2017/11/28
「ネンネンコロリ対策として」 評論・随筆その他
星旦二教授の意見を参考に考えてみた。
教授によると、5つの習慣が大切だとのことである。
「ピンピンコロリ」を実現する5つの習慣
①運動
②質のいい睡眠
③朝食
④禁煙
⑤適度な飲酒
以上について、まとめられている。いろいろ詳しく述べられているが、ここでは省略したい。この5つはどれも納得できる点である。
ただし、あまりにきちんと当てはめてみるのは、気が重い。
①につて、どの程度の「運動」を習慣にするかで、ストレスになり、気が重くなる原因にもなる。残りの人生を「気分よく過ごしていくこと」こそ、一番大切なことだから。
いろいろな運動方法・量があるが、ストレスに感じない方法・レベルで、やっていけばいいことであろう。
私の場合、気持ちよくやれていることは「畑作業」と「歩くこと」である。「歩き旅」も楽しく続けられている。
最近読んだ本によると「一日1万歩は歩きすぎで、8000歩でよい」とのことである。家の中での歩数もカウントするのだから、結構実現しやすい。8000歩の中に、「合計20分の速歩」を入れるのが良いとのこと。私の場合、その20分は意識して大股・早足歩きをするようになった。少し汗をかくが、それほどストレスを感じていない。
②について、理想的な眠りに関する本を読んではみたが、理想通りの睡眠は「無理だ」と思った。「夜型の人間」として生活してきているので、睡眠開始は夜中0時ごろになる。0時を回ると眠くなって、5時ごろトイレで起きてしまう。睡眠時間は5時間程度。この習慣は何十年たっても変わるものではない。現役の頃も今も変わっていない。脳梗塞を起こしても変わらなかった。ストレスを感じるようなら、変わるだろうが・・・。一応眠れている。私は睡眠時無呼吸症候群の人間なので、息が(永遠に)止まって死に至るかもしれないが・・・。一応、耳鼻科に通って対策はしてみたが、今はもう何もしなくなった。「寝ている間に息が止まってしまう覚悟」はできているから。
理想的な睡眠こそ、「本の通り、医師の言う通り」の睡眠は難しい。理想的な眠りを気にしないで眠ることが「自分にとって一番いい眠り方」だと思っている。
③について、自家製野菜をたっぷり食べるようにしてきている。畑をお借りできているので、野菜を食時に取り入れることはたやすい。畑をお借りして約10年が経過しており、感謝の限りである。畑作業は飽きない。食べることは生きること。おいしく食べることは、生きる喜びをプレゼントしてくれる。トマト、キュウリ、スナップエンドウ、とろナス、サラダ菜など・・・おいしい野菜を食べることが楽しい。「朝食は早朝であっても抜かずに、必ず食べてから畑へ出かけている。朝食に野菜をたくさん食べることはいいことに違いない。これは実行できている。
④について、55歳ごろに禁煙に成功し、これはうまくいっている。ヘビースモーカーだった私。ひどいころは一日60本近く吸っていた。二箱では収まらなかった。家族や周りの人に、ひどい迷惑をかけてきた。55歳ごろ、やっと吸わなくなった。
⑤については、体質的にアルコールが合わないらしく。何年たっても下戸のままである。ビールが何とか少し飲める程度である。もう少し飲めるようになりたいと、若いころに練習してみたことがあったのだが、(私の場合)無駄だった。
最後に一言。
①~⑤については、それぞれ大切なことであろう。人それぞれ「ストレスを抱えることなく」習慣化することが「ピンピンコロリ=寝たきり期間を超短く永眠できる」方法になるであろう。
そして、何よりも、一番大切なことは「心の健康」である。
心を健康に保つには、「楽しいことはする、楽しくないことは無理にしない」を実行することである。そう自分に言い聞かせている。
教授によると、5つの習慣が大切だとのことである。
「ピンピンコロリ」を実現する5つの習慣
①運動
②質のいい睡眠
③朝食
④禁煙
⑤適度な飲酒
以上について、まとめられている。いろいろ詳しく述べられているが、ここでは省略したい。この5つはどれも納得できる点である。
ただし、あまりにきちんと当てはめてみるのは、気が重い。
①につて、どの程度の「運動」を習慣にするかで、ストレスになり、気が重くなる原因にもなる。残りの人生を「気分よく過ごしていくこと」こそ、一番大切なことだから。
いろいろな運動方法・量があるが、ストレスに感じない方法・レベルで、やっていけばいいことであろう。
私の場合、気持ちよくやれていることは「畑作業」と「歩くこと」である。「歩き旅」も楽しく続けられている。
