8月下旬になり、真上の家がリフォーム工事を始めた。マンションでは、かなり工事の音が大きく響くので、外出機会を増やすようになった。畑で長く作業していて、帰宅すると、かなり大きな音がするので、やはり落ち着かない。
この暑い季節に、工事をしている職人さんもたいへんである。その部屋の住人は現在不在で、新しい方が10月になれば、引っ越してこられるようである。ずいぶん長い期間のリフォームである。8月下旬から9月末までの工事とのことだから。かなり大々的なリフォーム工事が始まった・・・。 我慢、我慢。
リフォーム工事で音を立てるのは、お互い様なので我慢するしかない。私もかなり以前にリフォーム工事をしたときにご迷惑をかけたことだから・・・。今回は真上の家だから、音がかなり響くのは仕方がない。真上でなくても、かなり離れた家の工事でも、マンションでは「お隣の工事かな?」と、錯覚するぐらいに響くことが多い。マンションに住んでおられる方は、「音のうるささ」を経験されていることだろう。
昨日、「うるさい音」から解放されるために、電車利用の日帰り旅をしてきた。
久しぶりに岡山駅に行ってきた。岡山駅構内のレストランで昼食として、岡山名物「ままかり寿司」をいただいた。久しぶりの味だったので、懐かしい気がした。
高校時代、大阪府から香川県の詫間町にある「国立詫間電波高校(現・香川高専:詫間キャンパス)」に進学したのは、私たった一人だけだった。夏休みなど長期休暇期間は、大阪(堺市)の自宅に戻ったものでした。JR予讃線・詫間駅から、大阪へ向かう時に、時々岡山駅で途中下車。(そのころ)岡山市内には、中学校時代の恩師、S先生がお住まいでしたから。岡山市内の自宅におられるときは、訪問し、お会いすることができました。
岡山県から詫間電波高校に進学された方は多く、長年の友人「柏獅子さん」さんもその一人です。現在、高槻市内にお住まいでカワセミ撮影でプロ級の方、T君も岡山県から詫間電波高校に進学された方です。岡山県の方々は、瀬戸内海を(当時の連絡船)宇高連絡船で渡れば、日帰り可能な距離に(詫間電波高校)はありました。(当時は四国連絡橋はまだ架かっていませんでした。)
柏獅子さんのそのころの自宅は岡山県西大寺市でした。柏獅子さんの自宅に泊めてもらったこともありました。西大寺というお寺は、「はだか祭り」で有名なお寺。全国ニュースとして、流れることがあります。
「はだか祭り」とは、西大寺本堂(御福窓)から投下される2本の宝木(しんぎ)をめぐって、約10,000人のまわしを締めた裸の男たちが激しい争奪戦を繰り広げる祭り。500年以上続く天下の奇祭。この宝木を取った者は、福男と呼ばれ、福を得られると言われている。(近年、コロナの影響もあり、祭りの形も簡略化しているようです。)
約10,000人が参加する祭りはいつの年にか、復活することでしょう。 ちなみに、私は見学したことはありましたが、裸で参加したことはありません。
今回、岡山日帰り旅で、行きは山陽本線で岡山駅へ。帰りは赤穂線を利用しました。西大寺駅で途中下車してみました。駅には駅員が(改札口には)いない、無人駅状態でした。青春18切符利用でしたので、(機械が反応しない)出入り口があったので、そこから駅外へ出てみました。(誰も注意しにくる人はいませんでした。こういう駅が増えているようです。監視カメラで写しているのでしょうが・・・。青春18切符を持っていたので、不正下車ではなかったのですが…。改札口には駅員がいてほしいものです。全国的に、JRも私鉄も「無人駅」が多くなりました。)
不正乗車や不正下車をする人がいる場合、監視カメラで見つけるのかもしれない。おそらく、不正常習客はチェックしていて、何らかの方法で料金を請求するに違いない。(映像が残っていますから。) 無人駅とはいえ、不正乗車・不正下車はしないように。監視カメラが見ていますから。
話を戻します。
岡山駅で下車した理由は、昼食をとること以外に、もう一つ理由がありました。
それは、駅東口広場(こちらの利用者が多い)に設置してある『桃太郎』像を久しぶりに見たかったことと、西口(高速バスターミナルがある)広場に設置してある『吉備の冠者』像をみたかったからでした。
