まず、どのようにして遺骨が「リチャード3世」と特定されたかをみてみることに。
リチャード3世の妻アン・ネヴィルとの間に出来た子エドワードは、父の死の前年に当たる1484年に早逝している。側室との間に出来た庶子、ジョン・オブ・グロースターはばら戦争の終結後、ヘンリー7世に処刑されて世を去っている。もう一人の庶子、カテリン・プランタジネットは結婚後すぐ死亡しており、リチャード3世の系譜はここで完全に絶たれている。しかし、彼の姉に子孫がいたのだ。
①ミトコンドリアDNAを使った母系由来の鑑定
リチャード3世の姉アン・オブ・ヨークと呼ばれた人物のミトコンドリアDNAで母系親族を辿り、アンの子孫2名のミトコンドリアDNAと遺骨のミトコンドリアDNAがほぼ完全に一致。
詳しく言うと、アンから3代下にバーバラ・コンスタブルとエバーヒルダ・コンスタブルという姉妹がいて、バーバラから12代下にアイダ・イプセンという女性の息子のマイケル・イプセンと、エバーヒルダから15代はさんで現存しているウェンディ―・ダルディッグという2名の子孫達のミトコンドリアDNAと、駐車場で見つかった遺骨のミトコンドリアDNAを比較した結果、1万6569の塩基対の、前者とは完全に一致、後者とは8994番目の塩基対以外全て一致(アン・オブ・ヨークの母系親族である)ということが判明。
人骨の体格は華奢で、思春期特発性側弯症を患っていたことも明らかになった。脊椎が湾曲する病気で、10歳以後に発症する。少年期のリチャード3世は側弯症による痛みに苦しんでいたのかもしれないが、シェイクスピアが悪意をこめて描くほど外見上にひどく目立つものではなく、甲冑や衣服で隠せる程度であったとのこと。
歴史的に、「ボズワースの戦い」で、リチャード軍は総勢1万1000人~1万2000人、対するヘンリー軍は5000人~7000人だったといわれているが、劣勢だったヘンリー軍に援軍が現れたことで戦況は一変し、追い詰めれたリチャード軍は戦意を喪失し、王を残して敗走。
最期まで敵と戦って討ち死にしたリチャード3世の亡骸は甲冑を脱がされ、衣服も剥ぎ取られたうえで馬に乗せられて「見せしめ」として運ばれ、遺体はその後、戦場にほど近いレスターの町にあるグレイフライヤーズ修道院(教会)に運ばれ埋葬されたが、宗教改革をしたヘンリー8世の命をうけて、その教会が解体され、リチャード3世の遺体や埋葬された墓の正確な位置が不明となっていたのである。
「駐車場の王」の遺骨はアン・オブ・ヨークの子孫と同一の母系親族であることが判明し、その遺骨の身体的特徴(側弯症)や受けた傷(全身の傷はボズワースの戦いのときリチャード3世が受けた傷と死後に受けたと思われる傷も併せ11か所にも及ぶものであった)など、歴史的状況を検証して、アン・オブ・ヨークの弟であるリチャード3世と確定。
②「男系親族」の追跡調査
ここで、注目すべきはリチャード3世のY染色体のDNAから「チューダー朝」への復讐ともいえる事実が今回新たに分かったこと。
まず、歴史的にエドワード3世からリチャード3世にいたる家系図には多くの歴史的資料が残されており、養子や庶子が含まれいる可能性が低く、リチャード3世がエドワード2世の男系子孫であることに疑念の余地は(百パーセントとまではいいきれないものの)ほぼないのだそうだ。
リチャード3世から4代遡るとエドワード3世に行きつく。エドワード3世には息子が何人もいて、長男がエドワード黒太子、4男がランカスター朝の始祖であるランカスター公ジョン・オブ・ゴーント、5男がヨーク家の始祖であるヨーク公エドマンド、つまり、ヨーク家とランカスター家はともにプランタジネット朝の男系家系とされてきた(注)
ヨーク朝(広義のプランタジネット朝)の娘であるエリザベスと婚姻によってリッチモンド公(後のヘンリー7世)は「チューダー朝」を開いたのであった。リッチモンド公(ヘンリー7世)はプランタジネット朝のエドワード3世の4男ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの男系子孫であるとされる人物。
結論を先にいうと、リチャー3世のDNAのY染色体は彼の曽祖父ヨーク公の兄のジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt)から続く同家系の男系の子孫であるサマセット家(注)とは一致しなかったのだそうだ。
これが意味していることは、ジョン・オブ・ゴーントを始祖とするランカスター家に繋がる男系男子とプランタジネット朝の男系男子がY染色体で繋がっていないということ。
この解析には男系遺伝子であるY染色体の中の6種類の繰り返し配列「マイクロサテライト」がタイピングとして使われ、ランカスター家の末裔であるサマーセット家の男系男子5名とリチャード3世(プランタジネット朝の男系男子)のY染色体のタイプが全く異なっていたのだそうだ。5名中4名はそれぞれ一致しているが1名は不一致。5家族の5名は全てリチャード3世(プランタジネット朝男系男子)とはタイプが異なっていたのである。
繰り返しになるが、エドワード3世からリチャード3世にいたる家系図には多くの歴史的資料が残されており、養子や庶子が含まれいる可能性が低く、リチャード3世がエドワード2世の男系子孫であることに疑念の余地は(百パーセントとまではいいきれないものの)ほぼないそうなのだ。
