ですが雑誌掲載時のモノならば“王位を継いだ”とあり国王という感じなので、まだ王家でも良いのですが、文庫版で“ジオ皇帝を継いだ”と加えているので“ソレル皇家”とすべきだったのです!どうしても“~家”としたかったのなら。
それにしても、謎は幾つもあります!それは『小説JUNE』掲載時はキラの母の名はマミカであり一度は嫁いだけれど夫の死後にルシアン&イリスの母シアヌークに請われてキラを連れて後宮に戻ったということだったのに文庫版では名をアーシアに変えてキラを何処の馬の骨とも知れぬ輩と陰口を叩かれ後ろ指さされる境遇に堕とすためにアーシアを誰にも嫁がずにキラを産んだという設定に変更したことと、雑誌では“宮廷医師エンゲルト”だったのに文庫版では“薬師(くすし)ジェナス”に変更したのが不可解です。
そして、角川ルビー文庫では雑誌掲載と同じく『銀のレクイエム』なのに、KAREN文庫Mシリーズでは“「レクイエム」を「鎮魂歌」と書いて「レクイエム」”と読むに改題したことです。何故でしょうね?タイトルについては雑誌掲載時には目次では『銀のレクイエム』で、表紙&扉絵を見ると『銀の鎮魂歌』と書いて“レクイエム”と読むのではないかと思われるのですが、推測ですが“レクイエムと書いて鎮魂歌という意味だ”と言いたかったらしいです。
流石は“[ジュネ]-今、危険な文字にめざめて”と表紙に書かれているだけあって、雑誌掲載時の折には初夜のキラは12歳です。17歳のルシアンとは1歳プラスした5歳の差であり、その馬鹿殿が誤解から裏切られた
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それでも、17年目の16歳で生涯を閉じるのと19年目の18歳というのでは、変わらないようでいて差は大きいかしら?
小説のイメージをアップさせるか否かを左右する重要な要素である絵をこんな酷いモノにするなんて信じられません。角川文庫で復活した山藍紫姫子先生の『アレキサンドライト』は挿し絵が皆無で唯一の絵である表紙を描いた小島文美さんなので、大丈夫だろうと思ってしまったのが間違いでした。
表紙のキラの左側にある翼は傷ついているらしく血があり、11弦の竪琴を爪弾くキラの指は血に塗れ、その竪琴の絃は切れていて悲恋ゆえにただでさえ暗いのに、より心が沈んでしまう絵ですが大丈夫だと安心してしまいました。ところが、中を見たらガッカリしました。『アレキサンドライト』のように表紙だけだったら良かったのに!重要な要素なのだから、きちんと考えてイラストレーターを決めて欲しいですね!!五百香ノエルの作品も文章と絵がそぐわず酷いものです。
この世では結ばれない愛がある★KAREN文庫Mシリーズ★「ぼくとルシアンさまの絆はあのとき断ち切られてしまいました…」
愛が憎しみに、光が闇に。青年王ルシアンの寵愛を一身に受けていた小姓キラが、王の妹と関係をしたという誤解から、まっさかさまに転落しゆく運命を描いた哀感のメルヘン。
ジオの新しい夜明けを告げる皇帝の婚姻の鐘が鳴り響くと書かれていますが、実際にはキラ・カムスの最初で最後の恋を引き裂き彼の命を19年目の春に断ち切った罪が終焉を齎すジオの黄昏を告げる葬儀の鐘です。
15歳でジオ帝国(或いは皇国)の帝位に就いた皇帝ルシアン・ゾルバ・レ・ソレルは暴走するだけの猪であり思慮分別に欠けていて逸材とはお世辞にも言えないですね。ソレル皇家が世継ぎを得られずキラがそばに侍っている限りルシアンは女の肌に触れようとさえしない事実を危惧した重臣たちにキラを癌だと思わせた元凶は次代に皇家の血を繋ぐ責務を果たそうとしなかったルシアン自身であることは確かです。それ故に、キラを死に追いやってしまったのです。ところで、キラ&ルシアンの想いはキラが追放された2年前の16歳の時までは《恋》であって《愛》ではありません。皮肉にも2人の想いが《愛》に成長したのは次の夏を望めぬ余命幾ばくも無い身となった心の臓を病むキラがジオに戻り、紆余曲折の末に2年前の事件が激情ゆえの誤解だとルシアンが知った時です。