最近読んだ本によると「一日1万歩は歩きすぎで、8000歩でよい」とのことである。家の中での歩数もカウントするのだから、結構実現しやすい。8000歩の中に、「合計20分の速歩」を入れるのが良いとのこと。私の場合、その20分は意識して大股・早足歩きをするようになった。少し汗をかくが、それほどストレスを感じていない。
②について、理想的な眠りに関する本を読んではみたが、理想通りの睡眠は「無理だ」と思った。「夜型の人間」として生活してきているので、睡眠開始は夜中0時ごろになる。0時を回ると眠くなって、5時ごろトイレで起きてしまう。睡眠時間は5時間程度。この習慣は何十年たっても変わるものではない。現役の頃も今も変わっていない。脳梗塞を起こしても変わらなかった。ストレスを感じるようなら、変わるだろうが・・・。一応眠れている。私は睡眠時無呼吸症候群の人間なので、息が(永遠に)止まって死に至るかもしれないが・・・。一応、耳鼻科に通って対策はしてみたが、今はもう何もしなくなった。「寝ている間に息が止まってしまう覚悟」はできているから。
理想的な睡眠こそ、「本の通り、医師の言う通り」の睡眠は難しい。理想的な眠りを気にしないで眠ることが「自分にとって一番いい眠り方」だと思っている。
③について、自家製野菜をたっぷり食べるようにしてきている。畑をお借りできているので、野菜を食時に取り入れることはたやすい。畑をお借りして約10年が経過しており、感謝の限りである。畑作業は飽きない。食べることは生きること。おいしく食べることは、生きる喜びをプレゼントしてくれる。トマト、キュウリ、スナップエンドウ、とろナス、サラダ菜など・・・おいしい野菜を食べることが楽しい。「朝食は早朝であっても抜かずに、必ず食べてから畑へ出かけている。朝食に野菜をたくさん食べることはいいことに違いない。これは実行できている。
④について、55歳ごろに禁煙に成功し、これはうまくいっている。ヘビースモーカーだった私。ひどいころは一日60本近く吸っていた。二箱では収まらなかった。家族や周りの人に、ひどい迷惑をかけてきた。55歳ごろ、やっと吸わなくなった。
⑤については、体質的にアルコールが合わないらしく。何年たっても下戸のままである。ビールが何とか少し飲める程度である。もう少し飲めるようになりたいと、若いころに練習してみたことがあったのだが、(私の場合)無駄だった。
最後に一言。
①~⑤については、それぞれ大切なことであろう。人それぞれ「ストレスを抱えることなく」習慣化することが「ピンピンコロリ=寝たきり期間を超短く永眠できる」方法になるであろう。
そして、何よりも、一番大切なことは「心の健康」である。
心を健康に保つには、「楽しいことはする、楽しくないことは無理にしない」を実行することである。そう自分に言い聞かせている。
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タグ: 寝たきりを短くするには
2017/11/27
「長寿国・日本の暗部」 評論・随筆その他
首都大学東京名誉教授・星 旦二さんの記述内容より。
【日本は世界でも指折りの長寿国として知られています。しかし、その実態は、最期まで元気に活動して天寿をまっとうする「ピンピンコロリ」は少なく、男性は平均9年、女性は同12年も介護された末に死んでいくという、「ネンネンコロリ」が他国に比べて際立って多い「不健康長寿国」なのです。】
という指摘が気になった。「ネンネンコロリ」が際立って多いという実態は「日本の暗部」を指摘している。つまり、「寝たきり大国」が日本の現実なのである。
アメリカとの比較データによると、日本の人口当たり病床数はアメリカの4倍以上とのことである。さらに、患者の入院期間も3倍もかかっているとのことである。
国民皆保険制度のおかげかもしれないが、とにかく日本人は病院が好きで、薬も好きな国民である。世界一、薬を飲むことが好むらしい。10種類以上の薬を飲んでいる(飲まされている)患者も数多くいるのだから、驚きである。(私なら3種類までにしてもらうが・・・)
私自身も薬を飲みながらの老後生活になっている。薬をすぐに出してくれる医師が好まれるようだ。流行っている医者ほど、薬をすぐに出してくれるようだ。「薬は必要ないでしょう」という診断をする医者は患者が減るようだ。一般的に日本人は、病院が好きで、薬をもらうと安心するようだ。ひどい患者になると、薬を出してくれない医者は「やぶ医者だ」と言いまくっているようだ。そういう患者が何人もいる国である。薬をたくさん出してくれたり注射をしてくれる医者を「名医」だと勘違いするのだから、困ったものだ。
血圧130以上なら「高血圧」というデータを垂れ流し、(テレビの垂れ流し情報によって)「洗脳されている」ことも事実である。最近のテレビによる「高血圧」や「コレステロール」に関する洗脳状況はひどい。