「温羅」に関することは、5年ほど前のブログ内容ですが・・・、読んでおられない方は(長い長い文章ですが・・・)読んでみてください。(かなり読むだけでも時間がかかりますので)忙しい方は暇なときに読んでみてください。読んだことがある方は、お暇でしたら、再度読んでみて下さい。
以上で、今回のブログの一応終了とします。
以下、過去のブログのコピーです。話はリフォーム工事の話から、かなり脱線していますが・・・よろしくお願いいたします。推敲をしないままで、読みにくい箇所が多々ありますが、何とか文意を読み取ってください。
2018/2/18
「鬼」はおもしろいですよ。
以下、ネットの資料より(内容のコピーと補足です)
【 日本の鬼は、いつどこから生まれたのだろうか? 】
●日本書紀に記された鬼
現代にまで残る日本で最も古いとされる文献は「古事記」と「日本書紀」。
その日本書紀の記事に「彼嶋之人言非人也 亦言鬼魅不敢近之」(その島の人は人ではないと言う。また鬼と言われていて敢えて近づかない)、
「有人占云是邑人必為魅鬼所迷惑」(ある人が占いをしてこう言った。必ず鬼のために惑わされると)というものがある。
ここに出てくる「鬼魅」「魅鬼」がオニと読まれているそうだ。これは当時、佐渡島に渡って留まっていた粛慎人(満州に住んでいたといわれるツングース系の民族)のことを鬼と呼んでいる。
つまり、満州に住んでいた外国人(ツングース系の中国人?)= 鬼
中国でも、鬼という文字は異民族や死者の霊魂を示すそうだ。だから、この日本書紀の記事では自分たちとは異なる民を古来より「オニ」と呼んでいて、そこに「鬼」という漢字をあてたということになる。
だから、「古代日本の鬼」とは、妖怪の一員としての鬼ということではなく、自分たちが住んでいる村などの社会の外にいて、自分たちとは異なる文化や習慣を持っているような人たちのことを指していたことになる。
自分たち(日本人)とは異なる文化や習慣を持っている人たち=外国人(古代の渡来人)が「鬼」の扱いを受けることになったようだ。
大陸(主に朝鮮半島)からやってきた渡来人=「鬼」
また、日本書紀の斉明天皇の葬儀(西暦661年)の記事に
「是夕 於朝倉山上有鬼 着大笠臨視喪儀 衆皆嗟怪」(その日の夕方、筑紫の朝倉山の上に鬼がいた。大笠を着て葬儀を覗き見ていたので人々はみな怪しんだ)というものがある。
斉明天皇は当時、唐と新羅に滅ぼされた百済を救うために、現在の福岡県朝倉郡朝倉町にあった筑紫の朝倉宮にいてそこで亡くなったのですが、この「葬儀を覗き見ていた鬼」がいたという内容である。
この鬼については「山の民」であるとか「百済からの移民」であるとか諸説があるようですが、葬儀には似つかわしくない「大笠」つまり大きな箕笠をかぶっていたのは、外の世界からやってきた「稀人(客人・まれびと)」の姿を表しているとも言える。
「まれびと」は自分たちの世界とは違う異界からやってきた「神または神の使いのような存在の旅人」であり、大笠を身につけているというのはその旅人としての象徴ということになる。
古代の日本では
異界からやってくる神のような存在=「鬼」
現代においても、秋田に伝わるナマハゲの鬼が身につけているのも箕笠である。この装束は、決して偶然ではないようだ。日本書紀の記載内容と符合している。
秋田のナマハゲの「鬼」=異界からやってくる神のような存在 ということになる。
以上、ネット情報をコピーし、私なりに補足したものです。
次に桃太郎伝説における「鬼」について、考えてみたい。
*この続きは(その2)へ
2018/2/20
古代において、渡来人は素晴らしい技術や文化をもたらした。日本が弥生時代・古墳時代には「倭(わ)」と呼ばれてたいた。日本人=倭人と呼ばれれていた時代、日本は統一されず、各地の実力者(豪族たち)によって勢力争いが起こっていた。「倭国大乱」の時代があった。
話は「鬼の話」から少し脱線していますが・・・。関係する話なので、お付き合いをよろしく。
3世紀ごろ、倭国大乱を一応平定したのは卑弥呼であり、邪馬台国女王ということになっている。中国の歴史資料によって、「卑弥呼」・「邪馬台国」という存在が歴史に刻まれている。(古代中国の文化は素晴らしい!)