5年前、17歳の誕生祝いにと13歳のキラに“おまえの操を貰おうか。”と寝所に召して契りを交わして以来、ルシアンは人目も憚らずキラをの肌を求め縁談を蹴散らしていた。自分は世継ぎをなす種馬ではないと、これ見よがしにキラの部屋に入り浸る日々が繰り返されるばかり!重臣たちが妾妃腹でも良いから世継ぎを…或いは正妃を娶る気にさせようと異性であり子を産める女を伽(とぎ)にと差し出しても突っ返され、“このままでは代々直系の男子をもって帝位を継ぐソレル皇家の血が絶える”と恐怖したのは無理もありません!僅かなりともクズの重臣どもにも同情の余地がありそうです。如何に節度を持ってルシアンに尽くすとはいえ、やはり誰にも嫁ぐことなくキラに父が誰かを告げずに死んだ母アーシアが元凶ゆえの何処の馬の骨とも知れぬ輩と後ろ指さされルシアン以外に寄る辺無き我が身ゆえに恋に溺れていることに違いはないキラですが、ルシアンが聞く耳持たないだろうけれどお世継ぎをと心を切り裂かれるような痛みを堪えてでもキラは告げるべきでした。しかし、まだ10代のルシアンに口煩く“お世継を”と吠え立てる重臣たちはどうかしている。もっと先でも良いのに、年寄りはせっかちだ。
ジオの皇帝はすげ替えが出来るけれど、皇帝である前にルシアンという一人の人間は唯一無二です。皇帝である前に一人の男なのに、サマラが“ルシアンさまはひとりの青年(おとこ)である前に、ジオの帝王でもあられるのだ。そのどちらが重きをなすのかと問われれば、我らは、ためらいもなく“帝王”としてのルシアンさまだと答えるだろう。ジオの帝王の座は唯一無二だが、愛情の対象などいくらでもすげ替えがきく……そう思ったからだ。我らジオの臣下にとって、おまえは、まさに目の上のコブだったのだ、キラ……。しかしな、我らはそのことのみに汲々(きゅうきゅう)とするあまり、無理やりねじ曲げたものは、いつか、どこかで亀裂が生ずるものだと、気付きもしなかったのだ。いや、憎しみも心の傷も、時が立てば癒えるものだと、そう、たかをくくっていたのかもしれぬ。”と自分を裏切ったと思い込んで目を覆うばかりの拷問を繰り返し背を切り裂いて2度と人目に晒せぬ傷を刻んだルシアンの誤解を事実だと思い込ませたままにしたことが間違いだと罪を犯した2年後になって罪の重さを悟ったのかと思えば、自分たちが罪を償うべき相手である被害者のキラにジオから出て行ってくれと金を渡そうとするなんて腐っています、この男は。深夜、皇妹イリスと一緒にいただけで不義密通をしでかし、キラが自分を裏切った と思い込んだルシアンが一番悪いのですが。
キラはルシアンの魂の半身であり、ルシアンはキラを失って生きていける人間ではありません。生涯ただ一度の恋さえ自ら壊してしまうほどに激しくも脆く弱い男だからキラの死を葬り去り、キラは生きていると思い込んでしまうラストには、そうでなくては死んだキラが単なる被害者にされてしまうから良かったと思います。健常体の女というだけで誰に憚ることなく皇后となり世継の男子を成すことが出来るのだと優越感に溺れ“ルシアンの永遠となったキラ”をこえられるとふんぞり返るルシアンの正妃マイラが我が世の春を謳歌するのは束の間であり、それが自惚れゆえの錯覚でしかないと悟るのはすぐです!世継ぎが生まれたらルシアンはセレムの離宮に籠り“キラ”と2人だけで愛に生きていくでしょうから…そして、ジオは滅ぶのです。
