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金正男暗殺事件とその背景②

2019-12-08 08:18:40 | 韓国・北朝鮮
暗殺された北朝鮮金一族の長男である金正男氏の生い立ちと金一族の人々をみてみることに。

★少し感想を加えていますが、ほぼ引用文から抜粋して編集してあることをお断りしておきます。


金正男(キム・ジョンナム )(1971年5月~2017年2月)氏は北朝鮮の建国者である金日成主席本人が、1994年の「北朝鮮危機」の際に訪朝したジミー・カーター元米国大統領に対し、「自分が一番愛する孫」と紹介されるなど、祖父の金日成主席に愛され認めれる存在であったようだ。


金日成主席本人は、この「北朝鮮危機」のすぐ後の同年7月に心労が重なったためか亡くなっている。


北朝鮮の2代目の指導者である父・金正日の長男として生まれながら、金正男氏の生い立ちは少々複雑であった。


■内妻であった実母
Wikiでみてみると、金正日の最初の妻とされる人物は洪一茜(ホン・イルチョン )(1947年~)という女性で金日成総合大学・ロシア文学科卒業 とあり、才女だったようだ。没年が不明で、生存しておられるのかのしれないが、父は兵士で朝鮮戦争で戦死、金日成主席が正日に紹介したことができっかけで1966年に結婚。


長女である金恵敬(現在の最高指導者・金正恩の長姉)をもうけ、1969年に離婚した後、1977年から1991年までに最高人民会議のメンバーを務めていた。、議会から退いた後には、1991年9月に金亨稷師範大学の学長に任命されたが、2012年6月に、70代を目前にして退任、などとある。



金正男の母・成蕙琳(ソン・ヘリム )は、1955年の平壌映画大学を卒業した有名な映画女優で、元は金日成総合大学の研究者、李平(リ・ピョン)の妻で、一女をもうけていた。李平氏の父親は、著名なプロレタリア作家の李箕永(リ・ギヨン)という人物で、義弟に当たる人物は、韓国でもよく知られる北朝鮮のアジア太平洋平和委員会 (亜太平和委)祖国統一研究院長)のリ・ジョンヒョクという人物で、リ・ジョンヒョク氏は2018年11月には「アジア太平洋の平和繁栄のための国際大会」代表団を率いて訪韓している、などとある。 


金正日とリ・ジョンヒョクは金日成総合大学の同期で、つまり金正日は友人の兄嫁で元映画女優で人妻の成恵琳を誘惑し同棲して暮らすようになったのがきっかけといわれている。


正日と蕙琳の結婚に対し、金日成は、「映画女優という職業が、政治家の夫人には適切では無いこと」や、「蕙琳は結婚し、夫も子供も居ること」、「韓国生まれで、のちに北朝鮮に来た複雑な家族環境」といった3つの理由を挙げて、猛反対をしたため正日は蕙琳と71年に生まれた長男の金正男を父の金日成主席に知られぬよう隠し、正日の側近を除いて蕙琳と同棲している事実を極秘にした。


その秘匿ぶりは徹底しており、蕙琳との同棲や正男が生まれているいことを知った文化芸術界の人を全て収容所送りにしたり、現在ソウル在住の脱北者なども、成蕙琳のことをよく知っているという理由だけで政治犯収容所に送られたと後に語っている。 


蕙琳は終生内妻のままで、73年に正日は金英淑(ヨンスク)という正妻と結婚。73年の終わり頃から、蕙琳は精神不安定と鬱状態に陥る。


■牢獄のような豪邸暮らしと贅沢なおもちゃに囲まれた生活
正日は恵琳との同棲後の70年ごろ、平壌市中(チュン)区域中城洞(チュンソンドン)に「15号官邸」と呼ぶようになる100坪ほどの「小さな」家を建てた。それまでは、平壌中心部の普通門(ポトンムン)近くの「5号官邸」で、妹の金敬姫(ギョンヒ)らと暮らしていた。


戸建ての平屋だった15号官邸は、正男が誕生すると、73年と78年に2回にわたって建て増され、正男専用の娯楽室だけで約300坪を占めたという豪華ぶりだったそうだ。


金日成主席の信頼を勝ち取り、政権内での地位を確実にしながらも金正日は相変わらず私生活で悩みを抱えていた。


蕙琳との間に生まれた長男金正男は当時2歳半のよちよち歩きで、親の愛に飢えて育った正日は、長男正男に尋常ではないほどの愛情を注いだといわれている。


当時の正日は息子を食卓の上に座らせ、かわいらしいしぐさを眺めながら食事をしたというエピソードもあるようだ。


「(娯楽室の)中では電気自動車に乗って移動した。柱のない部屋だったから運動場のように広く感じた。ポケットボール台があり、電子娯楽機器が陣列されていた」(正男のいとこ李韓永による回想)


正日は毎年、世界各地に正男の「誕生日プレゼント購入団」を派遣して100万ドル(現在のレートで約1億2千万円)分のおもちゃなどを調達。3歳の誕生日からは、ソ連に特注した子供用「将軍服」を着せ、官邸で働く警備兵や従業員を集め、閲兵式を行わせた。