しかし、邪馬台国がどこにあったのかということは(現在に至っても)確定されていない。ほとんどの学者は「畿内説」または「九州説」らしいが、考古学に全く素人の私は別のところだと推定している。確たる根拠はない。素人の勘である。
では、邪馬台国はどこにあったのか?
広い範囲では、中国地方の日本海側沿岸から京都の丹後半島までの間にあったと推定している。
狭めれば、出雲地方(古代は島だった)・鳥取県日本海沿岸部地域・丹後半島西側地域のうちのどこかであったと推定している。もっと絞り込めば、丹後半島西部の「間人(たいざ)」近辺だったと推定している。間人は聖徳太子の母の出身地で、その一帯は相当な豪族が治めていたにと考えられる。
間人近辺を推定する理由は・・・?
『古代史の謎は「海路」で解ける』(長野正孝著)の書物を読んで影響を受け、この本の内容を信じ、支持したからである。
* 以下、長野正孝氏の著書について、友人たちに紹介・評価した文章(鬼井江メモ・一部加筆あり)です。
「卑弥呼の時代、瀬戸内海を航行できる船乗りはいなかった。」という長野氏の主張に賛成である。
『日本書紀』(720年に編纂)をまとめた舎人親王は、瀬戸内海の恐ろしさを知らなかった。だから、瀬戸内海における航行の難しさの実態を知らなかったがゆえに、歴史を脚色(時の政権の都合のいいように、想像しただけで、証拠や根拠がなくても記述すること)できたのであろう。
瀬戸内海は現代に至っても、航行が難しい海。まして、エンジンがなかった時代はなおさら難しかった。九州北部海域から大阪湾までの瀬戸内海を、人力で舟をこぎ、潮の流れを把握し、その流れにうまく乗り、風をうまくつかんで航行する技術は、卑弥呼の時代(2~3世紀)に確立していなかった。(と、船の専門家である長野氏は述べておられるが、その意見に大賛成している私。)
瀬戸内海航行の難しさ(5世紀になるまでは不可能だったという実態)がわかっておれば、「歴史上の脚色」はできなかったにちがいない。しかし、舎人親王は(卑弥呼の時代でも)瀬戸内海の西端(九州)から東端(大阪湾)まで航行できたことにしてしまったのだ。
この歴史的脚色が、現代にまで悪影響している。
日本書紀と古事記の記述内容を信じた人々は、「記紀などの古書」を信奉する学者などの論文・書物の影響もあり、ますます日本書紀や古事記の記述内容を真実だと思い込んでいくことになる。その悪影響は明治以後になっても続いている。記述内容で、自分たちにとって都合の良い部分をつなぎ合わせたり、不都合な部分は無視するなどして、論の正当性を主張するようになっていったようだ。
初代天皇から10代目ぐらいまでの天皇は、実在したかどうかわからないにもかかわらず、「天皇の古墳」と認定された古墳・遺跡は(原則として、宮内庁が)発掘させないようになっている。たぶん、このことも日本書紀や古事記の存在・記述内容が関係しているのだろう。(と、私は勝手に思っている。)
しかし、現代になり、古い書物や文献だけにに頼らずに、遺跡や古墳の発掘・科学的測定・違う視点からの検討・新しい検証方法などが行われるようになって、それらを根拠に論文が書かれるれるようになってきた。(江戸時代までは、書物・文献などの記述内容が中心だったし、戦前までその傾向が強かったようだ。)
その結果、「記紀の内容は真実ではなかった」ということがはっきりしてきた。多くの学者が論理的かつ科学的に考古学論文を書くようになってきたようだ。150年ほど前までの「記紀内容」への評価は激変したと言えるであろう。
古事記は、特に「神話の世界」という評価に変わった。
瀬戸内海が九州(関門海峡)から大阪湾に航行できるようになったのは、長野氏によると、5世紀のことである。21代天皇・雄略帝の尽力によるとのことである。(私はこの説を信用している。)
だから、「神武東征」(推定3世紀ごろ?)において、瀬戸内海を船で東へ進んだという「東征コース」は、当時の船の構造から考えても、ありえないことになる。また、神功皇后が九州から(大阪の)住吉へ、瀬戸内海を通って、凱旋帰還したということもありえないことである。どちらも作り話であり、「神話」・「説話」だということになる。
日本建国の超英雄(東征の結果、橿原の地で初代天皇に即位した)神武天皇や神功皇后は瀬戸内海を通ったことになっているが、それは事実に反することなのである。
古事記や日本書紀を書いた人々は、作り話が旨かった。多くの学者たちはそのうまさに騙されたわけである。
古代史の研究において、現在に至ってもその悪影響は尾を引いている。瀬戸内海を船で通れたはずだと信じている人たちが今も多いようだ・・・。
古代史研究においては、「記紀ありき」の一派が評価され、邪馬台国畿内説とも相まって、評価されていったようだ。
しかし、私は全く評価していない。
占い師(シャーマン)である卑弥呼がシャーマンの第一人者として、倭国大乱の時代に評価された。何を占ったのだろうか? 当時、一番心配なことは何だったのだろうか?