画像は、不細工な絵のKAREN文庫Mシリーズの『銀の鎮魂歌(レクイエム)』です。ドラマCD脚本も収録されていますが、絵に問題あり 同じ波津彬子さんの描いた絵なのに、角川ルビー文庫のモノより『小説JUNE』掲載時の方が儚げで美しいキラが描かれていて、雲泥の差なのは謎です。
暴走することしか知らない恋の猪である若き帝王ルシアン・ゾルバ・レ・ソレルの身勝手すぎる言動の犠牲になったキラを誰一人として守ろうとせず、放逐した宮廷の者ども。自分は種馬ではないと言い放ち、これ見よがしにキラの部屋に入り浸り、子を産める異性の伽を差し出してもつき返し、縁談さえ蹴散らしたルシアンの思慮の無さがキラを悪者呼ばわりし死に追いやってしまった。ルシアンが真相を知った時には既に遅くキラは次の夏を望めぬほどに心の臓を煩い、夢に見たナイアスの花びらの中に儚く散ったのです。
吉原理恵子は悲劇しか描けない(?)のだろうか、と恨みたくなるくらい私は冤罪に便乗した重臣たちに謀殺された『銀のレクイエム』の主人公キラ・カムスが愛しい。更には何故、KAREN文庫Mシリーズで復活したけれど“レクイエム”から“鎮魂歌と書いてレクイエムと読む”に改題したのでしょうか?表紙は辛うじて華麗なと言えなくもないキラが描かれているけれど、挿絵のキラ&馬鹿殿ルシアンは不細工で、『小説JUNE』に掲載された『銀のレクイエム』で描いた時のような波津彬子さんの絵に戻して欲しくて泣きたくなります。
画像は、絶版となりAmazonとかでしか入手不可能な、初めて文庫として出版された角川ルビー文庫の『銀のレクイエム』です。『JUNE』掲載時の絵よりは同じ波津彬子さんが描いたのに何故か下回るけれど、表紙のキラも美しく儚げで挿絵も今回のKAREN文庫Mシリーズなど足元にも及ばぬ素晴らしさです。
主人公ジム・ストリート(CV=竹若拓磨)の忠告を聞き流したSWAT隊員の1人だったブライアン・ギャンブルは自信過剰から待機命令を無視して独断で店内に侵入し、犯人グループに発砲してしまった。ギャンブルの人質の安全を無視した暴挙により、人質の女性は辛うじて助かったけれど負傷してしまう。
ギャンブルに引きずられるように行動したストリートが犯人を確保し、何とか事件は解決したものの、ギャンブルが命令無視をしでかした上に人質に怪我を負わせた責任は重いのに元凶のギャンブルは反省せず、不当な責任追及だと憤慨するばかりでした。直接の上司ベラスケス警部補が必死に庇い諭しても聞こうとせず、小役人の責任者フーラー警部はギャンブルと彼を止められなかったストリートを責めた。
それでも2人を庇うベラスケス警部補が嘆願してくれたおかげで処分は武器庫の管理への移動という比較的穏便なものになったというのに、ギャンブルはベラスケス警部補に感謝もしなければ巻き添えにしたストリートにさえ謝罪しませんでした。
帯には「神官は健気な美人、王は不器用な暴君」とある『神官は王に愛される』&『神官は王を狂わせる』、それに続く第3巻『神官は王を恋い慕う』にも同じ言葉が最初にあるでしょうが“健気な美人”って誰かしら?被害妄想で羅剛に疎まれていると思い込んで羅剛に恨み言をぶつけ、誰にでもいい顔をし綺麗事を並べて自分だけは安全圏にいようと黙秘し、騒動が鎮まるのを待っているだけで何もしない冴紗のことですか?冴紗を大神殿に奪われ、王宮も重臣どもも父のように想う永均さえ自分の信頼を裏切って敵と化すいう孤立無援の羅剛をこそ健気と言うのです。
