ふるやの森

地球文明の再生に向かう
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サ・ルー・サ5/10:人類史の新しいページを開く時

2010-05-11 15:05:17 | 宇宙からのメッセージ
ご存じのように公式コンタクトは必ず実現するイベントで、公式発表が私たちの訪問を可能にするのを待ってから行うことになります。地球上の事態は崩壊が新しいレベルに達し以前より一層悪化をたどっています。私たちのすみやかな到着と援助を求める皆さんの声は私たちに届いています。私たちはいつでも用意が整っていますが、皆さんには自分たちを脅かす混乱からの解放を願う祈りと思いを発信し続けてほしいと願っています。皆さんが私たちの到着にエネルギーを注ぐほど、行動が現実化する条件を創りだしていきます。それは引き寄せの法則で結びついています。個人として(集団として)フォーカスすることが現実に現われるのです。皆さんは突然に多くのことが一度に起きるのを目にします。そして真実が自分たちの周囲に現われるのを見て、その背後にあるものに気づくことになります。これまで隠されてきた真相が暴露されていきます。そして皆さんは人類の未来の向かう方向に明確なイメージを持つようになります。すべてが完全に変わっていき、皆さんはもはや古いパラダイムに戻ろうとは思わないでしょう。

創造主の布告によって皆さんは現在終末の時代を目撃しつつあり、そのすべてがアセンションのプロセスとして進行しています。皆さんがそのプロセスに自分たちも巻き込まれていることを理解し始めれば、すでに後戻りできない変化のまっただ中にあることがはっきりします。皆さんの古いリアリティーはよく皆さんに奉仕してきたと言えます。完全な光の実現に基づかない創造が何をもたらすかを示すことによって・・何百万年にもわたって皆さんは低いバイブレーションを引き寄せて、地球上にパラダイスを建設する代わりに闇の勢力による支配を許してきました。彼らが皆さんを奴隷化することにどの程度成功しようとも、彼らの計画は成就することはなく、失敗に終わることを運命づけられています。皆さんが今目にしているのは闇の陰謀団のまさに終焉であり、日が経つにつれて彼らは自分たちが創りだした奈落へと崩れ落ちていくのです。

皆さんのすべては地球上で数多くの転生を経てきました。そうすることで皆さんは、そうしなかった場合よりも、はるかにすみやかに進化する機会を得てきたのです。どのソウルのいかなる体験にも教訓が含まれていて、それが皆さんを高次元へと移行させていきます。苦難・苦痛そして悲しみの記憶は薄らいで皆さんの未来にはもう存在しなくなります。そのような体験はもう忘れてください。そしてアセンションに向かって今形作られているすばらしいリアリティーに集中してください。これから移行する高次元では、平和・幸福・静かさが自然な環境となります。皆さんの中には家族や友人の運命を気にしている人もいますが、それを理解しようとして時間をあまり費やさないでください。彼らは自分たちのライフプランですでに未来を決めていて、もし皆さんが一緒にいたいと望むならそれも可能なのです。それぞれのソウルが自分の未来を選ぶ自由意志を認めてください。そして愛する人々とのコンタクトに感謝してください。それは壊れることのない絆であり、あなた方の関係は常に続けることができるのです。

このサイクルの終わりを前にして、アセンションが提供する機会が誰にも明確になります。まだ準備ができていないと決めたソウルは地球を離れて別の場所で体験を続けることになります。自由意志はすばらしいツールで自分の進歩の進むペースを決めて同じレッスンをくり返すことができるのです。ですから、親愛なる皆さん。他のソウルが自分の道を進むことに干渉しないでください。どの道を選んでも同じゴールに着くことになるのです。そして時間は結果に影響しません。皆さんがアセンドすれば、時間の無い次元に移行して過去・現在・未来が1つになるのです。アセンションの準備を進めていけば、皆さんはこれまでに受け入れられてきた時間の観念に頼らなくなるのに気づくでしょう。それは皆さんにとって重要ではなくなるのです。そのようにして変化が進んで、皆さんはますます「今に生きる」ようになっていくことに気づくでしょう。

皆さんが流れに乗って進んでいけば、変化に適合するのはますます容易になります。変化に心を開いてください。何が起きようとしているかを理解して、すべての人々のためになる良い結果に意識をフォーカスしてください。いったん、変化が起きれば大きな騒ぎにはなりますが、それはよく計画されていることに気づくはずです。皆さんが不便さを最小限に留めながら、すみやかに変化が起きることを求めているのは明らかです。新しいパラダイムを確立するために求められる措置を導入する上で銀河連邦が主導権を持っていることを確信してください。私たちのテクノロジーを超える問題はないのです。もう、まもなく皆さんはその事実を自分の目で確かめることになります。私たちの活動はこれまで見たこともない目覚ましい成果を生みだして人類に喜び・豊かさと健康をもたらしていきます。皆さんの生活の質を回復することはこれまでイルミナティーによって妨げられてきた課題だったのです。最も重要なことは皆さんが尊厳を取り戻すことで、それが私たちのリストの優先事項なのです。