おそらく「航海の安全」を占うことだった。卑弥呼の時代、一番危険な航海は「朝鮮半島へ渡る航路」であった。日本海航路で朝鮮半島へ渡ることは命がけであった。遭難も多かったに違いない。出航できる季節と気象・台風などの嵐の発生度・対馬海流の流れ・潮の干満や流れなど、すべての知識を踏まえて「航海の安全」のために、占う能力が必要であった。その能力において、まさに「シャーマンの第一人者」として邪馬台国の女王として力も与えられたようだ。
「日本で一番当たる占い師=卑弥呼」の下に「倭国大乱」は治まったようだ。
男たち豪族の力づくだけではまとまらなかった国家が、卑弥呼によってまとまったのは「航海安全」占い能力ゆえであったにちがいない。卑弥呼の気象予報能力などが劣化していったとき、彼女は「霊力」がなくなったとみなされ、ひっそりと殺されたのかもされない。占い師は国々にいただろう。港があるところに、シャーマンがいた。当たらないシャーマンは殺され、始末される時代だったに違いない。
卑弥呼が大活躍した場所は(朝鮮半島と海でつながる)日本海沿岸部地域だったにちがいない。そうとしか思えない。海外貿易において、日本海沿岸部は朝鮮半島と隣り合わせなのである。九州北部が朝鮮半島に一番近いので、邪馬台国九州説が押されるのだが、「魏志倭人伝」に書かれた場所は、九州とは読み取れない。私は九州とは思えない。魏志倭人伝に邪馬台国の位置が書かれているのだが、今の地図を踏まえて推定すると九州よりもはるか南方の地に至ってしまうようだ。
対馬海流を踏まえて魏志倭人伝の記述から予想したところ、日本海沿岸部ということになってしまう。まったく、私の勝手な推定だ…。(ちなみに、長野氏は邪馬台国推定地をはっきりと書いていない。)(一方、私は素人で、考古学については「勘」だけが頼りで、楽しんでいる。だから、このブログであれこれと書けるのだろう。)
私の想像を繰り返し述べると、卑弥呼が活躍した場所は日本海沿岸部地域であっただろう、ということである。
出雲地方・伯耆(鳥取県西部)・丹後半島の西部(間人近辺)などの地域に絞られる。この点については、すでに述べた。
卑弥呼の時代の船は構造的に遠距離航行は無理だった。尺取り虫が移動するように港々をつないで航行しなければならなかった。下関方面から丹後半島西部までは小さな港をつなぎながら、航行することは可能だったようだ。しかし、丹後半島は先端部(経ヶ岬)を回って東側に一気に航行できない、と船の専門家は考えている。丹後半島には絶壁が多く、小さな港さえなかったから、「卑弥呼の時代における航行不能地」だったのだ。
応神天皇(15代天皇)が活躍した時代には、船の構造が進歩し遠距離航海ができるようにようになっている。その結果、船は丹後半島を大きく回って航行できるようになり、敦賀が栄えている。敦賀近辺の多くの神社は応神天皇を祭っている。「日本の中心は敦賀だった」という時代があったのである
「丹後王国」の時代の次は「敦賀王国」だったと考えられる。古代における覇権を握るポイントは、「鉄=朝鮮半島からの輸入品」を押さえることにあった。
「(古代は)鉄を制する者が日本を制する」のであった。
朝鮮半島からの輸入品である鉄を制した地域は「王国」となり、栄えていったのだ。
船の構造の進化に伴って、「王国」も変化していくことになった。
大和朝廷が「鉄を制したことによって」日本を統一することができたという点では、どの学者も共通見解らしい。第15代・応神天皇~第21代・雄略天皇の時代に日本の統一が固まっていったのだろう。(諸説あるらしいが・・・)
私個人としては、日本海航路の古代の港の発掘は進んでいない気がする。島根県や鳥取県・兵庫県や京都府の北部・さらに若狭湾周辺は人口減が大きい地域。住宅建設などで、「古代の港」「古代の住居跡」などが発見される確率は低いところである。
