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なぜぼくは寺や神社に行くのだろうか。
最初ぼくは変なもの、妙ちきりんなものを求めて寺に行っていたような気がする。鳥居観音に行ったのも田谷の洞窟に行ったのも別に信仰心故のことではなかった。それが最近は奇異なものを求めてどこかに行く、というより、引き寄せられるように寺に行くようになった。相変わらず信仰心はあまりない。
なぜ、ぼくは寺に引き寄せられるのだろう。
まだはっきりとはわからない。
はっきりとはわからないものの、もしかしたら、そこに土地のツボがあるからじゃないか、と最近思う。足のツボを押すと身体の別の部分に響くように、そのツボを通じて別な場所に行けるような気がするのだ。。
先日宮沢賢治のお墓に行った。お墓に行ったからって宮沢賢治のことをもっと理解できるわけではないし、賢治本人に会えるわけでもない。でも墓前にたたずんでいると、どこかで賢治とつながっている不思議な感覚を味わうことができた。この場所は宮沢賢治という存在にとっての特異な場所なのだ。そしていろいろな土地には、様々な特異点がある。その場所に寺や神社がある。寺社を通して別の世界に触れる。ぼくの言う別の世界とはSFで言うようなものとはちょっと違う。現在のぼくたちの場所は「今・ここ」であり、別の世界とは「かつて・ここ」であったり、「かつて・あそこ」であったりする。そこで土地の記憶に触れるのだ。
訪れて大きな感情に満たされたりするのは、たぶん寺社を通じて土地の記憶に包まれるからなのだと思う。訪れる気持ちのいい場所、薄気味悪い場所。おのおのの持つ土地の記憶とそこに立つ人間との間の共感から生まれる感情ではないだろうか。
ぼくにとってそういう特別な場所はいくつかある。そんな中でも鞍馬と戸隠は特別だ(行ったことがないだけで、きっとすごい場所なんだろうな、というのはいくつか思い浮かぶけれど)。
鞍馬山全体が大きな生命の集合体のようにうねり、その大きなうねりが自分を包み込み、木々や小動物、さまざまな命と自分との間に生き生きとした交流を感じることができる。不思議な山だと思う。
そうだ、明日鞍馬に行こう。