外界と完全に隔離されて暮らす長男を不憫に思うあまり、贅の限りを尽くして甘やかしたようだ。その一方で、成蕙琳母子が息抜きに“外出”できる場所は平壌東部の「85号官邸」や「蒼光山(チャングァンサン)官邸」などに限られていた。


つまり正男母子は黄金で出来た籠の中の鳥だったのだ。


85号官邸は、池や釣り場に加え、白頭(ペクトゥ)山と金剛(クムガン)山から運んだ奇岩を配した人工の滝まであったそうで、正男氏のいとこの李韓永=リ・ハンヨン、本名・一男(イルナム)氏によると、巨大な庭では、白頭山で捕獲された鹿が跳びはねていたという。


贅の限りを尽くした官邸ではあったが、どこも4メートルを超える塀と、その上に張り巡らされた高圧電線に囲まれ、塀の外は15メートル間隔で、内側は30メートル間隔で警備兵が配置されていた。


蕙琳と正男母子が壁の外に出ることはめったになく、外出時に乗るソ連製乗用車のジルも、フロントガラスを除く窓が濃紺のカーテンで遮られ、車窓の風景を楽しむことも許されなかった。


息子の成長に伴い、蕙琳は「こんな生活は嫌だ。正男を早く、お父さま(金日成)に会わせてちょうだい」と、夫に苛立ちをぶつけるようになり、「少しだけ待ってくれ。今は時期が悪い」と宥めようとする金正日に、蕙琳は「ダメなら、私からお父さまに言いに行くわよ」と子供を連れて家を出ようとすることも度々だったという。


李韓永氏が母の成恵琅から聞いた話によると、正日氏は、慰めようとしても聞かない恵琳に向かってピストルを取り出し、「撃ち殺すぞ」と脅し付けたこともあったそうだ。


■生まれながらに祖父に愛された孫娘金雪松
その頃、正妻の金英淑は74年12月に長女の金雪松(ソルソン)を産み、金正男の存在を知らされていない金日成主席が雪松を「初孫」とばかりに格別な愛情を注ぎ、金日成主席が雪松に溺愛ぶりを示すほど、息子を不憫に思う成蕙琳氏の病状は悪化していった。


正男氏の腹違いの妹で、正恩氏ら兄弟からみれば腹違いの姉である「雪松」の名は日成主席が自分の父、金亨稷(ヒョンジク)が作った詩から「雪と松」という字句を取り、孫娘の名前に付けたといわれ、その溺愛ぶりが伝わってくる。


「南山のあの青い松の木が/雪に覆われ…」と始まる詩は、北朝鮮では、父が子に、雪の中の松のように強く育ってほしいという「革命伝統」を託した詩歌として知られ、最高指導者がその「伝統」を初孫娘に託したとされる。


■母の心の病と孤独な生い立ち
75年頃から蕙琳氏の症状は更にひどくなり、彼女は76年5月から長期治療のため、モスクワに住まいを移す。


母がモスクワに去った当時、正男氏は僅か5歳。教育を施さなければならない時期にさしかかっていたため恵琳の母、金源珠(ウォンジュ)と姉の成恵琅(ヘラン)一家が代わって、正男の面倒を見たが、正日氏はその頃も長男の存在を秘匿し、その行動範囲を厳しく制限したそうだ。


母のいない家に閉じ込められた正男を不憫に思った祖母の源珠は、正日氏の許可の下、平壌郊外に連れ出すこともあった。だが、正男は、外の世界を異常に怖がり、同世代の子供と交わす言葉さえ知らずに育った。


伯母の恵琅の手記「北朝鮮はるかなり 金正日官邸で暮らした20年」によると、「母(金源珠)は正男を連れ郊外に行って牛や山羊を見せ、飛び跳ねて遊ぶ子供たちの近くに行くよう促しても、遠くから、子供たちを牛や山羊を見るように眺めるばかりで、近づくことが出来なかった」と記している。


「正日を蕙琳はかわいそうな人だと思っていた」と蕙琳の姉である成恵琅は「北朝鮮はるかなり 金正日官邸で暮らした20年」に記している。幼くして母を亡くし、落ち着ける居場所もなく育ち、父の絶対的権力の下で孤独にさまよっていた夫を哀れな弟のように思っていたという。


■娘金敬姫のとりなしで存在を認めた「孫」と認めなかった「孫」
祖父の金日成主席は後に、正日氏の妹である金敬姫(キム・ギョンヒ)とその夫で娘婿の張成沢(チャン・ソンテク)夫妻のとりなしにより初孫である金正男氏と対面し、初孫である正男の存在を認め、党活動に専念する正日に代わって可愛がるようになったとされる。1994年に訪朝したジミー・カーター元米国大統領に対し金日生主席は正男を「自分が一番愛する孫」と紹介してる 。


金日成主席は金正日氏と後妻である高英姫(コ・ヨンヒ)との結婚にも反対し、その子の金正恩や金正哲は平壌から離れた元山で生活させられ、生前の祖父との面会も出来なかったそうだ。


