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朝鮮戦争発生当時の韓国②~国民を大量虐殺した「建国の父」李承晩

2020-08-10 22:05:28 | 韓国・北朝鮮
■「李承晩」に対する韓国人の葛藤
例えば、朝鮮日報(2020年7月26日)のコラム「日本で出会った李承晩」といタイトルの記事の中で次のように語られている。


「(憲法を制定した初代大統領李承晩は)大韓民国の建国を否定的な目で見る文在寅政権の法務長官から制憲節(憲法記念日、7月17日)にあざ笑われ、19日の追悼式では報勲処長から建国大統領とまともに呼んでもらえなかった」


「李承晩は35年間、地図から消えていた国の再建のために執権初期に日帝時代の専門官僚らを起用した。このため『親日派』という汚名を着せられたが、実際には日本側にとって手ごわい人物だった


李承晩は確かに「日本にとって手ごわい人物」だったであろうし、そのために当時の吉田茂首相が「嫌いな人物」に挙げたのかのしれない。

李承晩初代韓国大統領


しかし、韓国人自身が彼を直視するならば、李承晩は韓国のリーダーとして「35年間地図から消えた国の再建のために」国をまとめた建国者ではなく、イデオロギーの異なる自国民を冷酷に大量に粛清した人物であり、「よこしまで情緒不安定、冷酷で腐敗し、度し難いお天気屋」(GHQ司令官ジョン・リード・ホッジ中将)とみるほうが実像に近いのではないだろうか。



■廬武鉉、文在寅政権による「真実・和解事業」
文在寅や廬武鉉などの親北左派大統領は一貫して「真実・和解」という言葉を掲げて自国の過去の政権が過去に起こした、国民に対する虐殺事件の実態を掘り起こそうという事業を行っている。


その理由は彼らが「親北」であり、韓国の過去の政権そのものを否定的にみているということと同時に、「真実・和解」が必要なほどに、これまでの韓国政府が、韓国独立後の過去史の中の歴史を闇に葬って遺族に謝罪してこなかった、亡くなった多くの人々の亡骸(主に共産主義の国民や、李承晩に「敵性分子」扱いを受けた人々)を無残に冷たい土のなかに打ち捨ててきたたことへの反省から、ということなのだろうか。


■朝鮮戦争が起こり、分断国家が決定的なものとなった経緯
①朝鮮半島内に北は「抗日パルチザン金日成」、南は「光復独立派金九・李承晩」なる二大勢力が北朝鮮と南朝鮮(韓国)で互いの正当性を主張しあったことで、軍政における便宜的な分断統治がそのまま分断国家として38度線が残ったこと。

②ソ連が1949年に核実験に成功し、米軍に匹敵する軍事力をつけ、そのソ連の後押し(スターリンの承認)を受けた北朝鮮軍が、GHQが事実上朝鮮半島から撤退したあとに南侵して赤化統一を図ったこと。これに中国も参加(義勇軍を派兵)したこと。

③日本の赤化を防ぐ目的で、GHQが半島に引き返し、朝鮮戦争が拡大して、最終的にはGHQと北朝鮮+中国義勇軍との「休戦協定」を経て、軍事境界線として38度線が固定したこと。


■当初、分断は占領統治上の都合というとらえ方をしていたGHQ
1945年9月2に日本が降伏文書に調印して日本による統治を離れた朝鮮半島はGHQとソ連による軍政下に置かれた。


ソ連軍は8月24日に平壌まで進駐、一方の米国軍は9月8日に仁川へ上陸し、それぞれ軍政を開始したが、この時点では、北緯38度線での朝鮮分断はあくまで占領統治上の都合でしかなく、連合国に朝鮮を分断国家化する意図は無かった、といわれる。


■米国の対朝鮮政策は朝鮮戦争以前は消極的だった
マッカーサーは日本統治期間中にほとんど東京を出ることがなく、大韓民国の成立式典には列席して李承晩と並んでの写真を撮らせたものの、実際はトルーマン政権の対朝鮮政策は対国民党政策と同様に消極的なもの(無関心)ですらあったらしい。


朝鮮半島は米国の防衛線を構成する一部分とは見なされておらず、米軍統合参謀本部は「朝鮮の占領軍と基地とを維持するうえで、戦略上の関心が少ないと国務省に通告するほどであった 」とされる。


