中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る甲州道中四十四次(第8回);第1日目(4);教来石宿

2014年04月26日 04時39分41秒 | 甲州道中四十五宿

                               <サクラ吹雪の教来石宿を歩く>

    歩いて巡る甲州道中四十四次(第8回);第1日目(4);教来石宿
             (五十三次洛遊会)
       2014年4月18日(金)~20日(日)

第1日目;2014年4月18日(金) 
つづき)

<ルート地図>


※再掲

<教来石宿に到着>

■教来石宿の概要
 資料2(p.348)によると,宿内人口638人.内,男360人,女324人.宿内惣家数144軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠7軒であった.同資料によると,教来石宿には上教来石宿と下教来石宿があって,本宿は下教来石宿,そして下教来石宿は加宿であったという.

■左手遠望の石尊神社
 コンビニの店先でかなり遅めの昼食を終えた私たちは,14時13分にコンビニから歩き出す.
 実はここから西へ2キロメートルほど離れたところに石尊神社がある.これだけの距離を往復している時間は取れないので,参拝は割愛する.
 往路を旧道まで戻って,午後の部を歩き始める.
 14時21分,灯籠や数基の石塔が並ぶ場所を通過する.そして,14時22分松山沢川に架かる小さな橋を渡る.
 
<路傍の灯籠と石塔>                               <松山沢川の小さな橋>

■流川橋を渡って教来石宿に到着
 14時28分,流川に架かる流川橋を渡る.この辺りが下教来石という場所である.つまり,ここが教来石宿である.私たちは,やっと江戸から42番目の宿,下教来石に到着する.
 流川橋付近に植えられている沢山のサクラが,今,満開である.

<流川橋>

■大きな石塔と火の見ヤグラ
 14時34分,来福寺前の信号下経来石で国道20号線に合流する.目の前に大きな石碑と火の見ヤグラが見えている.石塔には「萬霊一等」と刻字されているように読める(間違っているかもしれない).
 資料1によると,この大きな石塔の前から左折して,ゆるやかな上り勾配の道を登ると経来石と呼ばれる2個の石があるらしい.
 “少し離れたところにあるけれど,これは是非見ておきたいな…”
と私は思う.
 「スミマセン…,この経来石は是非見たいです.」
ということでリーダーとONさんの同意を得る.
 そこで希望者と一緒に左折して坂道を全速力で登り始める.


<大きな石塔と火の見ヤグラ>

<経来石見物>

■石仏と石塔群
 国道20号線から左折すると,すぐ右手に地蔵堂を中心に沢山の石塔が立っている.
 教来石宿付近には実に沢山の石塔石碑の類があるなと実感しているが,これもこの地域の歴史の奥深さだろうと思う.

<石仏石塔群>

■経来石(一)
 何処に経来石があるのか全く分からないまま,キョロキョロと辺りを見回しながら坂道を登り続ける.進行方向右手には来福寺のものらしい墓地が続いている.
 資料2(p.348)には,「村の西に教来石とて高さ七尺許(ばかり),堅(たて)三間,横二間許の巨石あり,村名のおこる所なりといへり.石上に小祠あり.日本武尊を祠る」という記事がある.さらに「日本武尊が,甲府の酒折宮にいたころこの地に来て,この石の上で休んだので,村人が来石(こいし)と呼び,村の名としたとというが,経を教と書き誤り,今の名になった…」と説明している.
 14時35分,墓地の一角に巨石が2個並んでいる場所に到着する.一方の巨石の上には確かに小さな祠が安置されている.資料1に記載されている経来石(一)に違いない.
 “なるほど…ここが日本武尊を祀った祠か…!”
と合点する…が,この石が本当に経来石かどうか,私には判断が付かない.でも,まあ,当たらずとも遠からずで,この辺りにある大きな石の中に経来石があるだろうと勝手に思っている.

<経来石(その1)>

■経来石(二)
 資料1の地図を見ると,経来石(一)前のY字型分岐を右に曲がり,さらに坂道を登ったところに経来石(二)があるように記載されている.
 私はAB夫妻と一緒にさらに坂を登り続ける.AB夫妻以外の方々は,坂の下で休憩を取っている.
 “早く経来石を見付けて戻らないと,皆さんに迷惑が掛かるな…”
と思いながら,幾分補足を早める.
 14時39分,同じく進行方向右手に,巨石が並んでいるところに到着する.ここが資料1に記載されている経来石(二)だろうか.私には定かではないが,多分ここだろうということにする.
 ここには巨石が2個並んでいる.

