(ハイアーセルフ33さんからの投稿)
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みなさん、こんにちは。ハイアーセルフ33です。<私たちは神である!>
アセンションの次元分離などの情報も、今大切と思い投稿してきましたが、やはり内面に向かう知識もしっかり得て、日常に生かしていくことは、より重要に思います。
以下、その方面での信頼の情報源である、和尚ラジニーシの講話からいくつかをピックアップしました。お役に立てば幸いです。
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●「観照」について (和尚ラジニーシ)
ディヤン・スートラ ~瞑想の道~より(P269~270)
http://www.sakshin.com/
マインドに思考の流れがない状態が無思考の境地だ。マインドは沈黙し、その沈黙から観照する能力が沸き起こる。思考が欠如した状態とは、何をすべきか理解していない状態だ。だから私は、思考の欠如ではなく、無思考の境地に至りなさいと言っている。
思考を欠いた人は理解のない人だ。無思考の境地にある人は理解するだけでなく、観照することもできる人だ。そして観照はあなたを知へ、あなたを内なる魂へと連れ行ってくれる。
呼吸の観照を呼び覚ますために行った実験、すなわち瞑想の実修は「あなた」は存在するが、思考のない瞬間を体験できるようにするためのものに他ならない。あなたはいるが、思考はない・・・・その純粋な瞬間をたとえ一瞬でも体験できたら、生において非常にまれな宝を発見したことになるだろう。
その方向へ向かい、それに到達する努力をしなさい。そして意識は存在するが思考の存在しない瞬間をあなたの最大の渇望としなさい。
意識に思考がまったくないとき、あなたは真理を体験する。意識が思考でいっぱいのときや、意識が抑圧されているときは、真理を体験することはない。ちょうど、空が雲で覆われていると、太陽が見えないと同じように、マインドが思考で覆われているとあなたの王国は見えない。
太陽を見たいなら太陽の光が雲の背後から顔を出せるように、雲を散らし、取り除かなければならない。同じように思考も取り除く必要がある、すると内なる王国が感じられ体験できるだろう。
●「自己想起」と「観照」の違い・・・和尚ラジニーシ講話(和尚タイムス63号P31~32)(Yoga:The Alpha and the Omega,Vol.6#8より)
(質問)
愛する和尚、自己想起と「見ていること」はどう違うのですか?
(和尚)
大変な違いがある。なぜなら自己想起では力点は自己にあるからだ。内省と同じく、その力点は思考、フィーリング、感情、気分、怒り、セクシャリティー、といったものにあり、「自己」は忘れられている。自己想起では、自己が想起されており、全エネルギーは自己に中心を置き、あなたはただ気分を、状況を、フィーリングを見ている。それについて考えてはいない。というのは、思考の中では眼差しが、その眼差しの純粋性が失われるからだ。
「見ていること」は、それからまた一歩先にある。見ていることのなかでは「自己」さえも捨てられる。想起しか残っていない。私が想起する、というのではない。私はもはや見ていることの一部ではない。ただ想起しているだけだ・・・。
想起とは自己を想起することだ。自己想起は始まりだ。見ていることは最後だ。自己想起によって、人は怒りを見守ることを、自分自身を自己に保つことを、自己に結晶することを、マインドのなかの自分の周りに起こるさざ波を見ることをはじめる。だが、あなたがマインドを見守ると、じょじょにマインドは消えていく。マインドが消え、そこに真空があると、そこに新しい一歩を踏み出すことができる。
今度はあなた自身を見守る。いまや怒り、セックス、嫉妬を見守っていたエネルギーそのものが解放される・・・というのも、嫉妬、怒り、セックスが消えてしまったからだ。今やその同じエネルギーが一回転して、自分自身を見守る。
その同じエネルギーが自己を見始めると、その自己もまた消えていく。そのときそこには想起だけがある。その想起が見ていることだ。見ていることのなかには自己はない。あなたは怒りを見守るが、自分自身を見守るとき、あなたはもうあなたではない。ただ広大な、無限の、限りない観照だ。ただの意識・・無限で、広大だが、結晶化してはいない。それが理解されなければならない。
グルジェフが生涯をかけて自己想起の手法に働きかけたのは、西洋に観照を紹介することはほとんど不可能と思われたからだ。というのも、西洋は内省で生きてきたからだ。キリスト教の修道院はすべて、内省を教えてきた。グルジェフは内省を超えたあるものを紹介した。彼はそれを自己想起と呼んだのだ。彼はつねに観照を紹介することを考えていたが、彼にそれができなかったのは、観照は自己想起が定着して初めて紹介できるものだからだ。
