■金正男氏は後継者ではなかったし、興味も示さなかった
金正男氏は「後継者説」が広まると、日本のメディアの前で、「後継者は父(金正日氏)が決める」、「私は後継ぎには関心がない」、「父が正恩のことをとても愛している」などと発言していたそうだ。
人格形成期に母が不在であったとはいえ、祖父や父から溺愛され、誕生日を祖父・日成氏から直接祝福された金正男氏は見るからにおっとりとしたお坊ちゃん育ちで、謂わば「皇太子」の地位を確定したと当局からはみなされていたようだ。
対照的に父・正日氏と元在日朝鮮人の帰国者で後妻である高英姫との間に新たに生まれた孫の金正哲(次男)や正恩(三男)のことを祖父・日成は孫として認めず、正日氏の妹で叔母の金敬姫・張成沢夫妻のとりなしでも祖父とは面会も許されなかったとされる。正恩氏は母高英姫の言いつけで、一時期実名を伏せて、軍隊生活を経験することを命じられるなど、母から強く後継者となることを期待され、精神的に鍛えられていたらしい。
正男氏は1979年からの10年間、北朝鮮の外で生活している。12歳から14歳までは母のいるモスクワで生活し、1981年からスイスのベルンにあるインターナショナルスクールに留学した後、1980年代後半にジュネーブ大学に入学。1995年からは中国の北京で暮らし始め、上海の経済発展ぶりを見て北朝鮮の改革開放を志すようになったともいわれていた。
1980年代後半に帰国した頃には仏語と英語を堪能に使えるようになり、ロシア語や中国語(広東語)もある程度話せ、日本語については、日本人記者の「日本語は分かりますか?」という朝鮮語の質問に、日本語で「日本語ワカリマセン」と答えたとも。
1980年代後半に正男氏は祖国に帰国したが、1970年代後半から父の正日氏は正恩氏の母である高英姫を第2夫人とし、高英姫は自らの子供たちを後継者にしようと画策したいたといわれている。
■北朝鮮での生活
正男氏は1988年に17歳でコンピュータ委員会委員長に就任して北朝鮮のIT政策の最高責任者となり、朝鮮コンピューターセンター(KCC)を設立させ、北朝鮮サイバー軍を育成する金策工業総合大学や金日成総合大学などでプログラミングを直接監督して、軍の地下光ファイバーケーブルなど北朝鮮のITインフラの整備に関わったとされる。
しかし、帰国後の正男は世間から隔絶された平壌や元山での暮らしに不満を覚え、政治経済体制にも疑問を抱いていたとされ、父の正日から政治犯として炭鉱で働かせると警告を受けたといわれている。
また1990年代前半には国営工場の工場監査に参加したが、罪をかけられた工場経営者たちが処刑される姿を見て国の政治体制に幻滅するようになったといわれている。
1995年には朝鮮人民軍の大将となり、1996年に新設された秘密警察の朝鮮人民軍保衛司令部の責任者になったとされる。
この頃の正男の役割は数十億ドル相当ともいわれる金一族の秘密口座の管理だったといわれており、投資家で死の商人という実業家の一面も持ち、スカッドやS-16などの武器を輸出して得た元手で株式や不動産に投資して、マカオ・スイス・香港・日本・シンガポール・イギリスなどの銀行にある保衛司令部の資金を管理し、朝鮮労働党39号室の責任者でもあったという。
1990年代から毎晩平壌高麗ホテルにメルセデス・ベンツで乗り付けて豪遊していたとされ、一晩で10万米ドルを浪費することもあったという証言も。
2000年6月の父・正日と金大中大統領の南北首脳会談の前に現代グループが行ったとされる5億ドルや4億ドルとも言われる巨額の対北送金は経由地のマカオで秘密資金を管理していた金正男の手にも渡ったとされる
2001年1月に父・正日が訪中した際、北京で暮らしていた正男氏は父の上海のIT技術視察にも同行し、正日氏は江沢民中国共産党総書記との会談で摩天楼が並び立つ上海の経済発展を「上海は天地開闢した。改革開放が中国の経済発展に重要な役割をしたことが十分に証明された」と絶賛して改革開放に意欲を見せ、この時長男である正男氏は江沢民の長男である江綿恒と会談して太子党と親交を結んだとされる。
