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<本覚寺の紅梅>
鎌倉七福神巡り(2)
(洛遊会臨時例会)
2009年1月23日(金)(つづき)
■日蓮上人辻説法跡
12時29分に妙隆寺を出発する.先ほどは裏口から境内に入ったので,こんどは小町大路に面した表口の参道から外へ出る.小町大路は自動車が結構通るので,本当は余り歩きたくない道である.
小町大路を少し南に下って,史跡「日蓮上人辻説法の跡」に到着する.かなり頻繁に往来する自動車を避けながら,この史跡を見学する.
日蓮は,この場所で熱心の法華経の布教活動を行ったと言われている.この場所で,日蓮は,地震,干ばつ,疫病などの災いの原因は,日蓮宗以外の宗派を信仰したことに原因があると鋭く批判した.
ここは,若宮幕府と目と鼻の至近距離である.こんな敷き距離で批判されたら幕府もたからないなと想像する.
蛇足だが,日蓮辻説法跡は,ここ以外にもある.
<日蓮辻説法跡>
■蛭子神社で立ち休憩
日蓮辻説法跡は自動車の往来が多い所にあるので,余りゆっくりと見学できない.すぐに出発して,さらに数分,小町大路を南下し,12時37分頃,蛭子神社に到着する.神社の境内で,ほんの数分,立ったまま休憩を取る.
蛭子神社は,小町の鎮守である.当初は現在の本覚寺近くにあった夷三郎社という神社だったが,本覚寺が創建されたときに,今の場所に移されたという.祭神は大己貴命.
社殿の向こう側に滑川が流れている.対岸には閑静な住宅地が並んでいる.その先にはくねくねと続く祇園山が見えている.境内は静まりかえっている.社殿の庭には,大きなイチョウが聳えている.
■本覚寺の夷尊神
数分の休憩の後,再び小町大路を南下する.そして,夷堂橋の手前で右折し,12時41分,妙厳山本覚寺境内に入る.時間があれば,すぐ近くにある妙本寺にも立ち寄りたかったが残念.境内に入ってすぐ右にある夷尊人に詣でる.夷様は,言うまでもなく縁結び,商売繁盛の神である.
ここでも御朱印を頂戴する方々が居られたので,その時間を利用して,刀工正宗の墓と日朝上人等の石塔を参観する.
正宗の墓の近くに,鮮やかな紅梅が満開である.大きな三脚を構えて,この紅梅の写真を撮ろうとして,老人が頑張っている.
本覚寺は,1436年(永享8年),日出上人が創建した寺である.元々は天台宗の寺であったが,二代目日朝上人が日蓮宗に改め,本覚寺にした(鎌倉商工会議所,2007,pp.106-107).そして,日蓮の遺骨を本覚寺に分骨した.その後,本覚寺は「東見延」と呼ばれるようになった.地元では,目の病気を治してくれる「日朝さま」として親しまれている.
本覚寺は参観料を取らないので,自由に境内に入ることができる.そのために,近隣の住民が境内を絶えず往来している.地元に溶け込んだ大寺院の風格に,私は何とも言えないほどの親しみを感じている.数ある鎌倉の社寺の内で,一番好感が持てる社寺は何処かと聞かれれば,私は即座に本覚寺をあげるだろう.
<本覚寺の夷堂>
■小町通「モア」で昼食
13時頃,本覚寺から若宮大路に出る.
ここで,約45分の間に,鎌倉駅近くの飲食店で,各自自由に昼食を摂ることにする.
私は,何時も行きつけの小町通「モア」で軽くサンドイッチでも食べようかと思う.東急前の路地を抜けて,「モア」に入る.先客は殆ど居ない.すぐに定食のサンドイッチを注文する.そして,一息ついていると,仲間達10名ほどが,ドヤドヤと店に入ってくる.私はビックリする.それと同時に,前回,この店を紹介したのが好評のようで嬉しくもある.今まで静かだった店内が,とたんに賑やかになる.
でも,こんなに大勢が一度に注文したら,果たして時間内に料理が出来るかが気がかりになる.
もし,料理が遅くなったら,他の店で食べている人を待たせてしまうので,一足先に食事を済ませてしまい,所定の場所で,皆さんを待っていようと思う.そこで,
「・・・済みません.私のレシートは,他の皆さんと別にしてください・・」
と店の方に御願いする.
しかし,結果は危惧に過ぎなかった.さすがにお店はプロである.何とか全員が時間内に食事を済ませることができた.
■畠山重安の墓
所定の13時45分頃,鎌倉駅前に行く.他の店で,すでに食事を済ませた人達も集まり始めている.ここでも,洛遊会の皆さんが,厳格に時間厳守されるのに感心させられる.このような習慣を付けて頂いた小田急トラベルに感謝.もっとも,洛遊会では「エイッ,エイッ,オー」はやらないが・・・
鎌倉駅から,わざわざ東急の隣にある市場を抜けて若宮大路に出る.鎌倉にもこんなに素敵な市場があることを知って貰いたかったからである.ここから先,普通は,下馬四つ角を右折して,由比ヶ浜通りに沿って,長谷寺を目掛けて西へ進む.でも,この道は車の交通量の多い.車の多い通りを歩くのも芸がないので,住宅地の裏通りを選ぶことにする.
そこで,暫くの間,下馬四つ角をそのまま海の方に直進する.
鎌倉市体育館前を通過して,畠山六郎重安の墓(六郎様)に到着する.ここに立っている宝篋印塔が六郎様の墓である.この石塔は1393年(明徳4年)に建立,総高は3.4メートルである(鎌倉市教育研究所(編),2000a,pp.373-375).
