<実相院の天井画>
奥州街道(白河の道);第3回;2日目(1);雨の佐久山宿
(クラブツーリズム)
2017年5月17日(水)~18日(木)
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/940f01a05868a4e746a300b8c1b1ea45
2日目;2017年5月18日(木)
<ルート地図>
■2日目全体図
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■滝澤・親園
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■佐久山宿詳細図
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<ルートイン西那須野から出発点へ>
■朝風呂を楽しむ
昨夜は寝付きは良かったものの,夜中の1時頃,目が覚めてしまう.その後,30分ぐらいは目が覚めたままで,どうにも眠れない.いくら寝心地の良いベッドでも,床が変わると良く眠れないなとイライラし始める.
でも,そこは良くしたもので,イライラしながらも何時の間にかまたグッスリと眠りこけてしまう.
今度は5時頃目が覚める.
眠っている間にずいぶんといろいろな夢を見ていたが,目が覚めるみると,どんな夢を見ていたのか全く思い出せない.
”ム,ム,ム,…起き出すには,まだ,ちょっと早いな…”
でも,私には困った性分があって,目が覚めるとベッドにジッとしているが辛い.
”ああ,そうだ! ルートインには大浴場があったな”
私は,思いつくとすぐに実行.1階にある大浴場に向かう.そしてフロントにルームキーを預けてから大浴場へ.
先客は誰も居ない.
たった1人で,大浴場を占有する.良い気分である.
処が困ったことに私は長風呂がダメ.折角の大浴場だが,楽しむのはせいぜい長くても10分.すぐに風呂から上がってしまう.
■1階のPC
まだ時間がタップリある.
”ちょっと,PCでも弄ってみるか…”
ということで,フロントにあるPCを動かしてみる.
遅い! とにかく,やたらに遅くて,イラ,イラ,イラ,…である.とてもじゃないけど心臓に悪いので,すぐにPCは止める.
5時45分,今朝の新聞を貰って,自室に戻る.
■朝食はバイキング
朝食は6時30分からである.
少し早めの6時20分頃,1階の食堂へ向かう.数名の仲間が列を作っている.6時25分,食堂がオープン,入口で,係員が,
「おはようございます…」
と宿泊客一人ひとりに挨拶をする.
朝食はバイキング方式である.私の朝食は,下の写真の通りである.
”ちょっと,量が多すぎるかな”
と心配になる.
お盆に載せた朝食の写真を撮る…が,ご飯,味噌汁,お箸の位置,置き方が変なので,ブログに掲載するのが憚られる.まあ,いいか!
<私の朝食>
■テレビを見る
7時45分,自室へ戻る.
出発の時間まで,テレビを見ながら過ごす.秋篠宮眞子さまの婚約のことや,アメリカトランプ大統領にかかわるロシアゲートが話題になっている.
さて,問題は今日の天気である.
天気予報では,私たちが今日歩く場所がアウト.強い雨が降る予想になっている.
”神様,仏様…どうぞ天気予報が当たりませんように…”
でも,天気予報が当たらないように願うのは無理のようである.今日一日は雨中行進を覚悟しなければダメのようである.
<天気予報>
■出発点へ移動
定刻15分前にロビーへ降りる.
すでに専用バスが玄関前に到着している.すぐにバスに乗り込む.
全員が揃ったので,7時55分,定刻5分前に専用バスはルートイン西那須野から発車する.
今日は専用バスの座席が変わって,私は昨日の一番後ろの席から,前から2番目の石に変わっている.
昨夜から降り続いている雨は,小雨になったもののまだ降り続いている.
<専用バスでルートイン西那須野を出発>
<雨の佐久山宿>
■コミュニティ消防センター
8時20分,昨日の終点近くのコミュニティ消防センター(大田原市消防団第五分団)の前で専用バスから下車する.
隣の空き地で,講師の音頭により軽くストレッチを行ってから,8時30分,歩き出す.小降りながら相変わらずの雨である.