外国生活が長い正男氏は東京ディズニーランドがお気に入りで、度々国交のない日本に偽造パスポートで訪れていたとされ、2001年5月に日本に入国しようとして成田の入管で拘束され、日本のマスコミで大きく取り上げられて一躍有名となるという失態を犯してしまう。
日本での入管事件によって正男は後継者争いに敗れたとする説があるが、米ジョンズ・ホプキンス大学・米韓研究所のマイケル・マッデン客員研究者によると、正男が後継者になったことはなく、自分の息子が金正日の後継者になるよう運動していた高英姫氏がこの事件を利用したため、金正恩と金正男がライバル関係のように大げさに伝えられるようになったが、金正日の長男という立場でありながら、後継者問題を巡り、北朝鮮の政治体制を揺るがしかねない批判、あるいは意見を広く西側に向けて発信していたことから、軍部を中心に北朝鮮側にとって疎まれる存在であるとみられていたそうなのだ。
2011年頃には父親である正日氏への接触はもちろん、公式非公式問わず北朝鮮への入国や北朝鮮指導部とも接触が報道されたことはない。同年12月17日の正日の死去においても、テレビで初めて知らされたことが伝えられている。
金正日氏が脳梗塞で倒れたとき、北朝鮮に招聘された仏人医師の証言によれば、正日氏の病床の傍らにいたのは正恩氏と与正氏兄妹だったとそうで、そこには幼少時にあれほど溺愛した正男氏の姿はなかったそうだ。正日氏は妹金敬姫、張成沢夫妻、正恩氏、側近ら数名と話合って自分の後継者を正恩氏とすることを自ら決定したようだ。
■金正日氏の最晩年の嘆き
2011年12月19日正午、北朝鮮は「特別放送」を行い、最高指導者の死去を発表した。総書記の金正日が「17日午前8時30分、現地指導の途上、急病で逝去した」との内容だった。2日以上にわたって、独裁者の死が隠匿されたことに日本をはじめ、韓国や米国の政府当局者らは大きな衝撃を受けた。
米韓当局は衛星画像から、正日の専用列車が平壌の竜山(リョンサン)1号駅に停車したままだった事実をつかんでおり、「野戦列車」内での「17日朝」の突然の死は、当初から疑義が持たれていた。
正日氏の死の間際は後継者に指名した正恩氏の未熟さと失態に対する怒りが引き金になったようで、彼が本当に信頼していたのは金雪松で、弱る体で、最後に訪ねたのは最愛の娘雪松の家だったそうで、そこで亡くなった、というのが真実らしい。
雪松は金正恩とは母親が異なり、正日の夫人として知られる5人の女性の中で唯一、正式に結婚した金英淑との間に生まれ、幼少時代、父だけでなく、祖父の金日成の愛情を独占したといわれる。名付け親は祖父であった。
彼女は公の場にめったに顔を出さなかったが、2001年夏、父親のロシア訪問に同行し、その姿が目撃されており、一行を案内した元ロシア政府高官のコンスタンチン・プリコフスキーによると、雪松は身長約165センチ、色白の美人で、中尉階級の肩章を着けた軍服姿だった。
「私は、娘(雪松)にほれている。彼女も後継者の一人と考えている」と、正日はプリコフスキーに告げたという。
雪松は正日の晩年のスケジュールを管理し、現地視察にも影のように付き従った。各部署から上がる書類にも目を通し、父に代わって重要案件を処理することもあるほど、正日氏が信頼していた人物のようだ。
北朝鮮元高官によると、腎臓が弱りストレスで心身とも疲労するなか、会う相手として亡くなる前日最後に訪れたのは最愛の娘である雪松の家で、「後継者に指名したはずの金正恩に対する落胆がそれほど大きかったからだ」とみる。
金正日が死亡した2011年12月16日に正日氏が受けた電話は、金正恩が「取り返しのつかない失敗」を直接父正日氏に告げたものだった可能性が高い。
当時の証言や資料から、「強盛大国」実現の基幹プロジェクトであり北朝鮮最大の水力発電所として完成を急いできた北部、慈江(チヤガン)道の煕川(ヒチヨン)水力発電所建設に関し、「決定的な欠陥が見つかった」という報告だったようだ。
