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日本人として日々の暮らしの中で思うこと、知りたかったこと

清朝の隆盛と衰退①

2019-03-10 11:42:48 | China
2018/6/10(日) 午前 11:23




現在の中国を理解するために、その手前の「清」の時代についてみていくと、

「清」という王朝の支配層は多数民族の漢民族ではなく、前身は明の柵封下にあり満州に住む「女直」(女真族)を統一したヌルハチ(太祖)が建国した「後金国」(1616年~)であった。女真族ヌルハチ(太祖)は八旗制という社会組織兼軍事組織を制定し、1619年「サルフの戦い」で民軍を破り、更にはヌルハチの子であるホンタイジ(皇太極、太宗)が山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服。


ホンタイジ(太宗)が1636年に皇帝に即位して建国。女真の民族名を「満州」に改めた。女真はモンゴルのリンダ・ハーンの遺子から元の印璽を受け継いだとされている。つまり、モンゴル帝国の継承者でもあるという立場。


その後の清は、太宗の子順治帝に続く康熙帝のときに「三藩の乱」を鎮圧して台湾を併合し福建省に編入、ロシアとの国境をネルチンスク条約により確定し、北モンゴルを服属させ、チベットを保護下におき、康熙帝、雍正帝、乾隆帝(~1799年)の三代で最盛期を迎えたようだ。


乾隆帝のときにオイライト系ジュンガル部を滅ぼし東トルキスタンを支配下におき、この地を「新疆」と名付け、黒竜江から新疆、チベットに及ぶ現在の中国の領土がこの時代にほぼ確定したのだそうだ。初代から6代皇帝乾隆帝までの時代が清の隆盛期であり、乾隆は清朝の最盛期の皇帝であり60年もの治世を行ったそうである。


圧倒的多数の漢民族が、異民族「女真族=満州族と改名」の支配に置き変わったにもかかわらず、明の支配域をほぼそのままの形で清が継承した要因としてどのような要因が挙げられるのであろうか。


①「清」の体制が科挙やその他の「明」の政治体制をそのまま引き継ぐ形での支配であったこと。

②「明」を滅ぼした李自成(西安を拠点に台頭し、北京を包囲。明の皇帝崇偵帝を自殺に追い込んだ)を「逆賊」扱いで討伐して「明の衣鉢を受け継いだ」という大義名分を全面に立てたこと。

③重要な官職には漢族と同数の満州族が採用されてバランスを取ったこと。


④広大な領土を支配するに当たって、藩部と呼ばれる南北モンゴル・東トルキスタン・チベットでは土着の支配者が取り立てられて間接統治を敷いた(理藩院に管轄)こと。

⑤満州族は八旗に編成され、軍事力を担ったこと。


などの要因が挙げられるようである。

つまり、「清」は6代皇帝の乾隆帝の頃までに現在の中国領土をほぼ確定しており、異民族が住む周辺地域は間接統治を行い、皇帝直結地では、漢民族と同数の満州族を配置し、軍事力は満州族八旗が担うというバランス感覚に優れた支配形態だったのだ。


そして、6代皇帝乾隆帝のころまでに清は最盛期を迎え、乾隆帝の60年の治世の十度に及ぶ遠征と乾隆帝の奢侈によって次第に財政が赤字に転じ、その後次第に衰退期に入っていったようである。


どこか、現在の中国共産党の姿と重なるところがあるように思える。中国は支配者が誰であってもどの時代も、周辺民族を従え拡張していきたいという「覇権主義」「中華主義」が根底にある、という点だ。その一方で、それを持続可能な形で支えるための財政面でのしっかりした国家運営がなされていなかったということも似ている。



引用:
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85







コメント

コメントを頂き有難う御座いました。
中原では、多くの王朝が起こりまた滅び去りました。その多くは、漢族ではありませんね。直近では、明の朱元璋が漢族の王朝でしたか?、唐は西域人、元はモンゴル人、清は満州人でしたね。モンゴル研究の泰斗、岡田英弘氏のお書きに成るモンゴル史は興味深いものでした。
2018/6/10(日) 午後 10:51 [ 井頭山人(魯鈍斎) ]


> 井頭山人(魯鈍斎)さん
コメントを頂きありがとうございます。現在の中国と日本の関係は決して良好なものではありませんし、中国の抱える深刻な問題も日本にとって無関係ではいられませんが、中国の歴史というのは、どこか突き抜けたような面白さがあるようですね。お示し下さった本も是非読んでみたいと思います。
2018/6/10(日) 午後 10:58 kamakuraboy


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