羅剛は孤独でした。その孤独を癒してくれる冴紗という光を自ら大神殿に奪われる口実を与えることになってしまったのは、誰よりも信頼していた永均に裏切られたからです。騎士となって羅剛を守る夢を抱いていても誰でも向き不向きというモノがあるのに、獣欲に滾る荒くれ兵士も騎士と謳われるに相応しい男でも、ありとあらゆる男を狂わせる聖なる魔性であるがゆえに、男を狂わせるフェロモンを放つ冴紗が騎士団に入隊を希望したことが間違いだったと本人はわかっていません。羅剛にしか抱かれたくないと言っているけれど本当は誰だって良いのです!誰にでも抱かれて歓ぶのが多情多恨の淫売でしかない冴紗の本性です!!他の複数の誰かに輪姦されて最初は嫌がっても、やがて歓んで抱いて欲しいとさえ懇願するでしょう。
冴紗は神官になりたくないと思っていて《聖虹使》などには尚更になりたくないし、大神殿を牢獄と疎んでいるのですから、そして、神官になれという王命は預ける名目にすぎず羅剛は神殿に預けただけで本当に神官にしたわけではありません。羅剛が戻って来いといったのですから、虹霓教と縁を切って大神殿から王宮に戻ればいいのに冴紗は自分を疎んで大神殿に追い払ったと被害妄想に浸って、恨み言を羅剛にぶつけてしまいます。
羅剛が戦乱に巻き込まぬためと兵士たちの獣欲の毒牙から守るために冴紗を“一時、預けた”だけなのに、王宮に置いても大丈夫だと判断して、いざ、冴紗を返してくれと羅剛は言いますが、最長老を首魁とする神官どもは冴紗を宗教的洗脳を施し自ら王宮に戻れぬと思い込ませ、羅剛の返還要求も無視しました。冴紗にも神官として迎えられたのではなくて神官という名目で預かっただけで、危険がなくなれば王宮に戻れるとは教えず、真実を隠蔽していたのですから聖職者が聞いて呆れます。牢獄でしかない大神殿に冴紗を幽閉して羅剛の返還要求を無視した大神殿の神官どもを皆殺しにして、虹霓教総本山は山は聖地巡礼の場として残し大神殿は完全壊滅させるのが最善です。
王宮の重臣どもが永均も含めて冴紗を遠ざけようとしたのは、冴紗が同性であることに加えて、羅剛の真名《虹に狂う者》、冴紗の真名《世界を統べる者》、羅剛の従弟・伊諒(いりょう)の真名《次代の王の父》を知って、伊諒とその父以上に冴紗を危険視したからです。それを知って、羅剛から離れようとするのが冴紗の愚かさ、羅剛を不幸にするだけだとわからない愚かさです。
一国の王である前に一人の人間である羅剛の心が死ねば、王である羅剛も死ぬと冴紗だけは理解しなくてはいけなかったのです。人間である羅剛の心を殺してまでも一国の王である羅剛を優先させた冴紗に、果たして恋愛感情が本当にあるのか疑問です。羅剛に対する冴紗の想いは主君に対する愛情たる忠誠心を“恋”だと錯覚しているのではないのでしょうか?どうしても冴紗が恋い焦がれているとは信じられません。羅剛も冴紗もお互いの想いは《愛》ではなくて《恋》ですが、羅剛の方が冴紗だけを恋しているだけ、羅剛を恋しているとしても信じていない冴紗よりはまだマトモですね。冴紗は《侈才邏王妃》として羅剛を、そして、その他大勢の《神の御子》という猿芝居で侈才邏のみならず他国の王侯貴族も、世界中の人々すべてを、誰も彼もという多情多恨の浮気者ですから。
各村々に点在する虹霓教神殿はご神体として虹石を飾っているのだから、『神官は王を狂わせる』の「Ⅰ 夢の日々」での“崇めるだけなら、虹石に虹の衣装着せておけばよいではないか。これからも、神官や民ども、虹の石を拝んでおればよいのだ”と《黒龍王》羅剛が言うように虹石を拝む程度にすれば良いでしょう。民が虹霓教を信仰したいというのを無理にやめさせたりせずに好きにさせて信仰するにまかせて《聖虹使》は廃して形骸化させれば自然に廃れ人々は忘れることでしょう。伝説に“そういうモノがあったな”という風にね。