「ダムから漏水が発見された。安全性に問題があり、工期も遅れている。仮に完成しても発電量は当初見込みの20%に満たない」という内容の報告で、プロジェクトの指揮は、後継指名した正恩に執らせ、自分が全力でサポートし、国の総力を注いできた発電所建設に「決定的欠陥」が見つかった」ことを正日氏が初めて知り、そのとき受けたショックの大きさは病身には耐えられず、最後は医師に止められていたワインを口にして、肝心の薬を飲み忘れ、心不全で亡くなったそうなのだ。
「ダムは2001年に着工するも放置状態が続いたが、2009年、正日が現地指導でてこ入れし工事が再開。当初の10年計画を修正し、3年以内の完成を指示した。正日の指示は『絶対』かつ『国是』のはずだった。」
「軍人や住民、工場労働者、学生を動員。つるはしとスコップだけで基礎工事が3カ月で完成し、『一般工事に比べ7倍もの速度」で成し遂げたと喧伝(けんでん)された。朝鮮労働党機関紙、労働新聞は『強盛大国に突き進む新世紀朝鮮のシンボル』」と称えられた。」
「その後も頻繁に現場に足を運んだ正日氏は、プロパガンダを真に受け、完成すれば、平壌や周辺の慢性的な電力不足を一挙に解決できると信じていたとされ、彼の目には建設は順調に進んでいるかに見えた。」
「金正日氏は付近一帯の工場に供給される電力やトラック、重機を煕川に投入するよう指示。ところが、煕川に引き込む電線が確保できず、トラックも燃料不足で動かない。そんなところに、あろうことか、金正恩がダム建設に使う高強度のセメント約1千トンを別の都市化建設に回すよう指示していた」とうのだから、後継指名した息子こそが獅子身中の虫であったということだ。
「計画の空回りは、誰の目から見ても明らかだったようで、2011年1月、正日氏は中央本部党委員会で、煕川問題を持ち出し、「責任を負うべき者が虚偽の報告をするから必要な措置が取れない』と指揮を執る息子正恩を含む幹部を強い調子で叱責した」そうだ。
「脱北者の証言によれば、工期を短縮するため、規格外の強度の弱いセメントを使ったり、土を混ぜたり、セメントが乾くのを待たずに、さらにセメントを注ぎ込むこともざらにあった」のだそうだ。
「幹部、労働者を問わず、皆が都合のいい報告だけを上げ、最高指導者を騙し続け、そこには後継者たる正恩も含まれていた。そのことに最後の最後で気付かされたということだったようだ。息子の責任を問い、後継者体制を見つめ直すにも残された時間はなかった。正日氏が目指した『強盛大国』は、儚い夢に終わった。」
金正日氏が実際に死亡した11年12月16日、彼は愛娘雪松の家を訪ねており、彼が最期の最後、本当に国を託したかった相手は長年の間父を影で支え、常に控えめなしっかりものの愛娘雪松氏だったのではないだろうか。
父の死をメディアを通じて知り、正男氏は直後に「金哲(キム・チョル)」という名義のパスポートを使って平壌直行便のある北京経由ルートを避けて本国に帰国し、幼少時に溺愛を受けた父正日氏の霊前との対面を果たしている。後継指導者である金正恩を含む家族とともに父に別れを告げたとみられるが、正男氏は数日後にはマカオに戻っており、正日氏の公式な葬儀への参列は確認されていない 。
入国事件当時、小泉政権下の外相は田中真紀子氏で、慌てふためいて金正男氏を強制送還したそうだ。当時東京都知事の石原慎太郎氏(在任期間1999年~2012年)は、彼を「日本人拉致被害者開放」のカードに使うべきだったのではという「なかなか一味違う」意見を述べておられた。
父正日の死から約6年後、祖父や父に長男として愛された金正男は彼の母と同様、祖国に還ることなく異国の地で暗殺という形で幕を閉じた。
彼は北朝鮮という極めて外から不透明な国家の中枢の奥の奥にいた人物だからこそ熟知している情報をCIAに売る裏切者として処刑されたのであろうか。
そのような側面もあったのかもしれないが、軍幹部など重要な地位にあった人物が「脱北」という形で亡命した例はこれまでも多くあり、恐らくそれらの人々にも何らかの形で米、中などが接近しては情報を得てきたことは冒頭のCIA当局者の話からも容易に想像できるし、彼が特に命を狙われたのはそれなりの理由があったのだと思う。
「主体思想」の国である北朝鮮の金一族の三男にして三代目となった若い金正恩氏(1984年~)にとり、腹違いで13歳年長の長兄正男氏の存在は、本人が権力への意志を持たなかったにも関わらず脅威であったということなのだ。