当時の在韓GHQ司令官のホッジ中将は生粋の軍人であり、政治や外交、朝鮮の政治的背景の知識を持ち合わせていなかったため、軍政庁を置きホッジらを任じたマッカーサーを長とする連合国軍最高司令官総司令部の無関心はホッジからの情報にも一因があったといった具合に「朝鮮戦争、ホッジ責任論」というものもあるらしい。


朝鮮戦争が勃発した当初、GHQの最高司令官マッカサーは「これはおそらく威力偵察にすぎないだろう。ワシントンが邪魔さえしなければ、私は片腕を後ろ手にしばった状態でもこれを処理してみせる」と来日していたジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問らに語っていたというエピソードがあり、北朝鮮の後ろにソ連のスターリンがいることを深刻にとらえていなかったのかもしれない。



■ソ連、1949年8月に原爆実験に成功し、北の半島統一を目論む
「当初、スターリンは北朝鮮軍の支援に消極的な姿勢を見せていたのも、韓国の後ろ盾になっている米国が当時唯一の核保有国であり、全面戦争を恐れていたから」であったといわれている。


しかし、ソ連が1949年8月に悲願の原子爆弾の開発に成功。米国に次ぐ核保有国となったことで、スターリンは米国に対抗する自信を深めることになった。


■国民統合の象徴の不在
天皇の下に一つとなれる大和民族の日本とちがい、旧大韓帝国(南北朝鮮)の人々にとって、李王家は民族の統合の象徴となることもなく、併合時代に日本にいた王世子李垠とその妃である方子(梨本宮方子)は李承晩から帰国することさえ許されなかったそうだ。


李垠夫妻の朝鮮半島への帰国がかなったのは李承晩の失脚後、朴正熙大統領の時代になった1963年11月だったそうだ。


■イデオロギーの対立と分裂
韓国の建国前後、南北朝鮮のイデオロギーの対立や韓国国内での分裂はすさまじく、例えば「アカの島」と目された済州島島民などに対して、李承晩は(初代大統領であるという)自らの正当性のために、「南単独での選挙」の正当性を認めない「敵性分子」とみなして情け容赦ない粛清を行っている。



李承晩政権(1948年~1960年)は「対共産主義」を建前とする虐殺事件の数々が発生したことについて、その後は長年の間それらの事件が韓国政府によって隠蔽され、80年代後半まで事件に触れることすら「タブー視」され、「虐殺は共産主義者によって行われた」という虚構でその実態が糊塗されてきた


第二次世界大戦後に、国際社会から承認された独立政府をもたない韓国を1948年8月15日の韓国独立まで占領統治したのがGHQで、一方の38度線以北の北朝鮮は「ヤルタ会談での秘密協定」を締結していたソ連が北朝鮮の独立までの1948年9月9日まで軍政を敷いた。


GHQの在韓米軍司令官ジョン・リード・ホッジ中将は、韓国の初代大統領李承晩のことを「よこしまで情緒不安定、冷酷で腐敗し、度し難いお天気屋と酷評していたとされる。


■「済州四・三事件」(1948年3月1日~1954年9月21日)
「済州島」は従来、「朝鮮と異なる独自の文化を持ち蛮夷の島と呼ばれ、朝鮮王朝の時代には流刑地であった」という歴史的な背景もあったためか、「アカの島」という扱いだった。


1945年9月10日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、「済州島人民委員会」と改められた。


つまり朝鮮戦争以前に、朝鮮労働党(SKLP)という、北朝鮮労働党を支持する政党が38度線以南の済州島内に設立されていたのだ。


「南朝鮮単独の韓国大統領選挙」の正当性を疑問視し、1948年3月1日の「三・一節」のときに反対宣言を行ったことで、これらの住民に対して官憲が発砲し、6名の島民が射殺されるという事件が起こった。


その後1948年4月3日、済州島で起こった島民の蜂起に対し、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を「済州島四・三事件」と総称し、この事件に伴い朝鮮半島から日本に大量の密航者が流入し、済州島出身の現在の在日コリアン1世であったといわれている(注)。


南朝鮮当局側は島民の蜂起に共産主義者の南朝鮮労働党が関与しているとして、韓国政府軍・警察による大粛清を行い、島民の5人に1人にあたる6万人を虐殺したとされ、同時に済州島の村々の70%が焼き尽くされた。


