中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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鎌倉山崎地区社寺史跡巡り

2008年03月24日 15時50分24秒 | 鎌倉あれこれ
                  <大船フラワーセンターの散策路>

           鎌倉山崎地区社寺史跡巡り
              (単独散策)
           2008年3月22日(土)

 暑さ寒さも彼岸までというが,朝から雲一つない素晴らしい行楽日和である。こうなると,いくら後期高齢者とはいえ,とても,とても,家の中でジッとしていられない。
 私は雑務を適当にサッサカこなして,デジカメ片手に,早々に家を飛びだす。とはいえ,沢山の行楽客がひしめく鎌倉旧市内の方へ出掛ける気分にはなれない。そこで,久々に主として山崎地区に点在する社寺や史跡を一回りすることにした。その途中で,時間があったら,大船フラワーセンターに立ち寄って,芝生で昼寝をしよう・・・そんな乱暴な計画を立てて,始点の大船中央公園から,終点の大船駅を目指して,ブラブラ歩きを開始した。

          <鎌倉中央公園のイベント広場:家族連れの姿がチラホラ>

[散策地図]


■鎌倉中央公園
 何時も人気が疎らな鎌倉中央公園も,お天気の良い今日は沢山の家族連れで賑わっている。公園の広場で,春の日を浴びながら,のびのびと遊んでいる子どもの姿を見ていると,なんとなく自分の心が和んでくる。
 公園の池の水も温かくなっているのだろうか,池の真ん中辺りで,アヒルが羽根をバタバタさせながら,はしゃぎ廻っている。
 公園の山崎口の近くにある獅子岩を訪れる。暖かい日差しに誘われて,近所の子ども達が沢山遊びに来ている。獅子岩の裏手にある湿地帯には,もうセリが沢山生え始めている。
 
 <薬師堂跡:無惨にもゴミ置き場になっている>           <もろん台の畠>

■薬師堂跡
 公園の山崎口から外に出る。そのまま狭い道路を北上する。数分で三叉路に出る。この三叉路を右折して,ほんの数10メートル進むと,道路の反対側に小さな空き地がある。ここが,薬師堂跡である。
 参考資料(小林,1994,p.146)によれば,「ここは高野山慈眼院の末寺だったらしい。かつては鎌倉十体の一つとされた薬師像と運慶作といわれる像高30センチの十二神将が安置」されていたという。その後,鎌倉の台にある「東渓院にすべての仏像が移され,さらに東渓院が廃されたために,台の光照寺に移された」と言われる。なお,江戸時代,ここに高札場もあったといわれる。
 今訪れると,小さな空き地だけになっている。つい先日までは,この空き地に宝篋印塔か五輪の塔の数個の欠片が置かれていたが,今はその欠片もなく,ゴミ置き場になっている。
 序でながら,この薬師堂跡から山崎小学校に向かう道路の左側に,立派な庚申塔があったが,マンション建設とともに,この庚申塔も失われてしまった。

■十王堂跡・もろん台
 薬師堂跡から,細い道路を西へ向かう。やがて,道路の南側に深い立木に囲まれた山崎集会場が見えてくる。ここが十王堂跡だとのことである。江戸時代,ここには,現在,昌清院に安置されている十王像が置かれていたという(鎌倉市教育研究所,2000,pp.161-162)。
 道路の南側に丘陵が連なっている。集会場の近くを注意深く見ていると,その丘陵に登る石段があることに気が付く。もろん台は,「室の台」あるいは「物見の台」が鈍ったものだという(鎌倉市教育研究所,2000,p.162)。
 高台に登る。階段の途中で,上から降りてくる年輩の男性とすれ違う。男性は,私の顔を見て,怪訝そうな顔をする。私は黙って会釈をして,高台の上に立つ。素晴らしい見晴らしである。丘の上には畠と墓地が広がる。墓地の奥には数軒の民家が並んでいる。ここが「もろん台」である。
 北西には一団と大きな山が見えている。天神山である。この天神山の山頂には北野神社の社殿がある。
 もろん台と天神山の谷間を,湘南モノレールが,轟々と甲高い音を立てながら走っていく。