私たちにとって皆さんは自分たちの子どものようで、サイクルの残りの期間のガイダンスを必要としています。皆さんはこれまで危ない遊びをすることがよくあり、私たちは両親のように注意深く見守ってきました。もし手を火傷しそうになるたびに私たちが介入していれば、皆さんは教訓を学ぶことができなかったでしょう。それが、私たちが皆さんの自由意志を完全に認めて望む体験をさせてきた理由なのです。しかし、私たちは皆さんの後を注意深く追いかけて、することを見守りながら一定のレベルの保護をすることが許されていました。そして世界全体に脅威が及ぶ場合には全面的な保護を行ってきたのです。その例として前世期には一度ならず世界は破滅の危機に陥り、そのたびに私たちは介入してそれを防いできたのです。現在人類のスペーステクノロジーを手にして、宇宙戦略テクノロジーが地球を超えて宇宙文明に影響を及ぼすようになりました。したがって、ご理解いだだけると思いますが、どのような深刻な事態になろうとも私たちは監視を続けて人類を保護していかなければならないのです。

私はシリウスのサ・ルー・サ、銀河連邦を代表して私たちの再会を楽しみしていることをお伝えします。それは人類の歴史の新しいページの始まりになります。その時に二元性を離れることが明確になり、すでに多くの皆さんが準備を終えて新しいレベルの意識に向かっているでしょう。皆さんはこれまでに二元性から抜け出す導きに従う道を自覚的に進んできたのです。これから数多くの崩壊が目に入りますから、意識を完全にアセンションに集中し続ける必要があります。創造主の計画した皆さんの未来を信頼していてください。まもなく皆さんは今ひん死の状態にある闇の勢力から解放されます。愛と光は皆さんの自由のパスポートです。私たちは皆さんの上昇のためにできる援助をすべてしていきます。光線のマスターが光を皆さんに注ぎ、皆さんの進歩を加速してチャクラを全開しつつあります。
ありがとう、サ・ルー・サ(マイク・クエンシー)
SaLuSa 10-May-2010
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【投稿記事】和尚 「覚醒と観照の違い」について 

2010-05-11 08:41:13 | アセンション
(ハイアーセルフ33さんからの投稿)
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みなさん、こんにちは。ハイアーセルフ33です。<私たちは神である!>

前回投稿した和尚の講話では、内省、自己想起、観照の違いについて語られてい
ました。http://blog.goo.ne.jp/flatheat/d/20100507

今回は「覚醒と観照の違い」についてです。お役に立てば幸いです。

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瞑想・・祝祭の芸術(絶版)  *和尚ラジニーシ(めるくまーる刊)

(質問)覚醒awarenessと観照witnessingの違いは一体どこにあるのでしょうか?

(和尚)
覚醒と観照の違いは大きい。観照と言うのは依然として行為(アクト)だ。あなたが観照している。そこには自我がある。だから、観照という現象は主体と客体に分裂している。観照は主体と客体のあいだの関係だ。覚醒にはいかなる主体性も客体性もない。覚醒においては、観照している人は誰ひとりいないし、観照されている人も誰ひとりいない。覚醒とは全体的な行為だ。統合されている。そこでは、主体と客体が関係づけられずに溶け去っている。

だから、覚醒とは誰かが醒めているということではない。また、注意を払われている何かがある、ということでもない。覚醒は全体的だ・・・単一現象としての全体的な主体性と全体的な客体性だ。一方、観照にあっては主体と客体のあいだに二元性が存在する。

覚醒は無為だ。観照には行為者が含まれる。だが観照を通して覚醒が可能になる。なぜなら、観照とは意識的な行動のことだからだ。それは行動だが意識的なものだ。あなたは無意識でいながら何かをやるということはできる。・・・通常の私たちの活動は無意識的なものだ。・・・だが、そのなかであなたが意識的になれば、それは観照になる。だから、通常の無意識的な活動から覚醒に至るあいだには、「観照すること」によって埋められうる隙間がある。

観照とは覚醒に向かうひとつの技法、ひとつの方法だ。観照は覚醒ではない。だが、通常の活動、無意識的活動に比べればより高い段階だ。すでに何かが変わっている。活動が意識的になり、無意識が意識に取って代わられてきている。が、さらにまだ何かが変えられなければならない。つまり活動が無活動に取って代わらなければならない。それが第二段階になる。
 