この背後には「サプリメント業界」・「製薬会社」・「医療関係団体」およびそれらの組織から献金を受け取っている政党・国会議員らの「おいしい結びつき」があるのだろう。
昔は「年齢+90」以上の血圧が、「高血圧」であった。近年、147以上を「高血圧」とする判断が医学関係学会から出されたにもかかわらず、「130」以上を高血圧に見なす宣伝はいつまでたっても訂正されない。高血圧値を147に訂正すると、何千億円もの「薬」や「サプリメント」が売れなくなるからであろう。
私は「年齢+90」以上が高血圧という考え方(=昔の政府・医学会が決めていた基準)を信用している。私の場合は、その基準に従えば159以上が高血圧の判定ラインである。そう判断して暮らしてきている。さすがに200を超えると、「ちょっと高いなあ!」と不安になるが・・・。「200以上は、脳梗塞の再発が気になる血圧」という判断をすることになる。最近は200を超えないので、一応安心している。
そういう国・患者たちだから、(人口当たりの)病床数・入院期間ともに際立って多くなっている。
このことと「ネンネンコロリ=長期間寝たきりのまま死に至る」とは大いに関係あるだろう。
この傾向は、今後も続くことであろう。困った問題だ。
さて、「ネンネンコロリ」にならないためにはどうすればいいのだろう?
気を付けて生活していても「ネンネンコロリ」という状態に至るかもしれないが、「寝たきり状態」期間はごく短くありたいものだ。
そのためには・・・(対策は、後日のブログへ)
【日本は世界でも指折りの長寿国として知られています。しかし、その実態は、最期まで元気に活動して天寿をまっとうする「ピンピンコロリ」は少なく、男性は平均9年、女性は同12年も介護された末に死んでいくという、「ネンネンコロリ」が他国に比べて際立って多い「不健康長寿国」なのです。】
という指摘が気になった。「ネンネンコロリ」が際立って多いという実態は「日本の暗部」を指摘している。つまり、「寝たきり大国」が日本の現実なのである。
アメリカとの比較データによると、日本の人口当たり病床数はアメリカの4倍以上とのことである。さらに、患者の入院期間も3倍もかかっているとのことである。
国民皆保険制度のおかげかもしれないが、とにかく日本人は病院が好きで、薬も好きな国民である。世界一、薬を飲むことが好むらしい。10種類以上の薬を飲んでいる(飲まされている)患者も数多くいるのだから、驚きである。(私なら3種類までにしてもらうが・・・)
私自身も薬を飲みながらの老後生活になっている。薬をすぐに出してくれる医師が好まれるようだ。流行っている医者ほど、薬をすぐに出してくれるようだ。「薬は必要ないでしょう」という診断をする医者は患者が減るようだ。一般的に日本人は、病院が好きで、薬をもらうと安心するようだ。ひどい患者になると、薬を出してくれない医者は「やぶ医者だ」と言いまくっているようだ。そういう患者が何人もいる国である。薬をたくさん出してくれたり注射をしてくれる医者を「名医」だと勘違いするのだから、困ったものだ。
血圧130以上なら「高血圧」というデータを垂れ流し、(テレビの垂れ流し情報によって)「洗脳されている」ことも事実である。最近のテレビによる「高血圧」や「コレステロール」に関する洗脳状況はひどい。
この背後には「サプリメント業界」・「製薬会社」・「医療関係団体」およびそれらの組織から献金を受け取っている政党・国会議員らの「おいしい結びつき」があるのだろう。
昔は「年齢+90」以上の血圧が、「高血圧」であった。近年、147以上を「高血圧」とする判断が医学関係学会から出されたにもかかわらず、「130」以上を高血圧に見なす宣伝はいつまでたっても訂正されない。高血圧値を147に訂正すると、何千億円もの「薬」や「サプリメント」が売れなくなるからであろう。
私は「年齢+90」以上が高血圧という考え方(=昔の政府・医学会が決めていた基準)を信用している。私の場合は、その基準に従えば159以上が高血圧の判定ラインである。そう判断して暮らしてきている。さすがに200を超えると、「ちょっと高いなあ!」と不安になるが・・・。「200以上は、脳梗塞の再発が気になる血圧」という判断をすることになる。最近は200を超えないので、一応安心している。
そういう国・患者たちだから、(人口当たりの)病床数・入院期間ともに際立って多くなっている。
このことと「ネンネンコロリ=長期間寝たきりのまま死に至る」とは大いに関係あるだろう。
この傾向は、今後も続くことであろう。困った問題だ。
さて、「ネンネンコロリ」にならないためにはどうすればいいのだろう?