以上のことから、レスター大学の遺伝学者テューリ・キング(Turi King)氏率いる研究チームが発表した論文の中で、「(ジョン・オブ・ゴーントから続くランカスター家系の男系の)子孫の中に公式の家系図に書かれた父親とは違う父親を持つ子供がいたこと」を意味しており、「この家系図の、ある時点で起きた誤った父子関係は、重要な歴史的意味を持つ可能性がある」と指摘。
具体的には、(父系の)DNA鑑定結果によって嫡出に関する疑念が生まれるのは、ヘンリー4世(Henry IV)、ヘンリー5世(Henry V)、ヘンリー6世(Henry VI)と、ヘンリー7世(Henry VII)から始まりヘンリー8世(Henry VIII)、エドワード6世(Edward VI)、メアリー1世(Mary I)、エリザベス1世(Elizabeth I)で終わる「チューダー朝全体」だと指摘。
サマーセット家に関しては③に書いたので詳細は省略。
「チューダー朝」の最後の国王はジュエームズ1世。彼は次の「ハノーヴァー朝」(イングランド)と「スチュアート朝」(スコットランド)の始祖で、両国の国王を兼務。その前の国王エリザベス1世に子がなかったために、ヘンリー7世に遡ってその子孫でスコットランド女王メアリー(メアリー1世とは異なる人物)の第1子でジェームズ1世は、名付け親がイングランドのエリザベス1世。1567年にジェームズが1歳の誕生日を迎える以前に、父ダーンリー卿は不審な死を遂げ、母メアリーとは引き離された、などとある。
イングランドの「ハノーヴァー朝」とスコットランドの「スチュアート朝」の始祖であるジェームズ1世の父ダーンリー卿は王族ではなく、実母がヘンリー7世の子孫であるスコットランド女王メアリー。つまりエリザベス1世の次の英国王は堂々と女系の男子になっているのだ。
今回、「チューダー朝」のヘンリー7世に「プランタジネット朝」の男系男子ではなかった、つまり家系図通りの父子関係の疑問即ち、嫡出に関する疑念が指摘されているならば、「ハノーヴァ―朝」の始祖ジェームズ1世はヘンリー7世の曽孫であるし、ジェームズ1世の母でスコットランド女王メアリーはヘンリー7世の孫に当たる人物であるわけで、「プランタジネット朝」からみて嫡出に関する疑念の「可能性」は彼らについても同様のはずである。
しかし研究チームはヘンリー7世の曽孫であるジェームズ1世の名やその母メアリーの名を挙げていない。ジェームズ1世は現在の「ウェインザー朝」にも直接繋がっている人物であるから、「可能性としての嫡出の疑念」である以上、敢えてその名前を挙げなかったのだと思う。
リチャード3世の遺骨とDNAが示したのは、シェークスピアが「チューダー朝」のプロパガンダとして、必要以上にリチャード3世の実像を歪めてきたという事実であり、研究チームが指摘しているようなヘンリー7世以降の男系男子の嫡出に疑念がある以上、やはり「チューダー朝」そのものの成立が女系の王朝成立であったといえる。
以上が、英国がどのようにして「女系を容認するに至ったか」という背景である。概ね英王室にとりあまり愉快な話ではなさそうではある。
(注)今回のDNA解析の結果から、ランカスター家の「チューダー朝」は「プランタジネット朝」からみて、男系の繋がりがどこかで切れた「女系親族」という結果になったというのが正しいのではある。
引用:
講談社「王家の遺伝子」(石浦章一著)
記事を見た時、まあよくも発見したな!という思いがしました。特にリチャード3世は側彎症(せむし?)を患っていて掘り出された遺骸にも、写真には、その特徴がハッキリと出て居た。私のうる覚えの記憶では、この新聞記事の中にはリチャード3世の子孫の一人がカナダで家具職人をして居るとのDNA分析から結論であったようです。あと、ブリテンの王の系譜は、日本の様な一系の物では無い。然もスコットランドのMary、イングランドのElizabeth、と女王を立てている。それで王朝が絶えれば外国から王を招聘して来ると言う様な好い加減なものです。それにイギリス王は只の飾り物に過ぎない。日本とは国体が異なるものです。最近のDNA解析は歴史的な修正を要請する事態に立ち至っています。
シェークスピアの戯曲で悪名高い「リチャード3世」の遺骨の発見によって、500年前のイングランド国王の座を争った「ばら戦争」の実像が変わって見えてきましたね。甥殺しだの、妻殺しだのと、冷酷で残忍な人物のイメージで語られてきたのは、彼からランカスター家が「王座」を横取りしたことを少しでも正当化したかったということに他ならならなかったようです。
発見された状況やどのようにして「リチャード3世」であるかを特定した経緯など、井頭山人さんのご記憶通りです。
この記事を書いた1番の動機は「女系」とはどのようなものなのか、「英国と日本のちがい」は何なのかを自分なりに整理したかったからです。ご指摘のように、「国王」と「天皇」ではそもそも意味しているものが全く違いますね。日本では12世紀以降は天皇が(少なくとも表向き)直接国を統治してきたわけではないものの、日本文化そのものを継承するためなくてならなない存在で、どの時代も国家を束ねる象徴のような存在であったから、それは「万世一系」であることが大きな意味をもっており、一度「女系」にしてしまうと、その「神話性」が薄れてしまい、象徴としての「力」が半減してしまうと私などは思っております。
仮に女性の天皇を認めたとしても、夫君は天皇家の男系男子の人物に限られる(これまでの8代6人の女性天皇がそうであったように)、女性天皇を立てるならば、その方は眞子様のような自由恋愛ではなく、幼少期から天皇家所縁の男系男子の子孫であるお相手を決めておく必要があるということでしょうか。