■憲法公布と韓国の建国
1948年5月10日に南単独の総選挙を行い、李承晩の韓国民主党と所属議員たちが主導権を取り、5月31日には制憲議会を開催し、国号を「大韓民国」とし、7月17日には憲法を公布。

1948年7月20日に李承晩を制憲議会が初代大統領に任命。

1948年8月15日の記念式典で大韓民国の建国が宣言された。


■在韓米軍(GHQ)の撤退
48年8月15日に韓国の独立後、米韓両国は、初代大統領李承晩とホッジ中将との間で「韓米暫定軍事協定」を締結し、1948年9月のソ連軍の北朝鮮からの撤退に呼応し、GHQは1949年6月27日に約500人の軍事顧問団を残して朝鮮半島から撤退。


■米国の「不後退防衛線(アチソンライン)宣言
1950年1月12日、トルーマン大統領の下で国務長官を務めたディーン・グッダーハム・アチソン(注)が、「日本・沖縄・フィリピン・アリューシャン列島に対する軍事侵略に米国は断固として反撃する」という「不後退防衛線(アチソン・ライン)」演説を示した。


同年1月には米国は台湾不干渉声明も発表。(台湾海峡を防衛するとして第7艦隊を派遣したのは朝鮮戦争開戦から2日後の同年6月27日だった)


(注)ディーン・グッダーハム・アチソン(Dean Gooderham Acheson、1893年4月11日~1971年10月12日)
アメリカ合衆国の弁護士、政治家でハリー・S・トルーマン大統領の下で国務長官を務めた人物で、1949年にアチソンは、マーシャルの後任として、国務長官に任命された。彼は共産主義の封じ込め政策を継続し、NATOの結成に尽力。



■朝鮮戦争の勃発
「アチソンライン宣言」で北朝鮮は連合軍が朝鮮半島に戻ってくることはないものとみなし、宣言から約5か月後の1950年6月25日、朝鮮半島の赤化統一を目指す金日成が中国の指導者である毛沢東と、ソ連のヨシフ・スターリンの同意と支援を受け、南北の国境である38度線を越えて南侵を開始。


「当時の韓国政府が、うろたえて、右往左往している間に、北朝鮮軍は恐ろしいスピードで南下し、開城はたった数時間で陥落。その60km南の首都ソウルの防衛ラインは北朝鮮軍によって楽々と突破され韓国軍はひたすら敗走を続けた」


「当時の韓国軍は、総兵力10万人。戦車はゼロ、大砲もわずか91門。これに対して、北朝鮮軍は、総兵力20万人、ソ連製最新鋭T-34戦車など300両、大砲も最新鋭のSU-76M自走砲など552門で、圧倒的に戦力の差があった」とある。


■国民保導連盟
1948年8月の独立建国後、李承晩政権下で韓国国軍、韓国警察、李承晩の支持者らは「共産主義からの転向者やその家族を再教育するため」として、「国民保導連盟という統制組織を設立し、対共政策を行っていた。


朝鮮戦争が勃発し、僅か3日で北朝鮮軍によってソウル陥落するやいなや、矛先は北朝鮮軍にではなく、「保導連盟」の加入者や自国の政治犯を北朝鮮への同調者、つまり「敵性分子」として処刑命令して虐殺したのだ。


保導連盟事件(보도연맹 사건 )1950年6月25日 
朝鮮戦争勃発を受け、6月27日李承晩大統領は保導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令。


同日中に李承晩本人はソウルを脱出し、韓国軍や警察は釜山にまで後退する一方で、保導連盟に登録していた人民を「危険分子」と見なし、大田刑務所などで大虐殺を行ったといわれている。 


東亜日報(2000年01月06日19時39分)の記事より
「韓国戦争当時、韓国軍と警察が、太田刑務所に収監されていた政治犯1,800名を含む、左翼系の収監者を集団処刑した事実が、昨年12月16日、秘密解除された米国国立文書保管所の秘密文書で確認された。

済州4・3事態の顛末を追跡してきた在米同胞、李トヨン博士(52・NY居住)は6日“米国政府に秘密解除を要請した結果、韓国軍と警察が政治犯を処刑する過程を、写真とともに生々しく記録した文書2件を受け取った”と述べた。

李博士によれば、当時駐韓アメリカ大使館陸軍法務官ボブ・エドワード中佐が作成、合同参謀本部に報告した2級秘密‘韓国の政治犯処刑’には写真18枚が、3級秘密‘韓国陸軍憲兵による(政治犯)処刑’には写真7枚が、それぞれついている。