気を付けて生活していても「ネンネンコロリ」という状態に至るかもしれないが、「寝たきり状態」期間はごく短くありたいものだ。
そのためには・・・(対策は、後日のブログへ)
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タグ: つれづれ思うに
2017/11/11
「認知症高齢者の増加」 評論・随筆その他
超高齢化社会に突入しつつある日本。
堺観光ボランティアガイドをしていても、「元気な高齢者が多いなあ」という感想。しかし、データによると、「認知症高齢者」がどんどん増えていっている。
政府が出している資料では、満65歳以上が「高齢者」とされる。75歳以上は「後期高齢者」として分類される。ちなみに、私は(前期)高齢者の一人としてみなされている。
来年には満70歳になり、医療費の自己負担が2割負担になり、ちょっと楽になる。69歳までは3割負担なので、「医療費が高いなあ」と感じる時がある。MRI検査などの検査があるときは支払額が多くなる。
私個人の医療費のことは、さておいて「認知症高齢者」の話に戻る。
認知症高齢者は、525万人(2015年)というデータが公表されている。そのグラフから推測されているデータでは、2026年に700万人を突破している。現在は、600万人ぐらいだと思われる。だんだん増えていっているらしい。
日本は高齢化社会というよりも、「超高齢化社会」と言えるようだ。1億人以上いる国々の中では、世界一の長寿国である。だから、認知症を抱えて生きている人々が多くなるのだろう。老齢化と認知症率はほぼ比例している。
世界一の超高齢化国における「老後の生活」の幸福度はどんなものなんだろうか…と、世界の国々から注目されているようだ。
高齢者の運転操作ミスや逆走など、認知症の疑いありとされる事故のニュースが増えている。認知症検査を受けなければ免許の更新ができないようにもなってきた。そういう検査をしなければならない人が多くなっている現代、大事故を起こす原因にもなってきている。
(この話題の続きは、「認知症高齢者の増加・続き」へ)
堺観光ボランティアガイドをしていても、「元気な高齢者が多いなあ」という感想。しかし、データによると、「認知症高齢者」がどんどん増えていっている。
政府が出している資料では、満65歳以上が「高齢者」とされる。75歳以上は「後期高齢者」として分類される。ちなみに、私は(前期)高齢者の一人としてみなされている。
来年には満70歳になり、医療費の自己負担が2割負担になり、ちょっと楽になる。69歳までは3割負担なので、「医療費が高いなあ」と感じる時がある。MRI検査などの検査があるときは支払額が多くなる。
私個人の医療費のことは、さておいて「認知症高齢者」の話に戻る。
認知症高齢者は、525万人(2015年)というデータが公表されている。そのグラフから推測されているデータでは、2026年に700万人を突破している。現在は、600万人ぐらいだと思われる。だんだん増えていっているらしい。
日本は高齢化社会というよりも、「超高齢化社会」と言えるようだ。1億人以上いる国々の中では、世界一の長寿国である。だから、認知症を抱えて生きている人々が多くなるのだろう。老齢化と認知症率はほぼ比例している。
世界一の超高齢化国における「老後の生活」の幸福度はどんなものなんだろうか…と、世界の国々から注目されているようだ。
高齢者の運転操作ミスや逆走など、認知症の疑いありとされる事故のニュースが増えている。認知症検査を受けなければ免許の更新ができないようにもなってきた。そういう検査をしなければならない人が多くなっている現代、大事故を起こす原因にもなってきている。
(この話題の続きは、「認知症高齢者の増加・続き」へ)
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2017/8/1
「教育=洗脳について」 評論・随筆その他
「すべての教育は『洗脳』である」(堀江貴文著)を読んでの感想。
本文の引用
【 つまり学校はもともと、子どもという「原材料」を使って、「産業社会に適応した大人」を大量生産する「工場」の一つだったのである。