             <もろん台の梅:谷間をモノレールが走る>

■山崎山昌清院
 山崎集会場前の三叉路を左に曲がって,谷戸に入る。両側に住宅が並ぶ静かな登り坂を進む。やがて,山崎山昌清院の前に出る。ここは,私のような一般の観光客は入れないところである。
 不作法にも,山門の前にある柵から身を乗り出して,お寺の中を覗き込む。そして,静かな境内をデジカメに収める。その後,お寺の垣根に沿ってウロウロと歩き回る。お寺の脇の門から,白いエプロンを付けた小太りの中年女性が,竹箒を持って,外に出てくる。私は注意されるのが怖くて,ソソクサとその場を立ち去る。
 この寺は1597年(慶長2年)に亡くなった以足徳満という僧が,円覚寺如意庵の隠居寺として建てたものだという(鎌倉市教育研究所,2000,pp.159-160)。

              <昌清院本堂:一般観光客は参観できない>

■お塔さま
 昌清院から,先ほどの道を少し戻って,左折する。周囲にコンクリートばかり目立つ急な坂道を,ほんの少し登ると,目の前に階段が見えてくる。この階段を数段登ると,小さな祠がある。ここが「おとうさま」である。祠の中には五輪塔が1基祀られている。
 ここは江戸時代初期の領主であった奥平氏の娘,崇徳院の墓と言われているそうである。
 墓前の周囲は自然な山地になっている。山地の中で立ち休憩を取る。すぐ眼の下には,石垣とコンクリートで固められた無機質な道路が続いている。直ぐ上から私が覗き込んでいるのも知らずに,何人かの通行人が,足早に歩き去っていく。

           <お塔さま:草むした丘にひっそりと安置されている>

■江ノ島道標
 「おとうさま」から歩き出す。ここから裏山の方へ廻れば,山崎の横穴墓群跡があったが,この辺りの宅地造成によって,ほとんど失われてしまった。そんなところは,今更,訪れても面白くないので,割愛。
 階段を降りる。バス停山崎の方に歩くと「従是江のし満道」と書いた江ノ島道標が立っている。ここから,ほんの少しだが,昔の江ノ島道が残っている。今は,この石柱の近くがゴミ置き場になっているのが残念である。
 
          <お塔さまの内部>                            <江ノ島道標>

■北野神社
 この江ノ島道標から西へ向かう。バス停山崎付近で自動車道を越える。モノレール道の裏側の道を少しばかり北上して,天神山に登る。200段余りの長い石段を登り詰めると,北野神社本殿前に出る。
 本殿前の広場には誰も居ない。広場から北側を見下ろすと木立の間から大船駅方面が見えている。西北には大船観音が見える。足元を東海道本線の電車がカタカタと車輪の音をまき散らしながら,藤沢方面に走っていく。
 この神社の起こりは室町時代の14世紀まで遡るという。夢想国師が,京都の北野天満宮を迎えたものとのことである(鎌倉市教育研究所,2000,p.152)。
 広場の片隅に古い宝篋印塔が立っている。鉄の柵の中にあるので,あまる上手く写真が撮れないのが残念である。もともと,この宝篋印塔は「もろん台」にあったという。
 
      <北野神社の参道>                 <北野神社本殿>

■庚申の塔と宝珠山妙法寺
 北野神社から,北側の小径を下って,4基の宝篋印塔の近くに降りる。ここから,西へ少し進むと宝珠山妙法寺がある。お寺の境内に入ろうかと思ったが,本堂前の庭先で,お寺の関係者と思われる方々が,庭の手入れをしている。
 人見知りの傾向がある私は,何となく怖じけ付いてしまい,境内には入らず,そのままここを通過する。
 「前にも,何回も参拝しているから,今回は参観しなくてもいいか・・・」
とブツブツ言いながら自分で納得する。
 実は,境内の片隅,本堂から見て右手に,七面天女が祀られたお堂がある。また,東側には沢山の石地蔵が安置されている。この地蔵は「子育て地蔵」と呼ばれている。今回は,まあ,これらの旧蹟は割愛して,先へ進むことにする。
 