祖父金日成主席が「最愛の孫」として米国の元大統領に紹介したというエピソードがあり、留学などで海外に長く住み、国際的な感覚や視点をもち、複数の外国語能力を持っていた兄は、成田入管での逮捕という汚点がなかったならば当然、後継者として最も相応しい人物と期待されていたはずだからだ。
自国に批判的であるとして軍幹部から疎まれるくらいの人物こそが、北が生まれ変わるために必要なバランス感覚をもった指導者になり得たはずである。
一方の金正恩氏を「共存できない相手」として、トランプ大統領は就任後直ちに北朝鮮への「先制攻撃作戦」を練るように指示を出していたのだ。
現在の金正恩氏自身は暴君の辿り着く末路という恐怖に脅え、自分の権力の座を保つことにのみに拘り、そのためならば国民を飢えさせても良いと思っている時点で、一国の指導者として失格であることは明らかなのだ。
参考:
引用:
こんばんは
金正男氏は見るからにぽっちゃりして、意地悪な雰囲気はないお坊ちゃんのイメージですね。
海外生活が長いので、独裁国家の悪いところを十分に認識して自由で民主的な考えを持つのは当然のような気がします。
金融やITはできても人殺しまではできないでしょう。
小さい頃からお金に不自由せず暮らしており、北朝鮮の非情なドンにはなりたくもないと心から思ったはずです。
一方、金正恩は性格がひねくれてしまう境遇ですしドンになってからは常にクーデターや暗殺に対する恐怖心がありますから粛正もためらいません。
トランプは、先日のようにミサイルへの措置として戦略爆撃機B52Hを飛ばしても、大統領選まではそれ以上の軍事的圧力を控えるでしょう。ただし再選されたら「ロケットマン」を「ミサイルマン」に変えて強行姿勢を強めますから金正恩は焦っていますね。
独裁国家の末路は決まっています。
しかし「我々には失うものがない」などと言っている北が何をするかわからない状況になってきたことも事実ですね。CSISは北が先日ICBMへの搭載を想定したエンジンの燃焼実験を行って成功したと分析しており、北朝鮮が昨年5月に坑道を爆破し「廃棄した」と主張している豊渓里(プンゲリ)の核実験場が衛星画像の解析から「活動再開」していることもわかっているそうです。つまりトランプ氏との間で交わされた合意を破棄した(というより最初から守る気もなかった)ということでしょう。トランプ氏は面子をつぶされたことにもなるし、これらの動きに対してどう対処するのでしょうか。
米国は、アジア通貨危機のとき日本が音頭取りしてアジア通貨基金を創設しようとするのを嫌い、結局、米国主導によりIMF管理で事を収めました。
同盟国であるにもかかわらず当時経済大国ナンバー2であった日本の勢いを止めるために出る杭を叩くくらいです。いわんや現在の経済大国ナンバー2で敵国の中国には、金融戦争を仕掛けて根底から転覆させるでしょう。中国の取引の2/3が短期のドル建てのようですよ。
中国を通貨危機に陥れることで北朝鮮・韓国も同時に叩くのだと思います。
もし、それまでに万一北朝鮮がICBMを発射すれば米国のみならず確実に国連決議違反ですから世界が報復措置を行うでしょう。
韓国について米国政府は、GSOMIAで一度裏切った奴はダメという烙印を押してしまっているようです。
金融界ではすでにコリアリスクになりつつあります。これをムーンウォークではなく文在寅を皮肉って経済が滑りながら後退しているということでムンウォークと呼んでいるようです。
韓国の3度目だか4度もだかの金融危機は今度ばかりは日米は助けないようです。
米国は朴槿恵前大統領が日米の反対を意に介さず習近平の隣で(戦勝国でもないくせに)「抗日戦勝70周年」式典で天安門城楼に立ち、当時の駐韓大使のリッパ―ト氏暗殺未遂事件などご起こし、米中の間で蝙蝠外交を続け、日韓GSOMIAを破棄寸前まで行き、米国大使館前で「駐韓米国大使斬首集会」なるいやがらせを繰り広げている北に同化しつつある裏切者韓国を既に見限っていることは明らかですね。滑りながら後退している「ムーンウォーク」は上手い表現ですね。