九州やヤマト中心の「古代研究」は多いが、「日本海沿岸部地域」の調査・発掘・研究は少ないようだ。もっとも、近年には「古代遺跡の大発見」が日本海沿岸部地域でもなされてきているが…。今後は、もっともっと日本海沿岸部に力を入れてほしいものだ。
以上、『鬼井江のメモ』でした。(その2)はここまでとします。
鬼の話から、脱線しすぎましたが、(その3)で元に戻します。
2018/2/24
古代日本の鬼とは、(その1)で述べたように、「日本人とは異なる文化や習慣を持っている人たち=朝鮮半島などからやってきた渡来人」のことであった。
渡来人(鬼扱いされた人々)によって、高度な文化(特に鉄の加工技術・造船技術・製塩方法など)が日本に伝えられている。実際に渡来人が住み着いた地方は繁栄し、王国を形成していったようだ。
その一例が、「吉備王国」であろう。弥生時代末期~古墳時代前期、吉備地方は栄えている。その証拠も遺跡として残されている。
渡来人が吉備地方に住み着いたルートは、日本海ルートで出雲地方に到着し、中国山地を越えて南下したに違いない。(この地方の地図をよく見ると、「船通山(1142m)」という山があるのだ。名前のいわれに、渡来人が関係しているかもしれない。「船が通う山」ということから考えて、そういうことができる技術・技能があったのは、渡来人たちに違いない・・・?)
日本海に流れ込んでいる川を利用して、上流の中国山地に向かう。川が途切れたら、船を上げ、陸路を移動させ、(乗ってきた船を陸路では、大勢の人力または馬利用で引っ張って移動させ)瀬戸内海へ下っていく川を利用して吉備地方へ船(多量の鉄鋌の載せている)で移動していった。と、私は勝手に想像している。
渡来人の中には騎馬民族もいたにちがいない。船を陸路では馬利用で引っ張って動かす技術もあったに違いない。出雲と吉備は近いのだ。中国山地越えに利用できた川も複数(たとえば、日野川や高梁川など)ある。それらの川は今も流れている。
なぜ船で中国山地を越えなければならなかったのであろうか?
馬利用でも越えられただろうが、運搬できる鉄鋌(てってい=朝鮮半島から運んできた鉄の板。この鉄の板を加工して武器や農具を製造した。)は、ごくわずかで、船利用こそ多量の鉄鋌を運ぶことができたにちがいない。
この時代、日本では鉄はまだ生産できていなかった。輸入品の鉄鋌の確保が権力者にとって最重要なことであった。王国形成には「鉄鋌の確保」と金属加工技術者の存在が必要であった。
鳥取県(伯耆地方)と吉備地方を結ぶ鉄道として、JR伯備線がある。この伯備線ルート近辺が日本海と瀬戸内海をつなぐ、つまり「朝鮮半島と吉備地方を船でつなぐルート」になったと想像できる。
「船の陸路コースはJR伯備線が手掛かりになるかも…?」なんて、勝手に地図を見て想像している私。
(こういう想像をするのは、楽しいですね。)
2018/3/2
鬼退治伝説は日本各地にあるのだが、一番古いと言われているのは、鳥取県に伝わっている「鬼退治伝説」である。鳥取県の伯耆(ほうき)地方の溝口町に「鬼住山(きずみやま)」がある。日本海に流れ込んでいる日野川(鳥取三大河川の一つ)がこの山の近くを流れている。そして、日野川上流部には(先述の)「船通山」がある。
この「鬼住山」が舞台の「鬼退治伝説」が日本最古の「鬼」にまつわる伝説のようだ。
「鬼=渡来人」だという観点からすると、最古だとみなして間違いないだろう。
現在、北朝鮮の漁船が漂流した結果、日本海側沿岸部に流れ着いている。弥生時代にしろ、古墳時代にしろ、「対馬海流の流れ」は変わらない。
北朝鮮の船(エンジンが故障すれば)は沿海部を離れると、リマン海流の流れに漂って南下するが、対馬海流とぶつかる海域で、東へ向かう。能登半島方面へ流れていくことになる。古代においても、同じように船が流されていったであろう。
能登半島に至るまでに、出雲や伯耆、丹後などで上陸した渡来人たちを想像することができる。いったい何万人の渡来人たちが日本にやってきたのであろうか?