<コミュニティ消防センター>
■佐久山郵便局(井上本陣跡)
歩き出してすぐに佐久山郵便局に到着する.赤い屋根の洒落た建物である.郵便局の脇に大きな石塔が立っている.私たちが歩いている道路の反対側にあるので,石塔
に何が書いてあるか分からないが,講師の説明によると,この辺りが井上本陣跡とのことである.
<佐久山郵便局>
<実相院>
■石瓦の山門
佐久山郵便局のすぐ先で左折する.
8時37分,実相寺に到着する.なかなかの名刹のようである.曹洞宗の寺である.
両側に石柱が立っている.向かって右側の石柱には「月江山」,左側には「実相寺」と刻字されている.石柱の間にある石段を数十段上ったところに朱色の立派な山門が建っている.和唐折衷の四つ脚門で,屋根は石瓦葺きである.
門の入口近くに説明文が掲示されている(下の写真).ここにこの門の由来についての詳しい説明が掲載されている.
<実相寺山門>
■壮大な本堂
山門をくぐると山に囲まれた境内が広がっている.その先に,大きな本堂が建っている.品格を感じる雰囲気がある.
講師から頂戴した説明文には,
「福原氏12代・資衛の娘が尼となり実相院という尼寺を創建,永正13年(1515年)に中叟守和和尚により,新たに実相院として開山された.福原氏の菩提寺でもあり,福原氏28代の墓が並んでいる.いずれの墓碑も重厚な造りで,当時の領主層の様式を示している.
また赤尾浪士のひとり,太高源吾本家の地で源吾の位牌や両親一族の墓がある…」
と書かれてる.
<実相院本堂>
■本堂内部を拝観
本堂の内部を特別に拝観する.
本堂の奥には福原氏縁の墓碑がビッシリと立ち並んでいる.墓碑の前には夥しい数の花が供えられている.赤,黄,ピンクなどさまざまな花である.花のお陰で室内が実に華やかに感じる.
”これだけ大切に祀られているとは…故人もさぞかし冥福のことだろうな”
と,ちょっと羨ましい気分になる.
一番奥に一段と丁重に飾られている墓石が数基ならんでいる.一番後ろで拝観している私には前に立つ人の頭しか見えないので写真を撮るのを諦める.
<実相院本堂内部の墓石>
■福原氏墓所
本堂を出てから,裏山にある福原氏墓所を詣でる.
十数段の石段を登ると,立派な墓石が立ち並んでいる.
資料1には,福原氏は「下野の戦国大名那須氏の一族で、源平合戦に活躍した那須与一宗隆(資隆)の兄福原四郎久隆に始まる。久隆以降、本家の那須家から養子を迎えるなどして、那須宗家とは深い関わりを持ち続けた。
この福原家を含め、那須一族の芦野家・千本家・伊王野家、丹党で重臣の大関家・大田原家、それに本家那須家を加えて「那須七騎」と称された。 」という説明がある.
なお,資料2に,墓石の詳しい位置などの記述がある.
<福原氏墓所>
<旧造酒屋と正浄寺>
■上町公民館
実相院の参拝見学を終えて,8時58分,実相院を出発する.相変わらず小雨が降っている.
9時01分,上町公民館の前を通過する.小さな仕舞た屋風の建物である.「民」の字に「点」が付いているのが面白くて,思わず写真を撮る.
<上町公民館>
■昔の造酒屋
緩やかな登り坂が続く.途中で狭い道幅の道路を分岐して大きなカーブを描きながら,箒川方面に向かう.
分岐した狭い道に面して昔の造酒屋だった大きな建物が見えている.格子戸と軒に掲げた大きな看板に,昔の面影が残っている.大きな看板に一体何が書いてあるんだろう.残念ながら遠すぎて全く見えない.
取りあえずは写真だけでも撮っておくことにする.
<昔の造酒屋>
■正浄寺
9時05分,正浄寺の前を通過する.境内の奥に立派な本堂が建っている.浄土宗本覚寺の寺である.