<経来石(二)>

■畑中の馬頭観音と道祖神
 資料1の地図によると,経来石(二)からほど近いところに馬頭観音4基と道祖神があるはずである.これらも是非見ておきたい.
 そこで経来石(二)を通過してさらに坂道を登る.皆さんを余り待たせてもいけないので気が焦る.AB夫妻にお断りして,地図を頼りに,駆け足で道が右に大きく曲がるところまで登って見るが,それらしいものは見当たらない.私は諦めて今登ってきた坂道を下る.
 坂道の途中で,私を待っていたAB夫妻が,
 「…あそこに馬頭観音らしいものが見えますよ…」
と畑中に一角を指さす.
 なるほど,道路の経来石(二)側の畑のあぜ道を30~40メートルほど入った土手の際に,肩を寄せ合うように4基の道祖神と馬頭観音が安置されている.周囲の長閑な風景に溶け込むような風情である.私は何か救われたような安堵感を覚える.

<畑中の馬頭観音と道祖神>

<教来石宿を行く>

■本陣跡(?)
 14時49分,元の甲州街道まで戻る.14時39分に枝道に入ったので,10分間の短い間に教来石(一),教来石(二),および馬頭観音と道祖神を大急ぎで一回りしたことになる.その間,大半の方々は,枝道近くで休憩を取っていたことになる.
 “10分ぐらいの休憩ならば,まあ許されるな…”
と私は内心で安堵している.
 三叉路近くに,「明治天皇・・・」と刻字された立派な石塔が立っている.地図で確かめると,この辺りに教来石宿の本陣があったようである.明治天皇ゆかりの石碑が立っていることから,多分,ここが本陣跡だろうと確信して先へ進む.

<本陣跡?>

■鳳来郵便局
 14時53分,鳳来郵便局に到着する.手持ちの地図の上で,この郵便局の位置を確かめる.そして,あと5~6キロメートル歩けば,今日の終着点である塩沢温泉入口に到着できるなと確信する.

<鳳来郵便局>

■素晴らしい展望
 郵便局を過ぎると,次第に眺望が開ける.
 進行方向右手には,釜無川流域の田畑や川沿いの林が続いている.その先には中央本線が通っている台地が見えている.
 私たちは素晴らしい風景に癒されながら,ノンビリと歩き続ける(冒頭の写真).

<素晴らしい風景>

諏訪神社
 14時50分,諏訪神社に到着する.立派な石造りの鳥居の向こうに大きな本殿が見えている.
 資料1によると,諏訪神社の本殿は,天保3年(1880年),信濃国の名匠立川和四郎富昌によって建造されたという.昇龍,降龍,猩々,酒壺など見事な彫刻が施されているというが,残念ながらゆっくり拝観する時間的余裕はない.

<諏訪神社>

■石塔を眺めながら…
 15時丁度に,なぜか縄でくくりつけられた石塔の前に到着する.どうやら庚申塔のようである.
 “なぜ,縄…!?”
 この縄に何か信仰的意味があるのだろうか?
それとも,単に転倒を防止するための縄なのだろうか?
 浅学の私には良く分からない.
 庚申塔の直ぐ脇に,2基の石塔が立っている.これらの石塔が何かは,手許の資料では分からない.
 
<庚申塔>                                  <2基の石塔>

<下教来石>

■加久保沢橋を渡る
 15時04分,流川に架かる加久保沢橋を渡る.この川を渡ると上教来石の集落に入る.
 流川は小さな川だが,豊富な水がさくさくと流れているのが印象的である.そういえば,この辺りは,何処へ行っても側溝に綺麗な水が滔々と流れていて,実に羨ましい.とても水が豊富なところだなという印象を受ける.

<加久保沢橋>

■御膳水跡
 15時08分,御膳水跡に到着する.やや荒れた感じのする空き地の中に「御膳水跡」の案内板が立っている.
 案内文の記事によると,明治13年(1880年),明治天皇巡幸の土岐に,細入沢の湧き水を飲んで,これを誉めたとのことである.

<御膳水跡>

■おびただしい数の石仏石塔
 15時13分,国道20号線に合流する.
 合流点近くに地蔵菩薩を始め沢山の石仏石塔が並んでいる.この近くに蘭渓道隆が開山したと言われる経慶寺があるが,この寺を訪れるには,交通量の多い国道20号線を横切らなければならない.残念ながら拝観は省略する.

<おびただしい数の石仏石塔>

■歓迎塔
 15時14分,「清流と緑のふるさと白州」と書かれた歓迎塔を左に見ながら通過する.辺りは長閑な田園地帯である.
 田んぼの中に集落が点在している.

<歓迎塔の横を通過する>

■巡礼四国八拾八箇所供養塔
 15時20分,巡礼四国八拾八箇所供養塔の前を通過する.この供養塔は,民家の庭先に何となく立っている.
 この,“なんとなく…”の雰囲気が私の心情にピッタリである.

<巡礼四国八拾八箇所供養塔>
                                        (つづく)

[参考文献]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
                                        (つづく)

「甲州道中」の前回の記事
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