「端午(たんご)」は5月始めの午(うま)の日のこと。
午(ご)という文字の音が五に通じることなどから、奈良時代以降、5月5日が端午の節句として定着。
「端」は物の「始り」の意味で、「午」は「五」に通じることから、元々「端午」は月の始めの五の日のこと。その中でも数字が重なる5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになった。
日本ではこの日、男性は戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じ蘢って田植えの前に身を清める神聖な儀式の日だった。
しかし、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであることから、鎌倉時代ごろから男の子の節句とされ、甲胄・武者人形等を飾り、庭前に鯉のぼりを立てて男の子の成長を祝うようになった。
しかし、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであることから、鎌倉時代ごろから男の子の節句とされ、甲胄・武者人形等を飾り、庭前に鯉のぼりを立てて男の子の成長を祝うようになった。
5月5日の出来事:「 吉野の盟約 」
第40代天武天皇・鸕野讚良皇后・6人の皇子は吉野へ行幸。草壁皇子を次期天皇とし、異母兄弟同士互いに助けて相争わないことを誓わせた。
天武天皇-
「朕、今日、汝らとともに庭にて盟ひて、千歳の後に事無きことを欲す。いかに。」・・・
結果的に、天武天皇の望みは果たされなかった。
結果的に、天武天皇の望みは果たされなかった。
681年に草壁皇子は皇太子となるが、器量優れた大津皇子も政治に参加することとなり、後継は曖昧なものとなる。天武天皇亡き後、草壁皇子の母の鸕野讚良皇后は大津皇子に謀反の疑いをかけ、自殺に追い込むが、草壁皇子も即位することなく28歳で早世、鸕野讚良皇后が自ら天皇に即位して(持統天皇)草壁の遺児の珂瑠皇子(文武天皇)に中継ぎするも、文武天皇も25歳で早世。
天武直系の天皇は孝謙(称徳)天皇を最後に断絶し、千年どころか百年たたずに滅亡した。
天武王朝は断絶、天智系に戻り、現在に続く。
5月5日生まれの「 食客三千 」
紀元前3??年:孟嘗君(もうしょうくん:中国戦国時代の公族・政治家)
姓は嬀、氏は田、諱は文。斉の威王の孫。
春申君、信陵君、平原君と並ぶ戦国四君の一人。並ぶというよりも抜け出てませんか?
田文の父の田嬰は斉の宣王の異母弟で、薛(現在の山東省)に領地を持っていた。
田嬰には子が多く、田文の母は身分が低かった。さらに田文が生まれたのは5月5日で、この日に生まれた子は後に親を殺すと信じられていたため、田嬰は田文を殺そうとしたが、母は密かに田文を匿って育てたという。
紀元前299年、秦の昭襄王は田文を宰相として迎え入れようとしたが、気が変わり捕らえ殺すこととした。事前に察知した田文は、いち早く脱出。
鶏鳴狗盗の故事
狐白裘(狐のわきの下の白毛をたくさん集めて作られたもの)を盗み出し、寵姫を買収し宮城を脱出、函谷関に夜半についたが、関の決まりでは一番鶏が鳴いてから旅人を通行させる。孟嘗君の食客に鶏の鳴き声を真似るのがうまい者がおり、この者が鳴くと、周りの鶏が一斉に鳴き始めたため、函谷関は開門、田文らは夜中に関を通過し虎口を脱した。
その後、斉に帰った田文は宰相となり、合従軍を指揮し秦に勝つ。
斉国内で危険が迫り、魏に逃げ、その宰相に迎えられる。
田文は死後、諡して孟嘗君と呼ばれるようになる。
その後、斉に帰った田文は宰相となり、合従軍を指揮し秦に勝つ。
斉国内で危険が迫り、魏に逃げ、その宰相に迎えられる。
田文は死後、諡して孟嘗君と呼ばれるようになる。
誕生直後から、何度も殺されかかるも都度窮地を救われた天命の人ですね。
5月5日の誕生花:「 菖蒲(しょうぶ):勇気、嬉しい知らせ 」
池や沼の近くなどの湿地帯に生息。
菖蒲の葉はよい香りがするので、端午の節句のとき、
菖蒲の葉はよい香りがするので、端午の節句のとき、
葉をヨモギと一緒に束ねて風呂に入れる
「菖蒲湯(しょうぶゆ)」として古くから利用されている。
菖蒲、花菖蒲、カキツバタ、アヤメの4種の花は、葉や花の色や形が似ていたり、
別名や名前がかぶっていたり、まぎらわしいためよく間違えられる。
例えば、アヤメは「文目、菖蒲、綾目」と書いて「アヤメ」と呼ぶ。
菖蒲の学名はAcorus(美しくない)、一方、アヤメ属は、Iris(虹のように美しい)と
いう意味をもつように、学名に込められた意味はまったく違う。
では f-o-q
P.S. 見出し画像は、昨日の伊良湖です。
国道42号から国道259号へ、渥美半島地獄巡りしてきましたよ。
しかしこの採番は・・・。責任者連れて来い!と言いたい。
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