それ以前に観照を紹介することはできない。自己想起が成熟する以前にそれについて語っても、どこにも行き着けない。それは無用の業になってしまう。彼は長いこと待ったが、それを紹介することはできなかった。
東洋で私たちは、その両方を使ってきた。実際は、私たちは三つを全部使ってきた。内省は非常にありふれた宗教的人びと、深く進みたくない人たちのためのものだった。深く進みたい人たちのためには、自己想起だ。そして深みのなかで消失するほどに深く進みたい人たちのためには、観照だ。
「見ていること」が最後のものだ。それを超えては、何ひとつ存在しない。目撃者の目撃者になることはできない。なぜならそれもまた見ていることだからだ。だから見ていることを超えて進むことはできない。究極の終わりに到達したのだ。世界の最後は「見ていること」だ。
内省から自己想起に進みなさい。そして自己想起から、いつか見ていることに移ることを望みなさい。ただ自己想起がゴールではないことを心にとめておくといい。それは単なる橋としてはいいものだが、人はそれを渡らなければならない。それを超えて行かなければならないのだ。
●夜眠る前に贈る言葉 (p406-407市民出版社)・・・和尚ラジニーシ講話
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生におけるもっとも稀少な体験は沈黙だ
通常、生はひどく騒々しい
外側には騒音があり、内側にも雑音があり
ひしめき合っている
あなたがたを狂わせるに充分こと足りるものだ
それは全世界を狂気へと追いやってしまった
人は内側の雑音を止めなければならない-
外側の騒音は、私たちの制御範囲を越えているから
放っておきなさい
だが、内側の雑音は止められる
そしてひとたび内側の雑音が止まり、沈黙に包まれたなら
外側の騒音は、もはや何の問題ではなくなる
あなたはそれを楽しむことさえできる
何の支障もなく、その中で暮らすこともできる
そうだ、内なる沈黙の体験はユニークで比類なきものだ
何しろこの体験から、あらゆる体験が芽生えていくからだ
それは宗教の全殿堂の礎となる
沈黙なくしては、どんな真理も自由も神もありえない
沈黙の中で
突然これまでなかったものが存在するようになり
これまで在ったものが消え失せる-
あなたの視点や展望が変わったのだ
沈黙は、あなたが見えざるものを見、
知られざるものを知ることを可能にする
それこそ沈黙のユニークたるゆえんだ
AUM ハイアーセルフ33 (KIN 33) <私たちは神である!>
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みなさん、こんにちは。ハイアーセルフ33です。<私たちは神である!>
アセンションの次元分離などの情報も、今大切と思い投稿してきましたが、やはり内面に向かう知識もしっかり得て、日常に生かしていくことは、より重要に思います。
以下、その方面での信頼の情報源である、和尚ラジニーシの講話からいくつかをピックアップしました。お役に立てば幸いです。
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●「観照」について (和尚ラジニーシ)
ディヤン・スートラ ~瞑想の道~より(P269~270)
http://www.sakshin.com/
マインドに思考の流れがない状態が無思考の境地だ。マインドは沈黙し、その沈黙から観照する能力が沸き起こる。思考が欠如した状態とは、何をすべきか理解していない状態だ。だから私は、思考の欠如ではなく、無思考の境地に至りなさいと言っている。
思考を欠いた人は理解のない人だ。無思考の境地にある人は理解するだけでなく、観照することもできる人だ。そして観照はあなたを知へ、あなたを内なる魂へと連れ行ってくれる。
呼吸の観照を呼び覚ますために行った実験、すなわち瞑想の実修は「あなた」は存在するが、思考のない瞬間を体験できるようにするためのものに他ならない。あなたはいるが、思考はない・・・・その純粋な瞬間をたとえ一瞬でも体験できたら、生において非常にまれな宝を発見したことになるだろう。
その方向へ向かい、それに到達する努力をしなさい。そして意識は存在するが思考の存在しない瞬間をあなたの最大の渇望としなさい。
意識に思考がまったくないとき、あなたは真理を体験する。意識が思考でいっぱいのときや、意識が抑圧されているときは、真理を体験することはない。ちょうど、空が雲で覆われていると、太陽が見えないと同じように、マインドが思考で覆われているとあなたの王国は見えない。
太陽を見たいなら太陽の光が雲の背後から顔を出せるように、雲を散らし、取り除かなければならない。同じように思考も取り除く必要がある、すると内なる王国が感じられ体験できるだろう。
●「自己想起」と「観照」の違い・・・和尚ラジニーシ講話(和尚タイムス63号P31~32)(Yoga:The Alpha and the Omega,Vol.6#8より)
(質問)
愛する和尚、自己想起と「見ていること」はどう違うのですか?
