<長閑な田園地帯を歩く;大田原郊外>
奥州街道(白河の道);第4回;1日目(2);蛇尾川と小滝のコウヤマキ
(クラブツーリズム)
2017年5月17日(水)~18日(木)
前の記事
↓
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/84a812bde34cb987caaed1d575843704
<ルート地図>
↑ (上に続く)
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<蛇尾川を渡る>
■蛇尾川の由来
龍城公園駐車場で下車した私たちは,講師の温度で軽くストレッチをした後,10時52分,駐車場から歩き出す.
歩き出してすぐに,蛇尾川(さびがわ)に架かる蛇尾橋を渡る.
蛇尾橋を渡ったすぐの所に,蛇尾川の由来を説明した看板が立っている.この看板の記事によると蛇尾川は洪水と伏流水で有名な川のようである.
資料1によると,「「栃木県那須塩原市の大佐飛山地に源を発する支流、大蛇尾川と小蛇尾川が山地を抜けた地点で合流して蛇尾川となり、那須塩原市を南東に流れ、扇状地で龍川を合わせる。大田原市片府田で白倉川を水源とし那須塩原市塩原温泉郷より流れてくる箒川に合流する。
大蛇尾川と小蛇尾川の合流地点より下流側の中流域は、扇状地那須野が原中央を伏流水として流れる水無川となっている。川岸には土手が築かれ一面の河原が広がり、橋もかかっているものの、その川底には水が流れていない、もしくは水量の少ない流れがまばらに出現するような枯れ川の光景が十数キロに渡って連続する。一方で大雨の際にはこの河原に大量の水が流れ、過去には洪水による被害を幾度も起こしたという河川が出現する。
一説によれば、「さび」という川の名はアイヌ語の「サッ・ピ・ナイ」(渇いた小石河原の川)に由来するという。この流域は川沿いでありながら水利の便が悪く、かつては不毛の荒野であった時期が長く続いた。伏流した流れは扇状地の扇端にあたる大田原市市郊外で再び地表に流れ出る。
扇端の湧水地帯には、天然記念物のニヤコタナゴやイトヨが生息する。」(以上コピペ).
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■東山道の碑
11時08分,富士電機機器制御株式会社の前を通過する.綺麗な工場である.工場敷地の入口右手に何本かの赤い鳥居が並んで立っているのが見える.鳥居の奥に神社の建物が見える.近代的な工場の中に神社があるのが何ともユニークだなと思いながら通過する.
11時15分,東山道(旧奥州街道)碑の前に到着する.
この石碑が何時作られたものかは調べなかったが,石碑の様子から最近建てられたもののようである.「東山道」の刻字の下に東山道の説明文が彫られているが,立ち止まって全部読む時間がないので,とりあえずは写真に撮っておく.冒頭に源義家のことも書かれているので,鎌倉に住んでいる私は,何となく親近感が湧く.
そういえば,信州にある私の生家の近くにも東山道の遺構が残っている.当たり前と言えば当たり前だが,あの信州で馴染みの東山道がここまで続いているのに,何か熱いものを感じる.そして,ふと,
"東山道を辿りながら歩けないかな…”
などと途方もないことを思いつく.
<東山道の碑>
■瀬尾家居館跡
東山道の碑の直ぐ近くに「平家の豪族瀬尾家居館跡」と刻字された石塔が立っている.平成21年に瀬尾家41代当主の方がこの石塔を立てたと刻字されている.
帰宅後,中田原城主の瀬尾氏のことをインターネットで調べてみたが,この石塔に刻字されている以上の情報は,今のところ見つかっていない.
<瀬尾氏の石柱>
■中原田の一里塚
11時26分,中原田一里塚に到着する.
資料2によれば,「中田原の一里塚は、奥州道中沿い、大田原宿と次の鍋掛宿との間にあります。江戸幕府は慶長6年(1601)、奥州道中をはじめとする主要街道の整備に着手し、さらに同9年(1604)には江戸日本橋を起点として街道の両側に1里(約4キロメートル)ごとの印として、塚を全国に造らせました。これが一里塚で、5間(約9メートル)四方の方形に築かれ、塚の上には榎(えのき)や松が植えられました。
この一里塚も当初は道の両側にありましたが、南側の方は宅地建設の際に取り壊されました。北側は半分切り取られた形で残っていましたが、道路拡幅の際、平成12年(2000)に約1.5メートル後方に移築されました。」(以上コピペ)
<大田原の一里塚>
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■セブンイレブンで休憩
とにかく蒸し暑い.
11時34分,通りすがりのセブンイレブンの庇を借りて,日陰で暫く休憩を取る.
<セブンイレブンの庇を借りて休憩>
■史跡道標
11時40分,セブンイレブンから歩き出す.
蒸し暑さにクラクラしながら,11時52分,史跡道標に到着する.ここには石塔が3基置かれているが,石塔の刻字は摩耗していて殆ど読めないが,やや大きな石塔にはどうやら「南無阿弥陀仏」と彫られているようである.
傍らにある案内板の説明によると,ここは棚倉街道との追分のようである.この道標に関連する由来などが案内板に縷々説明されている.ここには.寛永6年(1629年),流人沢庵と玉室はこの地まで一緒に連れて来られ,ここで分かれたと書いてある.それぞれが詠んだ歌が案内板で紹介されている.石塔に彫られた南無阿弥陀仏は,この二人の故事に関係あるのだろうか.
とにかく,そんな詮索をしている暇もなく,道標前を通過する.
<史跡道標>
■小滝のコウヤマキ
12時05分,大田原の銘木「小滝のコウヤマキ」に到着する.
なるほど凄い大木である.この大木の傍らに立ててある案内板によると,この木の樹齢は推定400年,樹高約17メートル,目通り3.1メートルの大木である.市指定天然記念物である.
”400年も遡ったら,徳川家康が征夷大将軍になった頃じゃないか…!”
私は改めて樹木の長寿に驚かされる.
<小滝のコウヤマキ>
■食事処「うーめん庵」で昼食
12時25分,食事処「うーめん庵」に到着する.これから少し遅めの昼食である.
メニューはワカメが入ったウーメンである.勿論食べる前に写真を撮ったつもりだが,どういう訳か,全く写っていない.
”このバカカメラめ!”
私は自分の腕の悪さを棚に上げてカメラを叱り飛ばす.勿論,カメラは無反応である.
<ウーメン亭>
■参考写真
私が食べたメニューとはかなり違うが,雰囲気が似ているメニューの写真を資料1から引用しておこう.
とにかく文句なしに美味しかったし,ボリューム満点だった.
※資料1からコピペ
(つづく)
つづきの記事
↓
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a9d3c8ce258be52696fbbeb1903939b9
[参考資料]
資料1;https://tabelog.com/tochigi/A0905/A090501/9008924/
「奥州街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/55f1b2dce2470adc0fd0bd872352e0d7
「奥州街道」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4c195cfa3f795ede28aa0764b57a5db3
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