エドワード中佐が1950年9月23日に報告した‘韓国の政治犯処刑’文書には、50年7月第1週、大田刑務所で、3日間に(韓国)最上層部の命令により政治犯1,800人が集団処刑されたという内容が含まれている。

李博士は“写真には韓国軍と警察が政治犯を銃殺した後、シャベルで埋める場面があり、現場のトラックの横面に‘論山邑’という文字が鮮明であり、学生のような一少年が助けてくれと哀願する姿も目を引く”と説明した。

エドワード中佐はこの文書で“ソウルが陥落するや、韓国軍と警察は敵軍が政治犯を釈放することを憂慮し、数千名を処刑したものと判断する”と報告。

1951年5月3日付で報告された‘韓国陸軍憲兵による処刑’文書によれば、共産主義者に協力した嫌疑で服役中であった人物が、51年4月大邱付近で集団処刑されたと記録されている。

李博士は“関連文書には‘最も信じられる情報’を示す、信頼度A-1等級がついている”と付け加えた。

一方、済州4・3事態の遺族をはじめとする関係者らは、事態当時、有罪判決を受けた多くの済州人が大田刑務所に収監されていたという事実を重視、国内の政府記録保管所で捜し出した当時の収監者名簿を土台に、被害者を確認して処刑現場発掘作業も推進することにした。」



慶尚南道など、北朝鮮軍が侵攻していない非戦闘地域の釜山・馬山・済州の刑務所などでも韓国軍や韓国警察により市民や囚人達が虐殺されたことが確認されている。

晋州刑務所に収監されていた民間人も馬山の廃坑に連行し、虐殺されたのだそうだ。

この事件のことを韓国では「保導協会員虐殺事件」と呼び、長い間、「北朝鮮軍による民間人虐殺事件」と偽ってきた。


保導連盟事件の被害者の遺体



処刑者の致死確認を行う韓国軍兵士(アメリカ軍撮影 



被害者の数は約20万人~120万人とする主張もあり、諸説あるものの、公式に確認されているもので4934人。


1960年李承晩の亡命後にこの事件の遺族会である全国血虐殺者遺族会が遺族の申告をもとに報告書を作成しており、虐殺された人数を114万人と報告している。


②老斤里(ノグンニ)事件(1950年7月26日)
朝鮮戦争中の1950年7月26日に起きた米軍による韓国民間人の虐殺事件。第25師団長ウィリアム・B・キーン少将による「戦闘地域を移動する全ての民間人を敵とみなし発砲せよ」という命令に基づき行われた、とある。


朝鮮戦争のさなか北朝鮮軍の攻撃を防御していた、国連軍の一部である陸軍米国陸軍第7騎兵連隊所属部隊は忠清北道永同(ヨンドン)郡黄澗(ファンガン)面・老斤里の京釜線鉄橋付近にいた韓国人避難民の中に北朝鮮兵が混じっていると疑い、避難民を鉄橋の上に集めて空軍機が機銃掃射を行い、逃げたものは米兵が追い詰めて射殺し、約300名の韓国人民間人が虐殺されたといわれているそうだ。


この事件は長く伏せられていたが、1994年に韓国人生存者が著書を出版、1999年9月9日AP通信が大々的に報道。


朝鮮戦争中に行なわれた米韓連合軍の民間人虐殺はこれ一件に留まるものではなく、収監されていた1000人以上の政治犯も軍命で処刑されていた事が、後に文書調査で判明したなどともある。


同年10月29日在韓米軍が現地調査を実施し、2004年には事件の犠牲者の名誉を回復する法案が韓国国会を通過。韓国における反米軍感情が高まる原因のひとつとなったといわれている。



江華良民虐殺事件( 강화 양민학살 사건)(1951年1月6日~1月9日 )
1951年1月6日から1月9日にかけて韓国政府が江華島で非武装の島民を虐殺した事件とされる。犠牲者は全員非武装の民間人であったそうで、この事件前の1950年には、保導連盟事件の時にも江華島では140人の島民が虐殺されていた。


事件の経緯として、朝鮮戦争当時、仁川上陸作戦によって韓国軍は江華島を北朝鮮から奪還したが、人民義勇軍の介入によって1951年1月4日には戦線を大きく後退させ、北朝鮮による江華島の再占領も現実味を帯びるようになると、1951年1月6日から1月9日にかけて韓国軍、韓国警察、民兵は、江華島の島民らが北朝鮮統治時代に北朝鮮に協力した、つまり「敵性分子」として島民の212人~1300人を虐殺。