(和尚)
大変な違いがある。なぜなら自己想起では力点は自己にあるからだ。内省と同じく、その力点は思考、フィーリング、感情、気分、怒り、セクシャリティー、といったものにあり、「自己」は忘れられている。自己想起では、自己が想起されており、全エネルギーは自己に中心を置き、あなたはただ気分を、状況を、フィーリングを見ている。それについて考えてはいない。というのは、思考の中では眼差しが、その眼差しの純粋性が失われるからだ。
「見ていること」は、それからまた一歩先にある。見ていることのなかでは「自己」さえも捨てられる。想起しか残っていない。私が想起する、というのではない。私はもはや見ていることの一部ではない。ただ想起しているだけだ・・・。
想起とは自己を想起することだ。自己想起は始まりだ。見ていることは最後だ。自己想起によって、人は怒りを見守ることを、自分自身を自己に保つことを、自己に結晶することを、マインドのなかの自分の周りに起こるさざ波を見ることをはじめる。だが、あなたがマインドを見守ると、じょじょにマインドは消えていく。マインドが消え、そこに真空があると、そこに新しい一歩を踏み出すことができる。
今度はあなた自身を見守る。いまや怒り、セックス、嫉妬を見守っていたエネルギーそのものが解放される・・・というのも、嫉妬、怒り、セックスが消えてしまったからだ。今やその同じエネルギーが一回転して、自分自身を見守る。
その同じエネルギーが自己を見始めると、その自己もまた消えていく。そのときそこには想起だけがある。その想起が見ていることだ。見ていることのなかには自己はない。あなたは怒りを見守るが、自分自身を見守るとき、あなたはもうあなたではない。ただ広大な、無限の、限りない観照だ。ただの意識・・無限で、広大だが、結晶化してはいない。それが理解されなければならない。
グルジェフが生涯をかけて自己想起の手法に働きかけたのは、西洋に観照を紹介することはほとんど不可能と思われたからだ。というのも、西洋は内省で生きてきたからだ。キリスト教の修道院はすべて、内省を教えてきた。グルジェフは内省を超えたあるものを紹介した。彼はそれを自己想起と呼んだのだ。彼はつねに観照を紹介することを考えていたが、彼にそれができなかったのは、観照は自己想起が定着して初めて紹介できるものだからだ。
それ以前に観照を紹介することはできない。自己想起が成熟する以前にそれについて語っても、どこにも行き着けない。それは無用の業になってしまう。彼は長いこと待ったが、それを紹介することはできなかった。
東洋で私たちは、その両方を使ってきた。実際は、私たちは三つを全部使ってきた。内省は非常にありふれた宗教的人びと、深く進みたくない人たちのためのものだった。深く進みたい人たちのためには、自己想起だ。そして深みのなかで消失するほどに深く進みたい人たちのためには、観照だ。
「見ていること」が最後のものだ。それを超えては、何ひとつ存在しない。目撃者の目撃者になることはできない。なぜならそれもまた見ていることだからだ。だから見ていることを超えて進むことはできない。究極の終わりに到達したのだ。世界の最後は「見ていること」だ。
内省から自己想起に進みなさい。そして自己想起から、いつか見ていることに移ることを望みなさい。ただ自己想起がゴールではないことを心にとめておくといい。それは単なる橋としてはいいものだが、人はそれを渡らなければならない。それを超えて行かなければならないのだ。
●夜眠る前に贈る言葉 (p406-407市民出版社)・・・和尚ラジニーシ講話
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生におけるもっとも稀少な体験は沈黙だ
通常、生はひどく騒々しい
外側には騒音があり、内側にも雑音があり
ひしめき合っている
あなたがたを狂わせるに充分こと足りるものだ
それは全世界を狂気へと追いやってしまった
人は内側の雑音を止めなければならない-
外側の騒音は、私たちの制御範囲を越えているから
放っておきなさい
だが、内側の雑音は止められる
そしてひとたび内側の雑音が止まり、沈黙に包まれたなら
外側の騒音は、もはや何の問題ではなくなる
あなたはそれを楽しむことさえできる
何の支障もなく、その中で暮らすこともできる
そうだ、内なる沈黙の体験はユニークで比類なきものだ
何しろこの体験から、あらゆる体験が芽生えていくからだ
それは宗教の全殿堂の礎となる
沈黙なくしては、どんな真理も自由も神もありえない
沈黙の中で
突然これまでなかったものが存在するようになり
これまで在ったものが消え失せる-
あなたの視点や展望が変わったのだ
沈黙は、あなたが見えざるものを見、
知られざるものを知ることを可能にする
それこそ沈黙のユニークたるゆえんだ
AUM ハイアーセルフ33 (KIN 33) <私たちは神である!>