今の学校も、この原則はまったく変わっていない。学校で押し付けられるのは、「工場=会社」の予行演習のようなことばかりだ。例えば時間割の厳守、全体行動、一方的な評価、ボス=教師の言うことへの服従……。
そして今の子どもたちも、雇用者にとって管理が楽な「望ましい労働者」としての規格からはみ出ないよう、「常識」をせっせと教え込まれているのである。】
この箇所で堀江氏が指摘している点には、概ね共感できる。
教師として36年間やってきたが、現代の多くの「学校」の体質として、戦前から続いてきた「教育=洗脳」は、民主主義の時代になっても「それほど変わっていない」と思えるのである。
私が若いころ(35歳の時)に書いた詩を振り返ってみたい。
詩集『闇と光』の中の「檻」という詩(一部改作)を紹介します。
檻(おり)
退屈という時間の中に
自由の棺を浮かべて玩(もてあそ)ぶ子どもらを
檻の中に閉じ込めて
じっとしてろと着座させ
退屈なる情報をぶち込み
何が大切であるかを隠す
首のない犬が
頭を探しまわる好奇心をアメにして
檻の中にいることを忘れさせる
退屈地獄の檻の中
うじゃうじゃ人間ばかり蠢(うごめ)いて
背中に焼印の番号を打ち
一人もこぼれ出ぬように監視する
己だけの背中は白紙と信じ込ませ
見えぬ不幸の悲しさを無自覚にする
檻の中で教育し 訓練し
有用なる死んだ人格者を送り込む
世界は退屈に単調に耐える人間ばかりで蠢き
見せかけの平和となる
右を向けと言えば右を向き
左だと言えば左を向く
それはもう本当の人間の世の中ではない
世界全体が檻になったのだ
機械が欠伸(あくび)したら
人々は死ぬだろう
以上の詩ですが、堀江氏の本を読んでいた時、この詩を思い出しました。
たいした作品ではないのですが、若かりし頃に「こういう思いを秘めて」教壇に立っていたのだなあ、と振り返る機会になりました。
私が35歳の頃に勤務していた学校は、大阪教育大学附属天王寺中学校でした。「檻」で表現した内容とは一致しない学校で、「檻」の要素の少ない教育がなされている学校でした。
山中教授(ノーベル賞受賞者)の出身中学で、関西では一応名前が知られています。山中教授が中学校で過ごした時には、私はまだ赴任していませんでしたので、山中教授との接点はまったくありません。しかし、この中学校は「檻」の要素が少ない教育を実施している学校だと実感できました。
山中教授以外にも社会人になってから、世のために貢献されている方が多く出ている学校です。 この学校の素晴らしさは、どういう点にあったのか? と振り返ってみました。
まず、「自分で考える」ことを非常に大切にしている点だと思いました。堀江氏が指摘している「教育=洗脳」という要素がもちろんある学校ですが、できるだけそういう面を少なくしようとする「校風と体質」がありました。
たとえば、生徒を整列させる場合、教師(主に体育の教師)が号令をかけて並ばせる場合が多い日本の中学校ですが、私が在職し過ごした頃の「附属天王寺中学校のイメージ」は、(基本的に)生徒が生徒を並ばせる学校でした。(今はどうか知りませんが…)
終礼(終わりの会)も生徒が中心で、担任の私が登場するのは、最後の一言ぐらいで、生徒が司会進行役をし、仕切っていました。学校行事など、ほとんどの場面で、生徒が中心の学校でした。
36年間の教師生活で、たった8年間しか附属天王寺中学校に在職しなかったのですが、「理想に近い学校だなあ」と思う日もありました。
国立の学校とはいえ、反政府的(?)教師も私を含めて何人かおられました。
こういう学校は少ないように思えます。私は、小学校1校、中学校4校、高等学校1校で教職に就きました。その経験から、大阪教育大学附属天王寺中学校が、一番「生徒中心の学校」だったと思っております。
多くの学校現場は、教師中心で、堀江氏の主張である「教育=洗脳」状況だと予想されます。
一方、そういう要素に対して闘っておられる立派な先生方がどこの学校にもおられると、私は信じています。(少数派でしょうが・・・)
「素晴らしい教師」とはどういう学校生活・学校教育をされている方々なのか?
