教育のとびら

教育の未来を提言 since 2007
presented by 福島 毅

生き残りではなく知の共有へ

2007-09-06 | 雑感(教育関連)
学校選択性が議論されています。消費者がすぐれた商品を選ぶように、学校も人気校・不人気校によって保護者・生徒に選別され、自由に選ばれていくという方向性です。

例えば一部の私立学校がそうであるように、「語学・芸術・体育・理数」などの能力開発などを学校の特徴として力をいれ、生徒を募集し、またそれを目指した児童・生徒がいるといったケースは理解できます。

しかし公教育にこの原理をそのまま持ち込むとかなりのひずみを生じることになると思います。特に小学校などの義務教育では、必要最低限の基礎学力や学習習慣の確立といったことが求められているのであって、倍率を下げないための広報活動合戦のようなものが展開されることには違和感を感じるわけです。 国民に等しく底上げした教育をほどこすというのが公教育の役割であると考えるからです。

そして、差別化は口コミで進みます。例えば一人の教員の不祥事が出れば学校の評判も著しく落ちてしまったりするでしょう。人気校にはますます多くの関心が向き、そうでない学校はかげっていく。そのようなことが進行すれば、地域・学校間格差が進み、被差別的な意識の中で学ばなくてはならない子供たちが生じてしまいます。 どこに軸足をおいて議論しなくてはならないかというと、未来を担う子供たちであり、より多くの子供たちに学力を保証するのが公教育の役割と言えるでしょう。

では、能力の高い子供に対してはどうフォローしていくのかということについてですが、そういった生徒は学級内でアシスタントティーチャー的な役割を担うのはどうかと思うのです。先生の手伝いをして、理解の遅い生徒の手助けをしていく。それにより自身の学力もあがるでしょうし、社会貢献の精神も学ぶことができます。また、学校以外の中学・高校連携などの学習の取り組みも今後は考えていく必要があると思います。

各学校が、少しでも多くの児童・生徒を得るためにしのぎを削ることが目的化してしまうのはおかしなことではないでしょうか。 そうではなく、学校のあり方として素晴らしい部分(教育実践・授業改善など)は学校が持ち抱えて競争のアドバンテージにするのではなく、あまねく公教育で共有すべき方向で進んで欲しいと願います。 今回、このサイトの目的の一つも”知の共有”です。

◎まとめ
公教育において、各学校で教育の向上に向けて努力するのは当然であるが、生徒の獲得競争に奔走するのは本来の趣旨からはずれている。 すぐれた教育実践ノウハウは共有すべきである。
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