資料3によると,この寺の檀家が一子相伝で伝承している雅楽が有名なようである.親鸞聖人の報恩祭,彼岸の念仏日,葬祭,婚礼のときに雅楽を演奏するとのこと.
<正浄寺>
<親園・八木沢地区の社寺・遺構>
■箒川を渡る
9時08分,箒川に架かる岩井橋を渡る.
旧奥州街道は,橋を渡ってから真っ直ぐ北へ向かっていたが,今の道はその痕跡はない.橋を渡ってすぐに右に曲がった後,すぐに左に曲がって北へ続いている.
相変わらず小雨が降り続いている.
講師の話によると,この辺りに一里塚があったらしいが,今は痕跡すら残っていない.
<箒川を渡る>
■馬頭観音群
9時14分,石塔群の脇を通過する.大きな石塔が馬頭観音だろうか.左側にも小さな馬頭観音が4基並んでいる.
<石塔群>
■養福寺
9時22分,養福寺に到着する.
養福寺の由来などは今のところ調べた付いていないので不明.本堂前に弘法大師像が祀られている.
境内を散策しながら一休みする.
<養福寺山門>
■長屋門
養福寺での休憩を終えて,9時27分,養福寺から歩き出す.
9時31分,立派な長屋門の前に到着する.長屋門の白壁が印象的である.
<長屋門>
■セブンイレブンで休憩
9時35分,深川に架かる深川橋を渡る.
深川橋のすぐ先にセブンイレブンがある.私たちは吸い込まれるようにセブンイレブンに向かう.
ここで,ひとまずトイレ休憩である.
<セブンイレブン>
■薬王寺
9時45分.休憩を終えてセブンイレブンから歩き出す.
9時57分,陣屋橋を渡る.小さな橋である.
10時01分,視園小学校前を通過する.
10時02分,薬王寺に到着する.山門を潜って境内に入る.ここも大きな寺である.山号は瑠璃光山である.この寺の由来などは,今のところ,分からない.
<薬王寺本堂>
■蒲盧碑
10時12分,蒲盧碑(ほろのひ)に到着する.
碑を囲むように四方格子戸のお堂が建っている.
資料4には,「文化9年(1812)10月、那須野に一隊の兵士が刀をかつぎ槍をうち立て行進する蜃気楼(しんきろう)が現れました。たまたまここを通った甲州の高津義克という行脚(あんぎゃ)僧が目撃し、その光景を書き残して去りました。それが蒲盧碑原文で、のちに石に刻んで建立したのがこの碑です。
土地の者は蜃気楼のことを「ほろ」と呼んでいました。当時親園(ちかその)地区は天領で八木沢(やぎさわ)村と呼ばれ、代官山口鉄五郎の支配下にあり、代官の出張陣屋が設けられていました。山口鉄五郎は水路を開削し新田を開発するなど、農村の振興に努め領民から深く親しまれていました。
人見伝蔵(でんぞう)は著書「那須野蜃気楼 蒲盧碑考」の中で、中国の書「中庸」の中に「政治は蒲や盧のようなもの」という一文があり、碑文はこの山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲盧に結び付けたものとしています。
碑文の裏面には代官手代(てだい)飯岡直蔵(重武)の詠んだ「はてしなく浮世の人にみするかな 那須の野面のほろのいしぶみ」が刻まれています。」(以上コピペ)という説明がある.
<蒲盧碑>
■町初碑
蒲盧碑と道を挟んでほぼ反対側に町初碑がある.
火を囲むように小さなお堂が建っている.傍らに立っている説明文によると,八木沢が開かれたことを記念して作られたもののようである.
[参考資料]
資料1:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sim_huku.html
資料2;http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082777768/
資料3;http://www.ohtawara.info/spot_detail.html?id=14
資料4;http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082765918/
(つつき)
つづき記事
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/88a0ca2e21a21b5054acf4a45193b329
「奥州街道」の目次
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「奥州街道」の索引
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