鬼井江の世界(gooブログ)

酷暑の日が続き、畑へ行く日は減っている。読書中心、のらりくらりの日々。

 酷暑の日が多く、弥生時代への関心から、古代日本に関する本を読む日が多くなっている。

「邪馬台国・卑弥呼」に関することが書かれた本を読みなおしている。日本海側地域で発見された遺跡に興味があり、弥生時代や古墳時代に関係する内容の記述を読むと、引き込まれることが多い。山口県・島根県・鳥取県・兵庫県・京都府・福井県の日本海に面した地域では、いろいろな(弥生時代・古墳時代の)遺跡が発見されている。山口県の土井ヶ浜遺跡も興味深い。土井ヶ浜遺跡を訪れたのは、数年前になるが・・・、もう一度ゆっくりと訪れてみたいと思っている。

 76歳になっているので、(体力的・経済的に)遺跡巡りはあまりできなくなっている。歩き旅ですら、ガクンと減ってきた。80歳までに、どれぐらい「歩き旅や遺跡巡り」をできるかなあ・・・? と、時々思うようになった。

 土井ヶ浜遺跡とはどういう遺跡だったのかについては、過去に書いたブログで振り返って、紹介します。

 (以下、過去のブログのコピーです。)

(2020/10/13 記述のブログ)

「土井ヶ浜遺跡見学」  
 昨夜(2020年10月12日)夜行バスで下関に移動した。早朝に到着。下関駅からJR山陰本線に乗り、長門二見駅へ。バスの本数が少ないけれど、なんとか1時間待てば、バスに乗ることがで出来た。長門二見駅から7キロほど北にある土井ヶ浜バス停に到着した。
 遺跡までの行き方の案内板がややわかりにくく、遠回りしてしまった。15分ほど歩くことになった。バス停から近道を歩けば、約3分の位置にあったのだった。
 弥生人の埋葬遺跡『土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム』という立派な施設。
 長門二見駅で、ある老人に「土井ヶ浜遺跡の博物館」への行き方を質問したところ、「そんな施設はあったかなあ?」と言われた。弥生人の遺跡に関心のない人に質問してしまったようだ。みんなが知っているわけではなさそうだった。
 私にとっては「すごいものが見つかった遺跡だ! これは、すごい!」と、うなる遺跡であったが…。

*発掘された砂丘の地に 記念碑が立てられていた。この碑の近くに「土井ヶ浜ドーム」があり、内部に弥生人の人骨(レプリカ)が発掘当時の位置・形のままで並べられていた。

*ドーム内の人骨群 雨風にさらされないように展示されている。砂の中に埋まっていた様子がよくわかる。300体の弥生人人骨が砂丘の中から発掘されたことがよく分かった。
 埋葬されていた人体は、すべて頭部が東向きに埋葬されていた。頭部の目は西の方角(海を見ている形)を向いていた。土井ヶ浜の海の向こうは、まさに中国大陸である。彼らは、中国大陸からやってきた「渡来人」だという説が重要視されている。
 そのことは、遺体の骨の向きが物語っているように、私も感じた。渡来人と日本人とが混血し、文化を伝え、新たな日本を作り上げていったように感じられた。彼らの先祖はおそらく中国大陸にいたのだろう。中国の内乱によって、中国本土に住んでいられなくなり、放浪・脱出してこの地にたどり着いたのかもしれないなあ・・・、と想像しながら、埋葬された遺骨群を見学したのだった。
 (ちなみに実物の骨は別の場所に保管されているとのこと。ドーム内の展示物は、すべてレプリカ。とはいえ、リアルなレプリカだった。)

*石に囲まれた6体の骨もあった。上にかぶせてあった石は横に並べ、内部を見やすくしてあった。この6体はおそらく家族だろう。この集落のリーダー的存在だったのかもしれない。直接砂に埋められていた人骨がほとんど。石棺に該当する囲いの中に埋葬されている骨は少ないから。首長的立場の人だったのかもしれないと、想像できた。
 なぜ、骨は弥生人だと分かったのか? これに対する答えは、骨だけではなく一緒に発掘された土器などの年代測定によって分かったようだ。
 さらに、なぜこの地に埋葬された骨は融けずに残っていたのか? それも300体!? 
 その答えは、この地の砂丘の砂の成分が大きく関係していたのだった。
 一般に骨は土の中で融けていく。1000年以上経つと、跡形もなくなってしまうのが、一般的である。しかし、この砂丘の砂は「砂に含まれているカルシュウム分が遺体に働き、融かしていかなかった。」との説明がなされていた。
 
 要するに、土井ヶ浜砂丘の砂は「特別な砂」だったのだ。
 鳥取県の青谷上寺地遺跡からも弥生人の人骨が複数発掘されている。青谷上寺地遺跡の場合、「水没の持続」によって弥生人の人骨が「真空状態」に置かれていたことが「融けなかった理由」のようだった。
 土井ヶ浜遺跡と青谷上寺地遺跡を比較してみることは「おもしろい」と思った。

 まだまだ素人レベルの遺跡見学者だが、弥生時代を意識することはワクワクします。
 認知症防止のためにも、古墳・遺跡見学は続けたいですね。
 
以上、過去の書いたブログです。
 
 邪馬台国はどこにあったのか・・・という問題は、まだ決定されていない。九州説と畿内説とで張り合っているらしい。しかも、どちらかに断定する根拠や証拠もないままに現在に至っている。
 
 しかし、九州にあった邪馬台国は東へ移動していった、という説がある。つまり、「邪馬台国東遷説」。この東遷説の考え方を書物などで読むと、(なるほど、なるほど・・・)と納得させられる。私も今のところ、「邪馬台国東遷説」を支持している。
 
 また、どういうルートで畿内に向かったのか? については、瀬戸内海ルートと日本海ルートがあるらしい。古事記などを読むと「瀬戸内海ルート」かな・・・と推定できるが・・・。私は、「日本海ルート」だったに違いないと、勝手に想像している。日本海ルートの一か所は「土井ヶ浜遺跡」だったかも…と、一人合点している。
 
 土井ヶ浜遺跡(山口県)  → 出雲王国地域(島根県) → 妻木晩田遺跡(鳥取県) → 青谷上寺地遺跡(鳥取県) → 丹後王国地域(兵庫県・京都府) → 敦賀王国(福井県) → ヤマト政権地域(奈良県)へ
 
 上記のルートで、東遷していったのだろうと(まったくの素人ながら)勝手に想像している。
 
 自分勝手な想像をまじえて、弥生時代・古墳時代に関する書物を読むと面白いですね。(さて、どこかの想像は、当たっているのかな?) 
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