通常の無意識的な行動から覚醒へと飛躍するのはむつかしい。それは可能だが非常に骨が折れる。だから、そのあいだの段階が役に立つ。意識的な活動を観照することから始めるなら、そのときには、どんな意識対象もなく、どんな意識主体もなく、まったくどんな意識的活動もない覚醒への飛躍が容易になる。このことは覚醒が意識ではない、という意味ではない。覚醒は純粋な意識だ。だが、それを「意識している者」はいない。

意識と覚醒のあいだには、まだ違いがある。意識は心(マインド)のひとつの質ではあるが全体ではない。心は意識的と無意識的、その両方でありうる。が、あなたが心を超越すると、どんな無意識もそれに対応する意識もなくなる。そこには覚醒がある。覚醒とは心全体が目覚めたということだ。いまやそこに古い心はない。だが、「意識している」という質がある。覚醒は全体的なものとなった。いまや心それ自体が覚醒の一部となったのだ。

「心が醒めている」という言い方はできない。ただ意味深長に、「心が意識している」とは言える。覚醒とは心を超越するという意味だ。だから、醒めている当のものは心ではない。心を超越し、心の彼方へ出てはじめて、覚醒が可能になる。意識(自覚)は心のひとつの質だが覚醒は超越だ。心の彼方へ越えてゆくことなのだ。

心はそれだけでは二元性をもたらす媒体だ。だから、意識はけっして二元性を超えられない。それは必ず「何かについて」の意識であり、また常に意識する誰かがいる。だから、意識は心の一部であり、一区分なのだ。そして心は、そのままでは一切の二元性、一切の分裂・・・それが主体と客体のものであろうと、活動と無活動の間のものであろうと、意識と無意識の間のものであろうと、一切の二元牲、一切の分裂の根源なのだ。二元性はどんなタイプのものでもすべて心的(メンタル)だ。覚醒は不二だ。だから覚醒とは無心の状態のことだ。

では、意識と観照の関係はどうなっているのだろうか? 観照とはひとつの状態であり、意識することは観照に至る手段だ。意識的になりはじめれば、あなたは観照を達成する。自分の行動を意識し、日々起こることを意識し、自分を取り巻くすべてのことを意識し始めれば、あなたは観照しはじめる。 

観照は意識の結果としてやってくる。観照を訓練することはできない。訓練できるのは意識だけだ。観照は結果として、影として、成果として、副産物としてやってくる。意識すればするほど、ますます観照に入ってゆき、ますます観照者であるようになる。だから意識(すること)は観照を達成する方法なのだ。

それから第二段階では、今度は観照が覚醒を達成する方法になる。だから段階は三つある。意識、観照、覚醒だ。が、私たちがいるところは最下位の地点だ。つまり無意識的な活動の中にいる。無意識的な活動が私たちの心の状態なのだ。

意識(すること)を通して観照が達成できる。その観照を通して覚醒が達成できる。そして、覚醒を通して<無達成なるもの>を達成できるのだ。覚醒のあとは何もない。覚醒こそ最後のものだ。覚醒は霊的進化の終わりであり、無覚醒はその始まりだ。無覚醒とは、物質として存在している状態のことだ。だから無覚醒と無意識とは同じものではない。無覚醒とは物質のこと。物質は無意識ではなく無覚醒なのだ。
 
動物としての存在は無意識的な存在だ。人間としての存在は、精神的(マインド)現象・・・99%の無意識と1%の意識という存在だ。この1%の意識というのは、あなたは1%が99%の無意識を意識しているということだ。だが、もし自分自身の意識を意識するようになったとき、その1%の意識は増大しつづけ、99%の無意識は減少してゆく。
 
もし100%意識的になったら、あなたは観照者(sakshin)になる。観照者になったら、あなたはそこから覚醒へと飛躍できる跳躍点に達したのだ。覚醒にあっては、観照者は消え、ただ「観照」だけが残る。あなたは行為者を失い、主体を失い、自我中心的(エゴセントリック)な意識を失う。そうしたとき、自我(エゴ)なくして意識だけが残る。円周が中心なくして残る。この中心のない円周こそ覚醒だ。いかなる中心もなく、いかなる根源もなく、いかなる動機づけもなく、それがよって来たいかなる源泉もない意識・・・源泉なき意識・・・それが<覚醒>だ。

だから、あなたは物質という無覚醒の存在から覚醒へと進む。それを神性と呼ぼうと、神的と呼ぼうと何んとでも好きなように呼ぶがいい。物質と神とのあいだ、その間の違いは常に「意識」の違いなのだ。