畠山重安の父は畠山重忠である.畠山重忠は,源平合戦一ノ谷「ひよどり越え」のときに,嶮しい岩山を,愛馬三日月を背負って降りたという伝説の勇者である.重安は重忠の長子.ところが,この重安,重いぜん息持ちだった.彼は,いつも激しい咳に悩まされていたという.
鎌倉幕府の実権が北条氏に移ると,畠山氏は北条氏から疎まれるようになる.そして,重安は,遂に由比ヶ浜で討ち取られてしまう・・・こんな故事を,この宝篋印塔を見ながら思い出す.
なお,この辺りは,重安の屋敷跡だったと言われている.
■和田塚
重安の墓を通り過ぎてから,右折して狭い路地に入る.路地は閑静な住宅地の中を通っている.狭い複雑な路地を,くねくねと通り抜けて,石垣に囲まれた和田塚の脇に出る.
和田塚は,和田合戦で敗れた和田一族の死者を埋めたところだと伝えられている(鎌倉市教育研究所(編),2000a,pp.368-369).和田義盛は三浦大介義昭の孫.頼朝の側近,侍所だった.頼朝の死後,北条義時に滅ぼされてしまう.
ここで一休みしている間に,道路の先の踏切を江ノ電の電車が,コトコトと音を立てて,鎌倉方面に走っていく.
■染谷太郎太夫時忠屋敷跡
100メートルほど,和田塚の前の道を南に向かう.小さな交差点を右折する.そして踏切を渡って,三叉路に出る.ここを右折すれば,すぐに由比ヶ浜通りに出てしまうので詰まらない.そこで左折してしまう.狭い道を進んで,再び三叉路に出る.ここを右折して,やや交通量の多い道に出る.この辺りは染谷太郎太夫時忠屋敷跡である.
染谷太郎太夫時忠は,藤原鎌足の孫の孫.関東八カ国の総追補使で関東一帯を支配,由比の長者といわれた豪族である(鎌倉市教育研究会(編),2000a,p.390).
■美味しいパン屋「ジャックと豆の木」
由比ヶ浜通りに出る.途端に沢山の観光客が散策している.私は参加者に,
「どうしますか? このまま由比ヶ浜通りをあるきますか? それとも路地を歩きますか?」
と伺う.ほぼ全員が,裏通りを希望する.
横断歩道を渡って,鎌倉文学館前の通りに入る.ここに「ジャックと豆の木」というパン屋さんがある.ここのパンがとても美味しいので,一行に紹介したかった.残念なことに,今日はお休み.
■甘縄神明宮
裏通りの路地を西へ進む.そして,13時55分,甘縄神明宮に到着する.
ここは710年(和銅3年),行基が草創,染谷太郎太夫時忠が建立した鎌倉最古の神社である.祭神は天照大神.源頼義が祈願して,子どもの八幡太郎義家が生まれたことから,源氏との関わりが強い神社である.
甘縄神明宮の本殿に向かう石段の下にある井戸は「北条時宗公産湯の井」という立て札が立っている.
ちなみに,甘縄の「甘」は海女(あま)のこと,「縄」は漁をするときの縄の意味だという説がある(鎌倉市教育研究所,2000a,pp.221-223).
なお,甘縄神明宮の後の山を神輿岳というらしい(安田三郎;永井道子(他),1976,p.79).この辺り一帯は安達盛永ら一族の館跡.頼朝の姥は比企の尼.頼朝が伊豆に流されていたときに,比企の尼が,安達盛永を頼朝の許へ派遣した.安田等によれば「後に安達家は北条氏の外戚になる.時頼の母,松下禅尼も時宗夫人も,皆,安達の一族」だという.そして,時宗もここで生まれた.
<甘縄神明宮の義時産湯の井の前で>
■長谷寺の大黒天
再び賑やかな由比ヶ浜通りに出る.沢山の観光客に混じって,14時45分,海光山長谷寺に到着する.
元正天皇の頃,大和長谷寺の徳道上人が大きな楠木を使って2体の十一面観音を作り,1体は大和の長谷寺に,1体は海に流した.16年後に三浦半島の初声に漂着.藤原房前が現在の地に移して祀ったといわれる(安田三郎;永井道子(他),1976,p.77).
沢山の観光客に混じって,境内に入る.放生池は清掃中のため水抜きされている.また弁天窟も工事中とやらで,残念ながら中に入れない.
とりあえずは,本堂脇に祀られている大黒天を拝む.
<長谷寺の大黒天>
<長谷寺の猫:さすがにお寺の猫,泰然としている>
■御霊神社の福禄寿
15時15分頃,長谷寺を後にする.駐車場脇から,住宅街の路地を抜けて,御霊(ごりょう)神社を詣でる.この神社の祭神は鎌倉権五郎景政.梶原の御霊神社は「ごれいじんじゃ」と読むが,ここの御霊神社は,なぜか「ごりょうじんじゃ」と読む.どうして呼称が違うのか,私には分からない.
鎌倉権五郎景政は平安後期の平氏一門の武士.鎌倉武士団を率いて湘南地域一帯を開拓した開発領主.敵に右目を射抜かれたがひるまずに戦ったという武勇伝がある.
参道の脇にある福禄寿を詣でる.
その後,境内に植えてある十両,百両,千両,萬両の草花を見て回る.
<御霊神社の福寿人>
(つづく)
[参考文献]
鎌倉教育研究会(編),2000a,『かまくら子ども風土記(上巻)』鎌倉市教育委員会
鎌倉商工会議所,2007,『鎌倉観光文化検定公式テキストブック』かまくら春秋社
安田三郎;永井道子他共著,1976,『鎌倉歴史散策』保育社
「鎌倉あれこれ」「洛遊会」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/3b0190668f0ae17db436f773d5a2b2ae