2003年に江華文化センターで江華良民虐殺事件について触れられた教科書が出版され、2006年2月26日、大韓民国国家記録院は1951年8月30日に趙眞晩司法長官という人物が張勉首相に江華良民虐殺事件について報告した公式文書の存在を明らかにしている。

この事件は廬武鉉政権から李明博政権下の韓国政府により「真実・和解過去史整理委員会が虐殺事件を認める至ったという経緯だったらしい。



山清・咸陽(サンチョン・ハミャン)虐殺事件(1951年2月7日)
朝鮮戦争中の1951年2月7日に韓国軍が”パルチザン討伐”のために慶尚南道山清郡、咸陽郡地域の住民の虐殺を指示して起こった民間人虐殺事件。 

同地域の家屋を焼き払い、金目の物を集めた後、村の住民123人を渓谷に突き落としたり、四列横隊に並ばせて銃撃を加え、更に約2キロ離れた芳谷村の住民212名にも銃撃を加え、13時半に続けて咸陽郡休川面棟江里で60名を虐殺

2月7日の山清咸陽虐殺事件の犠牲は12の村々の住民計705名にのぼったといわれている。

1998年に(氏名が確認された)犠牲者数は、女性197名、男性189名、子ども147名の計386名。数が合わないのは氏名が判らない人が半数近くいるということなのだとうか・・


アン・ジョンエ前真実和解委調査官が2011年8月31日に公開した‘特務隊文書綴’の一部。

写真の文書は「9連隊が1951年2月7日午前11時頃、山清郡、今西面(クムソミョン)、芳谷に到着すると民7人が裏山に逃げたので、民を全員集結させ、逃げた奴はどいつかと尋ねても答えなかったという理由で全員の銃殺を命じた」という報告内容。




⑤居昌(コチャン)事件(1951年2月9日~2月11日)
朝鮮戦争中の1951年2月9日~2月11日にかけて慶尚南道居昌郡にある智異山で韓国軍が共産主義パルチザンを殲滅するための堅壁清野作戦として民間人719人を虐殺。居昌良民虐殺事件とも呼ばれている。

また2月7日に慶尚南道山清郡、咸陽郡で引き起こされた山清・咸陽虐殺事件とひと括りにして、居昌・山清・咸陽虐殺事件としても知られている



1990年代末に、全国各地で虐殺事件の被害者の遺体が発掘され、。これらの事件が実際にあったことであることが確認されたため、2009年11月 「真実和解のための過去史整理委員会」を通じて、韓国政府は、国家機関によって民間人が犠牲になったことを確認したと発表し認めた。


認めたとあるだけで、その遺族らに「国」が謝罪したという話ではないらしい。



報告書に収録された犠牲者の写真 


「敵性分子」疑いというだけで咎もなく虐殺され、粗末に土の中に葬られて歴史の闇の中に消えていった多くの人々の遺体が、彼の国の土の下にはまだ数多く眠っているということ。


死者の魂が未だに癒されることのない深い「恨」の念がこの国の「狂気」を作り出している。


(注)李承晩がとった韓国政府方針
1948年8月15日に独立宣言した韓国の李承晩政府(1948年~60年)の政府方針は以下のようなものだったといわれている。
1.徹底的な反共主義を標榜する外交政策。
2.中立国や中立路線を標榜する国家に対する敵対主義外交政策。意味不明・・
3.徹底的な反日主義の標榜。日本との交流・貿易などを徹底的に排撃し、朝鮮戦争の日本参戦も拒否。
4.米国を中心にした西側自由主義陣営国家との友好増進政策。
5.国連の統韓決議案に対する絶対的な支持政策。
6.独立後の韓国の「第一共和国」は、李承晩ラインの設定とそれによる排他的経済水域の区画設定。


■李承晩の最期
李承晩は1960年4月19日に不正選挙を糾弾するデモ隊と警官隊が衝突(死者186人)した事件を受けて4月26日に下野を表明し、5月29日にハワイへ亡命(四月革命)したのち、1965年7月19日 に亡命先のハワイにて90歳で客死している。