    <北野神社の宝篋印塔>                  <庚申塔>

■大船フラワーセンター
 最近閉鎖されたJRの大船工場への引込線跡を越える。踏切の線路は撤去されているので,自動車も一時停止しなくて済むようになった。踏切以外の引込線は,まだそのまま残っている。金網越しに,残された線路を見ていると,数年前に訪れたアウシュビッツやビルゲナウを連想してしまう。
 
       <妙法寺:外からチラリ覗く>              <金網の先に廃線>

 この踏切から南に少し下ると,源頼朝のかくし湯があるそうである。第二次世界大戦前まで「山崎園」という温泉旅館があったらしいが,未だに私には正確な位置が分からないままになっている。だから,今回も,ここを訪れるのを割愛した。
 鎌倉武道館前の山崎跨線橋を渡る。
 この辺りまで来ると,かなり沢山の人達とすれ違う。どうやら県立フラワーセンター大船植物園(略称:大船フラワーセンター)を訪れた人達のようである。私も跨線橋を渡って,成り行きで,大船フラワーセンターを訪れる。幸いなことに,私のような高齢者は入場料が無料で中に入ることができる。
 園内は沢山の来訪者で賑わっている。私は柔らかな日差しを浴びながら,芝生に寝ころんで,30分ほど昼寝を楽しむ。

                    <大船フラワーセンター>

■玉縄首塚
 フラワーセンター前の跨線橋を渡る。これから龍宝寺,玉泉寺などを廻ろうかとも思ったが,きりがないので大船駅へ向かうことにする。駅への近道をブラブラと歩く。これからフラワーセンターを訪れる観光客と次々にすれ違う。
 やがて,柏尾川に突き当たる。すぐ道沿いにある玉縄首塚を訪れる。榎の木の下に6体の地蔵が祀られている。玉縄城主北条氏時と里見氏の合戦で戦死した氏時側35人を葬った所だといわれる。

                      <玉縄首塚>

■塩竃神社と丑堰
 小袋谷に出る橋で柏尾川を渡る。そして川沿いの道を川下に少し下る。すると,塩竃神社の前に出る。余り人目を引かない所にあるが,立派な神社である。祭神は塩土老翁神ほか。勧請年月は未詳だが,宮城県の塩竃神社から例を受けて祀ったといわれる(鎌倉市史編纂委員会,1979,p.142-143)。
 神社から柏尾川を見下ろす。一昔前に比較すると,川の水は格段と綺麗になっている。目の前には大船観音が,とても大きく見えている。
 川沿いに,大船駅へ向けてブラブラ歩きを続ける。
 背後から,リュックを背負った1人の男性に勢い良く追い越される。追い越しざまに,私を見下すような視線を送ってくる。眼と肩で,
 「何をブラブラと頼りなげに歩いているんだ・・・俺のようにサッサと歩け・・」
と私に威張っているように見える。
 私は内心で「ムラ~ッ」と来るが見過ごす。彼は,川沿いにある小さなビルの1階に消える。そこには「○○ウオーキング」と書いた扉がある。
 直ぐに大船駅西口駅前に出る。序でに,柏尾川に架かる橋を半分ほど渡って,丑堰跡の写真を撮る。
 丑堰の由来は2説あるようである。1説は,岡本耕地に柏尾川から水を引く堰が完成したのが1625年,丑年だったから丑堰。もう1説は,堰の完成を急いで牛を使い,酷使して死んだ牛を堰の守り神にしたためという説である(小林,1994,p.122)。

                       <塩竃神社>

 
      <大船観音>             <丑堰跡:柏尾川の右手から下水が流れ込む所>

■春を満喫
 大船駅で,今回の散策は終点。
 この後,そのまま家に帰っても,まだ日が高いので,ブラブラと山崎から鎌倉中央公園を抜けて,ノンビリと帰宅した。
 さて,明日は山旅スクール第10期の北高尾山稜ハイキングに参加する予定である。
 そろそろ,プロフィールマップを作らなければと気を引き締める。
                              (おわり)

参考資料

鎌倉市教育研究所(編),2000,『かまくらこども風土記(中)』,鎌倉市教育委員会
鎌倉市史編纂委員会(編),1979,『鎌倉市史(社寺編)』鎌倉市
小林伸男(編),1994,『神奈川ぶらりいウオーキング鎌倉・江ノ島・藤沢編』,神奈川図書


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