朝鮮半島から渡ってきた渡来人たちは、出雲(古代は島だった)地方で上陸し、日野川を利用して伯耆地方(現在の溝口町近辺)の内陸部を目指し、日野川近くの山に住み着いたのだろう。
この地に住み着いた渡来人はすでに住んでいた日本人住民たちとうまく調和できなかったらしい。住民たちと調和できなかった「渡来人」は「鬼」扱いされ、疎んじられることになったにちがいない。
渡来人にもいろいろなタイプの人がいたに違いない。朝鮮半島に住んでいられなくなって、新天地を求めて日本に来た人もいただろう。日本人たちとうまくやっていかれず、悪行を働く人もいたに違いない。何万人もの正しい行動をする渡来人が住み着いて、うまく調和していけても、中には少数ながらも、悪いことをする人間がいるものだ。
その少数の渡来人をもって、「渡来人は悪いことをする奴らだから」懲らしめてやらねばならない。
「鬼退治」に発生である。日本各地に「鬼退治伝説」があるが、各地にあって、不思議ではない。「いじめ」は現在になっても延々と続いている。要するに「自分たちとは違う存在=異質なもの」への排除・いじめである。
時の権力者(古代における権力者=大和朝廷)が武力をもって退治する場合、権力者が勝つようになっている。まさに「鬼退治」の正当性の実力行使である。
鬼は「悪い奴だ」という意識が刷り込まれていった。
しかし、鬼は本当に「悪い奴ら」ばかりだったのであろうか?
一部の人が悪いだけなのに、全体が悪いように意識づけられる。この問題は歴史を経ても解消されていない。
日本最古(約1800年前)の鳥取県・溝口町に伝わる「鬼退治伝説」とは、どういう話なのか、簡単に説明してみよう。(ネット上の資料による)
第7代天皇・孝霊天皇が、伯耆の国(現在の鳥取県西部)に来た時に、鬼住山に鬼の兄弟を頭とする鬼の集団がいて人々を大いに悩ませていた。そのことを聞いた孝霊天皇の軍隊が鬼たちを退治したという伝説である。
【 孝霊(こうれい)天皇の軍勢は、まず鬼住山の隣にある笹苞山(さすとやま)という山に陣を築いて、地元の人たちから献上された笹巻き団子を三つ置いて鬼たちを誘い出すことに成功し、鬼の兄弟のうちの弟を倒します。しかし、兄は激しく抵抗したので、戦いは膠着してしまいます。
孝霊天皇は「笹の葉を刈って山のように積み上げれば鬼たちは降参する」という夢を見ます。そして、そのようにすると、笹の葉は鬼住山に飛んで行って鬼たちの身体にまとわりつき、孝霊天皇の軍は笹の葉に火をつけて勝利をおさめます。
敗れた兄の鬼(鬼集団の頭)は命乞いをし、天皇の配下となって、北の守りとなることを約束した。】
という話である。
考古学者などは、10代までの天皇の実在性を史実としてとらえていない。第7代孝霊天皇についても「歴史上の実在性」は証明されていない。私も想像上の天皇だったと思っている。
大和朝廷の正当性を主張するために、神話や伝記などに登場させたのであろう。「日本書紀」や「古事記」には登場する天皇ではある。
伯耆の国の「鬼退治伝説」において、「鬼は悪い奴ら」の設定になっている。鬼は「人々を悩ませる異質な存在」として扱われている。
弥生時代末期において、渡来人が朝鮮半島からやってきていた。その渡来人が、大和朝廷の全国制覇において、「抵抗勢力」として従わないとき、『大和朝廷に反旗を翻す渡来人集団=鬼たち』という設定になっていったことであろう。
大和朝廷=正義
朝廷に反抗する人々=悪い奴ら=渡来人たちも怪しい → 「鬼」扱い。
ほとんどの「鬼退治伝説」の背後にあるものは、この図式に当てはめることができるであろう。
「異質な存在は鬼扱いする気質」が多くの日本人の心に植え付けられていくことになったわけである。
「和をもって尊し」は、日本人の素晴らしい気質であるが、そのマイナス面もある。異質なものを排除しようとする面が強くなりすぎると、「個」の存在価値をないがしろにしていくマイナス面が強くなる。
周りを気にして、周りに合わせようとばかりする生き方。(目立つ場では、自分の意見は言わない、など。)
周りからどう見られるか、どう思われるかばかり気になって、「自分=個性」喪失の人生。
それらは、現在日本が抱える大きな問題である。人の目ばかり気になって…「孤独に生きる力」を喪失している大人や子どもたち。特に学校現場は悲惨な現実を抱えている。子どものいじめ問題の背後にあるものの起源も、鬼退治伝説の発生と関係しているのだと、私には思われる。
「桃太郎伝説の背後にあるもの」についても、次の(その4)でまとめてみたい。
「桃太郎伝説の背後にあるものは?(その4)」 古代への好奇心
吉備地方には「吉備津彦神社」と「吉備津神社」などがある。吉備地方には、弥生時代の遺跡や古墳時代の古墳群がものすごく残されている。「吉備王国」が西日本の繁栄とともに栄えた時代もあったようだ。