その視点・観点・評価も時代とともに変わっていくことであろう。
戦争推進の教育をしていた「戦前の教育者たち」が、敗戦によって「反省」され、教壇から去られた方もいたでしょう。しかし、戦後の教育がいつまでたっても、「戦前教育の体質のまま」の状態が延々と続いている点があることも事実でしょう。
文科省や各教育委員会の体質が大きく変わったのでしょうか? 私は「教育委員会の仕事」を一年間だけ経験しましたが、「上意下達の世界だな!」と思う場面が多々ありました。(もうすでに改善されているかもしれませんが・・・。さて、どうでしょうか?)
話が脱線しました。元に戻します。
教育が「洗脳」である点、堀江氏の主張に概ね共感できるのですが、私は「学校」を否定しません。
【 義務教育の「常識」をすてろ、「好きなこと」にとことんハマれ! 】という堀江氏の主張に部分的には賛成できるのですが、「学校」を否定しての「子ども時代」には賛成できません。
学校は「洗脳」の要素で満たされているとはいえ、子どもは子どもなりに「学校で自立心」も鍛えられている面があるのです。
学校には「洗脳」というマイナス面があるのは事実ですが、プラス面もあります。
「学校でそれなりに遊ぶ」というプラス面です。
学校には「教育」と「遊び」があると私は考えています。
「学校における遊び」が衰退していっている現実は確かにありますが、まだまだ捨てたものではないでしょう。
堀江氏の主張に賛成しつつも、「学校」は捨てたものではないと反論します。
「遊び」がない『学校』は最悪で、そういう学校はおさらばするのがいいでしょう。
「遊びがある学校」こそ、理想的な学校に近いと考えている私です。
「生徒が中心の学校」が見つかれば、その学校を選ぶことをお勧めします。「有名大学進学率」だけで選ぶのは、過去の時代の選び方になったと言えるでしょう。(参考にしてください。)
まとまりのない感想になりました。
最近読んだ本では、堀江氏の本は刺激になりました。
本文の引用
【 つまり学校はもともと、子どもという「原材料」を使って、「産業社会に適応した大人」を大量生産する「工場」の一つだったのである。
今の学校も、この原則はまったく変わっていない。学校で押し付けられるのは、「工場=会社」の予行演習のようなことばかりだ。例えば時間割の厳守、全体行動、一方的な評価、ボス=教師の言うことへの服従……。
そして今の子どもたちも、雇用者にとって管理が楽な「望ましい労働者」としての規格からはみ出ないよう、「常識」をせっせと教え込まれているのである。】
この箇所で堀江氏が指摘している点には、概ね共感できる。
教師として36年間やってきたが、現代の多くの「学校」の体質として、戦前から続いてきた「教育=洗脳」は、民主主義の時代になっても「それほど変わっていない」と思えるのである。
私が若いころ(35歳の時)に書いた詩を振り返ってみたい。
詩集『闇と光』の中の「檻」という詩(一部改作)を紹介します。
檻(おり)
退屈という時間の中に
自由の棺を浮かべて玩(もてあそ)ぶ子どもらを
檻の中に閉じ込めて
じっとしてろと着座させ
退屈なる情報をぶち込み
何が大切であるかを隠す
首のない犬が
頭を探しまわる好奇心をアメにして
檻の中にいることを忘れさせる
退屈地獄の檻の中
うじゃうじゃ人間ばかり蠢(うごめ)いて
背中に焼印の番号を打ち
一人もこぼれ出ぬように監視する
己だけの背中は白紙と信じ込ませ
見えぬ不幸の悲しさを無自覚にする
檻の中で教育し 訓練し
有用なる死んだ人格者を送り込む
世界は退屈に単調に耐える人間ばかりで蠢き
見せかけの平和となる
右を向けと言えば右を向き
左だと言えば左を向く
それはもう本当の人間の世の中ではない
世界全体が檻になったのだ
機械が欠伸(あくび)したら
人々は死ぬだろう
以上の詩ですが、堀江氏の本を読んでいた時、この詩を思い出しました。
たいした作品ではないのですが、若かりし頃に「こういう思いを秘めて」教壇に立っていたのだなあ、と振り返る機会になりました。