正恩氏の母・高英姫は大阪生まれの在日朝鮮人の帰国者で、やはり正妻にはなれず、内妻のまま2004年に亡くなっている。正恩兄弟は祖父である金日成主席の生前、決して孫とは認めてもらえなかったという。


対照的に、誕生日を金日成主席によって直接祝われた金正男氏は謂わば金日成・金正日と同じ長子であるゆえ金正日の後継者となりうる「皇太子」の地位が確定したと当時の側近達はみなしていたそうだ。


蕙琳の姉、成恵琅(ヘラン)の息子で、正男の遊び相手となる李韓永=リ・ハンヨン、本名・一男(イルナム)は、亡命先のソウルで出版した「大同江(テドンガン)ロイヤルファミリー・ソウル潜行14年」に「空き瓶で長男のおしっこを受け取る」正日の姿を映したホームビデオを見たことがあると書いている。


■金正日の女性遍歴~朴エラ、高英姫、・・・
金正日には複数の内縁関係の女性が同時期にいたとされ、朴・エラという女性が高英姫と金正日氏との橋渡しをする前には彼女も正日氏の3人目の愛人だった。彼女は韓国のニュースサイト、リバティ・コリア・ポスト(LKP)によれば、1947年4月11日、ソウル市の麻浦(マポ)区で生まれた。


麻浦と言えば今でこそソウル市内の中心部に位置するが、当時は町はずれのスラムだった。母親は著名な芸術家で、3歳の頃、朝鮮戦争が勃発し、母子は戦火のソウルを逃れ、軍事境界線にほど近い山奥の村に住む親類の元に身を寄せた。


1953年7月に停戦協定が結ばれたころ、母子の暮らす家は北朝鮮領になり、自動的に北朝鮮の公民となった。


北朝鮮において、韓国出身者は「成分(身分)が悪い」とされ、進学や出世などにおいて様々な制約を受ける。しかし、その類まれなる才能が身分制度の壁を越えるのに役立ち、小学校の時から舞踊で頭角を現して成人してからは北朝鮮の代表的な革命歌劇「ピバダ」(血の海)や「花を売る乙女」でヒロインを演じた。


そして、朴・エラは運命的な出会いをする。金日成総合大学を卒業し、党中央委員会の宣伝扇動部に配置され、芸術事業の指導に当たってい後の最高指導者、金正日に見初められたのだ。ステージ上で舞う彼女を見た金正日は側近に「心臓が止まるかと思った」と言ったと伝えられている。


その後、金正日は夜な夜な朴・エラを呼び出しては食事を共にし、関係を築いていったという。やがて彼女は、金正日の特別な配慮で入党が認められた。「成分が悪い」だけの人々には考えられないほどの大出世だった。


その後も金正日は個別指導と称して、パク・エラを自らの執務室や別荘に呼び出したりしていた。慈江道(チャガンド)の江界(カンゲ)や淵豊(ヨンプン)にある招待所にも2人で入り浸っていた。


金正日には内縁の妻である成恵琳がいたが、幹部らの間では「金正日は成恵琳を捨てて、朴・エラと同棲するだろう」と囁かれていた。公式の場に立つことはなくても、事実上のファーストレディの座はもはや彼女のものかと思われた。ところが、それは彼女自身の痛恨のミスで水の泡と化してしまった。後輩の高英姫を金正日に紹介してしまったのだ。


朴・エラより6歳も年下で優れた舞踊家だった高英姫に、金正日は一目で心を奪われてしまったそうで、やがて金正日は様々な口実を並べ、朴・エラと距離を置くようになった。


(金正恩の母・高英姫の経歴は大阪で生まれた在日朝鮮人の帰国者で類まれな美貌の舞姫とされていますが、詳細については今回省略します。下の方に付けた引用元にかなり詳しく書いてあります)


それでも、パク・エラは1987年に人民俳優の称号を授与され、万寿台芸術団から朝鮮人民軍協奏団に移籍した。男女の関係は終わっても、金正日は朴・エラを排除しようとはせず、優れた芸術家として遇し続けたということだ。

 
70年代半ば頃からは「4人目の女」高英姫に愛情が完全に移ってしまい、高英姫との間に正哲、正恩、与正という2男1女が生まれている。正男の母蕙琳はモスクワから帰国することもなく2002年にモスクワで死亡。


成蕙琳が客死して埋葬された墓の墓石にはロシアの女性の名前が刻まれていたそうで、ロシア駐在の北朝鮮大使館が、墓に誰が葬られているかわからないように偽装したのは「自然な」ことだったと語る。東亜日報によると、現在彼女が眠っている墓地の名簿には、「オ・スニ」という偽名が登録されているそうだ。


その墓はモスクワ西方のトロイェクロブスコイェ共同墓地第13区域にあり、ロシアの有名な政治家、将校、俳優などが眠っている場所で、2005年に建てられた墓石には現在では「成蕙琳の廟(1937年1月24日~2002年5月18日)」、側面には「廟主、金正男」の文字がそれぞれ刻まれているそうだ。


一人息子であった正男氏にとり、ひっそりと異国の地で生涯を終えた母の名をその墓石には、偽名ではなくしっかりと刻みたかったようだ。


参考:


引用:









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