各家庭の教育方針がどこも違うように、100人に「望ましい教育」を語ってもらえば、100通りの答えが返ってくる。教育にはそんな性質がありますから、「理想の教育」の追求というのが難しいわけです。
それを前提に、それでもこれから目指すべき方向性は何かというものもまた同時に議論しなくてはならないわけです。ある程度の共通理解の上で、子どもたちの未来、人類の未来、至っては地球上の全生態系のウェルビーングを意識した生き方というのが今後の在り方だと思うからです。
ケースを日本に絞って考えてみると、そのひとつの方向性として、「本人のことを本人抜きで決定しない。」というのがあるのではないかと思っています。これは教育に限らず、医療・福祉などの分野も同様です。こうしたことは、近年「意思決定支援」などという共通ワードで語られたりするようになりました。
例えば、「赤ちゃんや幼児は未熟であり、本人に意思決定する力はない」と思って接するのと、「コミュニケーションは未発達だけど、小さな意思決定をしていく力を持っている」と思って接するのでは、本人のあとあとの自立度が違ってくることでしょう。例えばお菓子選びにしても、親が右手と左手のどちらのお菓子が欲しいかなどについて、簡単に意思決定の機会を設けることはできるのです。
教育の場においても、さまざまな意思決定場面を設けることが可能です。もちろん、大人が段取りしたほうが早いし、効率的であることは多々あるでしょうが、あえて時間をかけて意思決定する機会をもっと増やすということです。
「指示待ちの人が多く、自分の意思で決められない」という企業の人事担当の嘆きの話などを聞くにつけ、それは本人が意思決定するトレーニングを十分受けてこなかったことに要因があるのだなと思います。
教育のすべてにおいて、参加者すべての意思決定を待っていては進まないという場面は当然あるので、ゼロイチの議論をしているものではありません。いまの日本の教育状況は、あまりにも本人の意思決定場面が少ない。それは次の段階になる、他者と利害調整していく民主的プロセスの基本にもなりえることです。
本人はいま何を感じ、どうしたいと思っているのか? それを引き出していく教育。
そこがひとつのこれからの方向性だと思うのです。
ただ、ここで気を付けたいのが、本人の意思決定をただ待つだけだと不十分なことがあるということ。本人が何かみつけてチャレンジの最中でしたら干渉は不要なのでしょうが、問題は何もみつけられそうにない状態のとき。本人をよく観察していたなら、「こういう本を読んでみたらどうだろう? こういう人がいるから紹介してあげようか? こういうチャレンジをやっている人がいるけど興味あるかな」というような水を向けるようなアプローチを俯瞰できる大人側がサポートするということ。 そのためには不断&普段の観察力が問われますし、関連する人・もの・資源を結び付けてあげられるような大人側のリソース開発は欠かせないというわけです。そこに知識・経験を積んだ大人側(本人にとってはお兄さん・お姉さんの児童・生徒でも可)の関りが有効になってくることになります。
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