ハワイに亡命し、保身を図ったために、李明博や朴槿恵のように逮捕収監されることも、全斗煥のように死刑判決(後に特赦されている)が下されることなどはなかったが、逮捕されていれば「国家と国民に対する罪」で死刑判決が下されたのではあろうが・・


「独島はわが領土」と盗人猛々しく謳っている韓国人にとり、「民族の共通の敵」である日本から竹島(朝鮮名:独島)を奪った英雄」であるはずの初代大統領李承晩がまったく英雄視も尊敬もされないのは、このように彼が自国の民間人を大量に虐殺した冷酷非道な元首だったからにほかならない。



(注)済州島三・四事件と日本への不法移民
済州島は元々、歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮半島から差別され、貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ密航し、定住する人々が多くいたとされ、日韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であった。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多いといわれている。



引用元:






参考:



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4 コメント

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建国の父 (泉城)
2020-08-11 00:29:02
日本人の思想では、自国民を守るのが元首というのが常識のように思います。
それが韓国では、自国の民間人を大量に虐殺した冷酷非道な人物が初代元首であるとは悲しい歴史です。
さらに済州島からの避難民により在日を生みだした原因者でもありますので、日本にも大きな負の遺産を残した人物と言えますね。
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おはようございます (kamakuraboy)
2020-08-11 07:03:56
コメントをありがとうございます。自国の初代大統領があのような血生臭いサイコパス的な人物だったことで、韓国という国は最初から自国の独立史にけちのついてしまった国だったわけです。

国民の漢字教育を廃止して、文字による史実の記録を国民から遮断して、陰惨で血生臭い自国の歴史のイメージを日帝強占時代、搾取された時代と真逆の捏造史で糊塗して、「その日帝と戦って独立した誇らしい三・一運動の歴史が建国史」というウリナラファンタジーにしがみついているのが今の韓国政府のようですね。
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反日主義の原因者 (泉城)
2020-08-12 21:51:03
どうして李承晩のような人物が初代元首になったのでしょうか。この人物が初代元首というのがよくわからないことです。
たぶん在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は李承晩擁立に関わっているのでしょうね。そのときには「よこしまで情緒不安定、冷酷で腐敗し、度し難いお天気屋」を見抜けなかったのか、それとも徹底的な反共主義という李承晩の口先に米国は騙されたのでしょうか。

李承晩は徹底的な反共主義といいながら李承晩ラインは全くChina共産党の覇権主義と変わらないように思います。
また、史実を捻じ曲げ反日歴史観を国民に強制した反日主義が現在の韓国にあるのは、この人に原因があるのですね。もっと糾弾されるべき人物です。

李承晩は確かに逮捕収監されることはなかったかもしれませんが、自国民から尊敬されず自国で最期を迎えられなかったのは、鬼畜李承晩の必然の末路です。
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こんばんは (kamakuraboy)
2020-08-12 22:28:58
李承晩は元々米国の懐にいた人物です。

両班出身の人物で1904年に米国に渡り、1907年ジョージ・ワシントン大学で学士号取得。1908年ハーバード大学卒で修士号取得し、1910年プリンストン大学で政治学博士号取得。博士論文は「米国の影響を受けた永世中立論」。同年韓国に帰国するも1911年に米国に亡命し、1913年ハワイに定住。

1918年李と親交があったウィルソン大統領によって「民族自決」などを掲げた平和原則が議会において発表。同年12月にはパリ講和会議においても「民族自決」を含む条約が提起されるに及び、ロビー活動を行うためパリ行きを希望するも、米国務省は、李の旅券を発行しないよう指示されていたのだそうです。

1919年中華民国の上海で大韓民国臨時政府樹立。李承晩によってワシントンD.C.に欧米委員部設立、1920年大韓民国臨時政府大統領に推される。しかし派閥抗争から失脚。ハワイに拠点を移す。

1933年満州事変を討議する国際連盟総会に大韓民国臨時政府全権代表として出席
1934年 -オーストリア人のフランチェスカ・ドナーと結婚。

1941年『日本の内幕記』を著す。日本の対米宣戦を予告。英国留学し、1945年 10月 -日本の降伏と朝鮮解放に伴い、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁直接統治下の朝鮮半島に帰還。

1946年 2月 大韓独立促進国民会を結成。総裁に就任という流れです。

アフガニスタンのカルザイ大統領と同じで、米軍によって予め用意され、養成された「傀儡要員」が李承晩だったのだと思います。
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