出雲に到着した渡来人たちが中国山地を越えれば「吉備」である。川や馬を利用し、中国山地を越えれば、「吉備」は近い、近い。吉備王国は渡来人がもたらした「鉄材および鉄加工技術」によって、鉄材農具・鉄材武器などの生産量が増大、農業発展・戦争力アップなどのおかげで大繁栄したにちがいない。鉄技術を持った渡来人が来て住み着いたからこそ、「吉備王国」は成立したのだろう。
弥生時代や古墳時代は、日本で鉄そのものは生産できなかった。(古墳時代が終わるころ、鉄の国内生産が始まったようである。) 要するに、古代日本においては、すべての鉄材(鉄鋌と呼ばれる鉄の板)は朝鮮半島南部地域から輸入したり、持ち込まれていた。鉄材及び鉄加工技術を持っている渡来人のおかげで「日本海側各地の王国」は形成されていったようだ。
(ちなみに、朝鮮半島へ渡る船団の航海安全占いをした第一人者が卑弥呼だったに違いない。航海安全占いができなかった「祈祷師・占い師」たちは何人も抹殺されたに違いない。卑弥呼は抹殺されず、中国の歴史書『魏志倭人伝』などに記載された。航海安全占いが抜群に当たる呪術師(シャーマン)だったからだ。)
桃太郎伝説の英雄は、「吉備津彦命(大吉備津彦命)」である。つまり、桃太郎のモデルは吉備津彦命(きびつひこのみこと)なのである。
吉備津彦命は、第7代孝霊天皇(実在性は薄い天皇)の皇子である。ゆえに「吉備津彦命」なる人物も実在したかどうかは疑問であるが…。(それはさておいて・・・)
大和朝廷の命により、吉備国を平定したと伝えられている人物である。古事記や日本書紀においても、「吉備への征伐に派遣された」としている。古事記や日本書紀の記載内容を信じている人々にとっては、吉備国を大和朝廷に従わせた英雄ということになる。
吉備国を繁栄させ統治していた人物は、温羅(うら)と弟の王丹(おに)ら渡来人だみなされている。製鉄技術によって農具や武器を発展させ、人々にそれらを与え農業生産量を増大させた。武力も高度化させ、吉備王国を成立させたのだった。
「鬼神(きしん・きじん)」と評価されたり、「吉備冠者(きびのかじゃ)」と人々から慕われていたのである。
大和朝廷にとって、吉備王国が力をつけて、大和朝廷の方針に従わない国になることを恐れたのであろう。温羅たちを大和朝廷への抵抗集団とみなし、つまり「鬼=悪い奴ら」とみなし、征伐することにしたのである。その征伐将軍が「吉備津彦命」であり、温羅は鬼とみなされ、退治されてしまったのである。
この伝説(伝承)が、室町時代ごろに出来上がった「桃太郎の鬼退治」物語になったわけである。
桃太郎には犬・猿・雉が家来として登場するが、それぞれモデルとなる人物がいるようだ。
桃太郎=吉備津彦命
犬=(吉備津彦命の家臣)犬飼武命 猿=(同家臣)楽々森彦命
雉=(同家臣)留玉臣命
桃は不老長生・繁栄をもたらしてくれると信じられている。邪気を払う力があり、悪鬼を追い払う植物だと考えられてきた。
桃太郎は正義の味方・英雄として、悪を征伐し「めでたし、めでたし」となったのである。 鬼は悪いことをする奴らだというイメージの刷り込みは、「桃太郎伝説」によって、定着していくことになった。
「鬼は外! 福は内!」は、永遠に続けられていくのであろう。
かわいそうな鬼たちである。
しかし、鬼を評価する人々がいる。現代の岡山県民たちである。「鬼」の再評価が始まっている・・・。私も応援したい。
(このつづきは、次のブログ「その4続き」へ)
2018/3/16
昔誰が住んでいたのか…? 推定では、「海賊」だということらしい。この「海賊たち」=「鬼扱いされた人々」として「鬼退治の対象」となっていったようだ。
この鬼ヶ島(=女木島)を生活の根拠地にした集団は、おそらく大和朝廷(または後の時代の権力者)の言うことに従わなかったのだろう。その時の政権に反抗する者は「鬼扱い」されてしまうのだ。
鬼ヶ島に住んでいた人々の運命も、権力者に反抗したがゆえに「鬼」となってしまったに違いない。
「鬼退治伝説」は全国に伝わっているが、基本的には同じような構造だと考えられる。
(今日のニュースにおいても、文科省の方針に逆らっている人物だとみなされたら、その人物は「悪い奴だ」という扱いをされ、「圧力」をかけられる。「鬼扱い」されているのがみえてくる。今の文科省は「危険そのもの」だ。戦前の軍国教育の反省を忘れてしまったのか⁉ 教育分野においても、「文科省にたてつくものはこらしめるぞ!」という姿勢がうかがえる。文科大臣は「問題はない!」と開き直っているが、国民はそう思うだろうか? 国民の審判は次の選挙で下されるだろう。 今の文科省の判断はおかしい!