私が35歳の頃に勤務していた学校は、大阪教育大学附属天王寺中学校でした。「檻」で表現した内容とは一致しない学校で、「檻」の要素の少ない教育がなされている学校でした。
山中教授(ノーベル賞受賞者)の出身中学で、関西では一応名前が知られています。山中教授が中学校で過ごした時には、私はまだ赴任していませんでしたので、山中教授との接点はまったくありません。しかし、この中学校は「檻」の要素が少ない教育を実施している学校だと実感できました。
山中教授以外にも社会人になってから、世のために貢献されている方が多く出ている学校です。 この学校の素晴らしさは、どういう点にあったのか? と振り返ってみました。
まず、「自分で考える」ことを非常に大切にしている点だと思いました。堀江氏が指摘している「教育=洗脳」という要素がもちろんある学校ですが、できるだけそういう面を少なくしようとする「校風と体質」がありました。
たとえば、生徒を整列させる場合、教師(主に体育の教師)が号令をかけて並ばせる場合が多い日本の中学校ですが、私が在職し過ごした頃の「附属天王寺中学校のイメージ」は、(基本的に)生徒が生徒を並ばせる学校でした。(今はどうか知りませんが…)
終礼(終わりの会)も生徒が中心で、担任の私が登場するのは、最後の一言ぐらいで、生徒が司会進行役をし、仕切っていました。学校行事など、ほとんどの場面で、生徒が中心の学校でした。
36年間の教師生活で、たった8年間しか附属天王寺中学校に在職しなかったのですが、「理想に近い学校だなあ」と思う日もありました。
国立の学校とはいえ、反政府的(?)教師も私を含めて何人かおられました。
こういう学校は少ないように思えます。私は、小学校1校、中学校4校、高等学校1校で教職に就きました。その経験から、大阪教育大学附属天王寺中学校が、一番「生徒中心の学校」だったと思っております。
多くの学校現場は、教師中心で、堀江氏の主張である「教育=洗脳」状況だと予想されます。
一方、そういう要素に対して闘っておられる立派な先生方がどこの学校にもおられると、私は信じています。(少数派でしょうが・・・)
「素晴らしい教師」とはどういう学校生活・学校教育をされている方々なのか?
その視点・観点・評価も時代とともに変わっていくことであろう。
戦争推進の教育をしていた「戦前の教育者たち」が、敗戦によって「反省」され、教壇から去られた方もいたでしょう。しかし、戦後の教育がいつまでたっても、「戦前教育の体質のまま」の状態が延々と続いている点があることも事実でしょう。
文科省や各教育委員会の体質が大きく変わったのでしょうか? 私は「教育委員会の仕事」を一年間だけ経験しましたが、「上意下達の世界だな!」と思う場面が多々ありました。(もうすでに改善されているかもしれませんが・・・。さて、どうでしょうか?)
話が脱線しました。元に戻します。
教育が「洗脳」である点、堀江氏の主張に概ね共感できるのですが、私は「学校」を否定しません。
【 義務教育の「常識」をすてろ、「好きなこと」にとことんハマれ! 】という堀江氏の主張に部分的には賛成できるのですが、「学校」を否定しての「子ども時代」には賛成できません。
学校は「洗脳」の要素で満たされているとはいえ、子どもは子どもなりに「学校で自立心」も鍛えられている面があるのです。
学校には「洗脳」というマイナス面があるのは事実ですが、プラス面もあります。
「学校でそれなりに遊ぶ」というプラス面です。
学校には「教育」と「遊び」があると私は考えています。
「学校における遊び」が衰退していっている現実は確かにありますが、まだまだ捨てたものではないでしょう。
堀江氏の主張に賛成しつつも、「学校」は捨てたものではないと反論します。
「遊び」がない『学校』は最悪で、そういう学校はおさらばするのがいいでしょう。
「遊びがある学校」こそ、理想的な学校に近いと考えている私です。
「生徒が中心の学校」が見つかれば、その学校を選ぶことをお勧めします。「有名大学進学率」だけで選ぶのは、過去の時代の選び方になったと言えるでしょう。(参考にしてください。)
まとまりのない感想になりました。
最近読んだ本では、堀江氏の本は刺激になりました。