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李氏朝鮮時代の仏教弾圧と仏像破壊のため、韓国には古い仏像が少ない。
2018年2月18日ヤフーブログに投稿した記事より
13世紀初頭(1211年)にユーラシア大陸の広い範囲を征服し、一大帝国を築いたモンゴル帝国は、1388年、クビライ王統最後の大ハーン、トグス・テムルが内紛により殺害され、帝国を構成した諸部族は分裂し滅亡。
その後朝鮮半島はおよそ500年間に渡って、李氏朝鮮時代(1392~1910)となるのだが、李氏朝鮮時代には儒教唯一絶対主義による仏教弾圧が行われ、多くの寺院が廃止され、仏像も破壊された時代だった。
朝鮮半島における仏教弾圧の歴史:(以下一部引用からの抜粋)
李朝三代目の太宗(在位1400年~18年)の時代、高麗朝末には全国に1万以上もあったとされる寺は数が242まで激減。寺が所有していた土地や、 と呼ばれた奴隷を没収。四代目の世宗(在位1418年~50年)は、全宗派を 禅教2宗に統合、それぞれわずか18寺院だけを残し、他の寺を廃止。
九代目の成宗(在位1469年~94年)は、出家を全面的に禁止。十一代目の中宗(在位1506年~44年)は、全国にわたって仏像を没収し、溶かしたうえで 武器に鋳造。僧侶を土木工事に使役。僧侶は使役されるとき以外は、漢城(ソウル)に出入りを禁止。仏教は、山の中に逃げ込み、細々と命脈を保った。僧侶は、と同じの範疇となったそうだ。
その時代、朝鮮半島にあった仏像は、無残に首を切られたり破壊されたりしたために、百済・新羅芸術でもある仏像は日本では千年以上も大切に保管されてきたが、朝鮮半島には古い仏像の数が少ないのもこのためなのである。
以上、引用元:http://www.ishimoto.org/koria01/buddhism.html
ところで、対馬の仏像盗難事件(2012年~)は対馬の観音寺から韓国窃盗団によって盗まれた2体の仏像の内の1体が未だに韓国政府から返還されていない。韓国太田地裁での裁判で、韓国の浮石寺は、仏像が「倭寇によって盗まれたものだとする根拠」となる証拠(古文書など)は一切提出していない、一方、600年以上前から保管し県有形文化財指定されていた対馬の観音寺所蔵の仏像を、観音寺から韓国の窃盗団によって盗まれたことは事実であるのに韓国地裁は仏像の所有者は浮石寺であるという前代未聞の判決を下したのである。
この仏像事件は、韓国は「法治主義という民主主義国家としての価値観を共有している国」ではない、我々が考える当たり前のルールが通用しない国家であることがはっきりした事例でもあったのだ。
歴史的にみれば、半島の仏像が倭寇に盗まれて運ばれてきたとみるよりも、仏教弾圧によって、難を逃れて日本に渡ってきたとみるべき。また、モンゴル人や高句麗の支配地域から、日本に渡った渡来人達が、本人と共に日本に運んだ仏像を、信仰心の篤かった対馬の観音寺などの古い寺に寄贈したものもあったであろうと考える方が普通だ。
「倭寇による略奪」はいかにも自分達が被害者で日本が加害者であるかのような、事実と真逆の主張(韓国人窃盗団が日本から盗んで高い値で売ろうとしていた)。そもそも「倭寇からの盗難」の根拠を示さずに主張するだけ(裁判で浮石寺は根拠を提出できなかったそうである)一方的な言い分にすぎない。
尚、この事件以前から韓国人により日本に所在する仏像や仏画が盗難され、韓国に持ち出される事例が多発していたそうだ。韓国の人々が滋賀の百済寺などを訪れて、朝鮮人の祖先がもたらした文化であったかのように勝手な優越感を抱くのは実は歴史的根拠がない。現在の韓国・朝鮮の人々(高句麗及びモンゴル系)と、当時の百済などの渡来人には歴史的なつながりがないのだから。(百済と高句麗は出自がちがい、高句麗によって滅亡した百済の王族は日本に逃れてきているのである)
■対馬の仏像盗難事件のあらまし:
2012年10月頃、長崎県・対馬の観音寺から盗まれ、韓国に持ち込まれた仏像を、翌2013年1月に韓国で窃盗団が逮捕され、仏像は韓国政府に押収された事件で、韓国の瑞山というところにある浮石寺という寺が「中世の倭寇に略奪された」として返還を求め、韓国の大田地裁は2013年2月に浮石寺側の主張を認め、日本への搬出を禁じる仮処分を決めていた。その後、太田地裁は昨年2017年に1月26日、浮石寺側の主張を認め、仏像を浮石寺に引き渡すよう命じる判決を出した「仏像事件」はまだ記憶されている人も多いと思う。韓国の総合ニュースは「600年ぶりの帰還」と見出しをつけて報じたそうだ。