今日もニュースになっているが、名古屋市の校長先生、文科省と闘ってください! がんばってください! 応援していますよ。)
安倍内閣の下で仕事をする官僚たちや大臣たちは、安倍政権のおごりから「判断力がおかしくなってきている!!」のだ。
防衛省や財務省などでの文書書き換えや、教育への不当介入。
どれもこれも「安倍政権」のひずみが背後にある。財務省は解体しなければならないほどの、「うそつき集団」になってしまっている。
「鬼」こそが、ほんとうは国民のために働いてきた存在だったのかもしれない。
歴史は「権力者」が都合のいいように書き、それが伝えられている可能性がある。
岡山県・吉備地方の英雄「温羅(うら)=吉備の冠者」は、「鬼」扱いされ、大和朝廷から派遣された「吉備津彦命」に討ち取られた。
しかし、「温羅=鬼」は現代になり、岡山県民に愛され、評価は高く、温羅を称える祭り=『うらじゃ(温羅です、という意味)』が年々盛り上がりを見せている。そして、桃太郎を称える祭りは盛り上がらず、下火になってきている。それに反して、温羅を称えるパレードや踊り『うらじゃ』はものすごい熱気に満ち、人気上昇中。今年の夏に、第25回『うらじゃ』が行われる予定である。
近年の熱気はすごいようだ。「温羅化粧」なる「鬼の化粧」をして踊るようである。25年前には、温羅人気を予想する人は少なかったに違いない。
JR岡山駅の東口広場には「桃太郎像」がある。古い像だ。しかし、近年、西口広場に「温羅の像(吉備の冠者像)」が建設された。新しい像である。
その像には、次の説明があった。
吉備の冠者(きびのかじゃ)
古代吉備の国に身の丈の大きい若者がいた。
その若者は、鬼ノ城に住み、いつも上半身裸で汗を流しながら鉄で農具等をつくり、里の人に与えていた。いつしか、吉備の里は大いに盛え、その若者を「吉備の冠者」と呼び、親しむようになった。
それを都へ行って、暴状として訴える者があり、朝廷は五十狭斧彦命(いさぜりひこのみこと)を派遣され、その若者を討たせた。若者はミコトの軍門に下ったとき、「吉備の冠者」の名を献上し、それよりミコトは「吉備津彦命」と改められた。
若者は「温羅(うら)」と言われるようになった。
以上。この温羅(鬼)の話をもって、まとめとします。
今回、長いブログ『桃太郎伝説の背後にあるものは? その1~その4続き』になりましたが、読んでいただきありがとうございました。感謝。
桃太郎像
吉備の冠者(かじゃ)像
「鬼ノ城(きのじょう)」に住んでいた若者 名を「温羅(うら)」と言われていた。鉄加工ができる人で、おそらく渡来人。温羅=(伝説では)鬼とみなされていた。桃太郎の鬼退治伝説あり。その相手の「鬼」。
桃太郎=正義の人 温羅=鬼=悪い人 大和朝廷中心の伝説では、そういう設定だが・・・、歴史の真実は???
岡山駅西口交番近くに(以前とは違う個所に)移設されていたので、探すのに苦労しました。