仏像は、対馬の観音寺が保有していた「観世音菩薩坐像」で、長崎県の有形文化財に指定されている。像の中から見つかった「結縁文」から、1330年に制作され、韓国中部の都市・瑞山にある浮石寺にあったと書かれてあったそうだ。総合ニュースによると、判決は「贈与や売買など正常な方法でない盗難や略奪などの方法で、日本に運ばれ安置されていたとみるのが相当だ」と、浮石寺側の主張を認めた。韓国政府側は「文化財であり、引き渡せば損傷する恐れがある」と却下を求めていたが、判決は「寺に十分に保管能力がある」と退けた。
浮石寺側は、窃盗団が処罰されたことで窃盗事件は解決しており「残った問題は、仏像の所有権が元の所有者である浮石寺にあるのか、占有者だった観音寺にあるのか」と主張。寺のある瑞山地方に1352~1381年に5回、倭寇襲来の記録があるとして、仏像が倭寇に略奪されたと主張していた。
浮石寺の円牛住職は「日本に略奪されたり不法流出したりした文化財は7万点以上に達する。今回の判決は不法に流出した文化財を取り返す出発点となる」と「評価している」とのこと。韓国の地裁の判決に対し、菅義偉官房長官は同日午前の会見で「極めて残念だ」「速やかに仏像が日本に返還されるよう、韓国政府側に適切な対応を求めていきたいと述べたそうである。観音寺側は訴訟の当事者ではなかったものの、前住職の田中節孝氏はマスコミの取材に対し今回の判決に無念さをあらわにした。
これが、対馬の「仏像盗難事件」のこれまでのあらましで、つけ足すと観音寺から盗まれた仏像2体の内、海神神社の銅造如来立像については、所有者が名乗り出ていなかったため2015年7月に日本に返還された。裁判で浮石寺は500年〜600年前に倭寇が強奪した仏像だと主張する根拠を求められたが、「根拠を示す鑑定書は仏像を失ったときに、思い出すのが悲しいので捨てた」と主張し、根拠は提示できなかったそうだ。2013年3月には浮石寺の僧侶と韓国国会議員、市民団体ら6人が来日し、観音寺にも訪問したが、観音寺では門前払いとなった。その際、浮石寺の創建に登場するマスコットキャラクターの人形や小型の仏像も持参したが、観音寺は「まずはうちの仏像を背負って一刻も早く持ってきて欲しい」として受け取らなかった。金額に換算すれば、このマスコット人形は850円であるのに対し、盗まれた仏像は数億円に相当すると述べたとのこと。浮石寺は「韓国は日本に仏教や仏像を伝えました。それなのに日本人は寺を燃やし仏像を奪っていきました。過去の歴史を日本は認める姿勢はあるのかということです。返還して欲しければ略奪ではなく友好的に贈られたことを日本側が証明すべきだ」と語った。
現在の状況としては、韓国政府は日本との外交問題に発展しているため、韓国政府が保管している日本から盗まれた仏像を韓国浮石寺への引き渡しは保留されているらしい。
元々、この仏像は、対馬の観音寺が保有していた「観世音菩薩坐像」で、長崎県の有形文化財に指定されている。像の中から見つかった「結縁文」から、1330年に制作され、韓国中部の都市・瑞山にある浮石寺にあったと書かれてあったそうだ。総合ニュースによると、判決は「贈与や売買など正常な方法でない盗難や略奪などの方法で、日本に運ばれ安置されていたとみるのが相当だ」と、浮石寺側の主張を認めた。韓国政府側は「文化財であり、引き渡せば損傷する恐れがある」と却下を求めていたが、判決は「寺に十分に保管能力がある」と退けた。
浮石寺側は、窃盗団が処罰されたことで窃盗事件は解決しており「残った問題は、仏像の所有権が元の所有者である浮石寺にあるのか、占有者だった観音寺にあるのか」と主張。寺のある瑞山地方に1352~1381年に5回、倭寇襲来の記録があるとして、仏像が倭寇に略奪されたと主張していた。
浮石寺の円牛住職は「日本に略奪されたり不法流出したりした文化財は7万点以上に達する。今回の判決は不法に流出した文化財を取り返す出発点となる」と「評価している」とのこと。韓国の地裁の判決に対し、菅義偉官房長官は同日午前の会見で「極めて残念だ」「速やかに仏像が日本に返還されるよう、韓国政府側に適切な対応を求めていきたいと述べたそうである。観音寺側は訴訟の当事者ではなかったものの、前住職の田中節孝氏はマスコミの取材に対し今回の判決に無念さを露わにした
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盗難にあい、未だに返還されていない観音寺の観世音菩薩坐像(長崎県指定有形文化財)