第6回:二ノ宮駅から箱根湯本まで(その3)
2007年10月3日(水)(つづき)
<小田原宿>
■旧脇本陣
13時31分に江戸見付と江戸日本橋から20番目の一里塚跡を通過した私達は,国道1号線に沿って,西へ400メートルほど歩く。五叉路を左折,最初の交差点で交わるのが旧東海道である。右折して旧東海道に入る。
13時45分に,旧脇本陣跡に到着する。しかし,今は全くその面影はない。ここには,脇本陣とは無関係な小さな和風旅館が建っている。その旅館の角に「旧本陣古清水旅館」と書いた立て看板が建っている。ガイドが,
「この看板には『旧本陣』と書いてありますが,ここは脇本陣だったところです」
と歩きながら説明する。
<旧脇本陣> <明治天皇行在所記念碑>
ここ小田原宿は,江戸時代,大久保氏11万3000石の城下町兼宿場として栄えていたという。小田原宿の規模は神奈川県内では最大の規模であったらしく,本陣,脇本陣がそれぞれ4軒,旅籠は約95軒もあったという。
■明治天皇宮ノ前御在所と本町御在所
13時47分,旧本陣跡の直ぐ隣の明治天皇宮ノ前行在所跡を通過する。大きな説明文と石碑,木杭などが建てられている。
<明治天皇宮ノ前行在所跡>
説明文によると,ここは旧本陣清水金左衛門宅のあった場所らしい。明治天皇は,この金左衛門宅に合計5回宿泊されたようである。
■小田原なりわい交流館
御在所を通過して,すぐに小田原なりわい交流館に到着する。13時48分である。ここで,しばらく休憩を取る。それほど大きな建物ではないが,木造2階建ての風情のある建物である。入口の戸袋には,大きな白い字で「お休み所」書いてある。建物の中に入る。一寸した土産売り場と休憩スペースがある。沢山の観光客が休憩を取っている。交流館のトイレには長い待行列ができている。
建物の外を一回りしてみる。建物の外壁には,この交流館の説明文と小田原宿の細かい説明文が掲示されている。裏手に廻ってみる。裏手は,自動車が10台ほど駐車できる駐車場になっている。
<小田原なりわい交流館> <日本橋から85kmm道標>
<小田原なりわい交流館の説明>
<小田原市中心街>
■電線のない綺麗な町
13時48分に小田原なりわい交流館を出発する。
宮ノ前御在所の直ぐ西の十字路を左に入った直ぐの所に,本町御在所があるというが,ソソクサと通り過ぎる。写真を撮る暇もない。残念至極である。
私達は綺麗で広い国道1号線を,少し西北西に向きを変えて先へ進む。綺麗な通りである。普通ならば空中を走る電線が全くない。素敵な街灯が並んでいる。とても綺麗な通りである。ここは,バスで箱根を往復するときに,何時も通っている所だが,歩いてみると,バスの車窓から眺める風景とはひと味違うことに気が付く。そこがまた楽しい。 14時18分,「日本橋から85km」標識を通過する。
所々に,町名を書いた石柱が建っている。バスで通過しているときは,このような石柱があることには全く気が付かなかった。石柱の側面には,故事来歴の簡潔な説明文が刻まれている。これらを子細に読みながら歩きたいが,急ぎ足で歩き続ける今回のツアーでは,そんな時間は全くない。小田原は古い城下町だけあって,町名の読み方も風流で面白い。
<所々に故事来歴を記した街案内が建っている> <小田原駅跡>
■箱根登山鉄道発祥の地
14時22分に陸橋を渡って,進行方向右手の歩道に移る。陸橋の袂に「人車鉄道軽便鉄道小田原駅跡」と彫ってある石柱が建っている。ガイドの説明によると,ここが箱根登山鉄道つまり小田急電鉄発祥の地らしい。
14時24分に東海道本線のガードを潜る。そして,直ぐに右折,やや急な坂道が続いている。その坂道の手前を,再び左折して,裏道のような道に入り込む。どうやら国道1号線の抜け道になっているらしくて,狭い道を自動車が絶え間なく通り過ぎる。
抜け道の入口に板橋見付跡がある。大急ぎで説明板の写真を撮るが,残念ながらカメラブレで全く読めない。
写真を撮っている内に,一行の最後部にまで遅れてしまった私は,遠慮がちに前の人を追い越して,ジリジリと前に出る。道路はやや急な登り坂になっている。
■石垣山一夜城
14時50分頃,箱根登山鉄道風祭駅入口付近を通過する。進行方向右手は山裾になっている。左手は早川沿いの谷間になっている。つまり私達は早川の左岸を遡っている。右岸には小高い山が見えている。この辺りに有名な豊臣秀吉一夜城祉がある石垣山があるはずだが,どこだか特定している暇がない。
1590年(天正18年),豊臣秀吉は,小田原の北条氏を15万人の大軍で包囲した。このときに本営として総石垣作りの城を築いた。このことから,ここは石垣山と呼ばれるようになったという。
(つづく)
2007年10月3日(水)(つづき)
<小田原宿>
■旧脇本陣
13時31分に江戸見付と江戸日本橋から20番目の一里塚跡を通過した私達は,国道1号線に沿って,西へ400メートルほど歩く。五叉路を左折,最初の交差点で交わるのが旧東海道である。右折して旧東海道に入る。
13時45分に,旧脇本陣跡に到着する。しかし,今は全くその面影はない。ここには,脇本陣とは無関係な小さな和風旅館が建っている。その旅館の角に「旧本陣古清水旅館」と書いた立て看板が建っている。ガイドが,
「この看板には『旧本陣』と書いてありますが,ここは脇本陣だったところです」
と歩きながら説明する。
<旧脇本陣> <明治天皇行在所記念碑>
ここ小田原宿は,江戸時代,大久保氏11万3000石の城下町兼宿場として栄えていたという。小田原宿の規模は神奈川県内では最大の規模であったらしく,本陣,脇本陣がそれぞれ4軒,旅籠は約95軒もあったという。
■明治天皇宮ノ前御在所と本町御在所
13時47分,旧本陣跡の直ぐ隣の明治天皇宮ノ前行在所跡を通過する。大きな説明文と石碑,木杭などが建てられている。
<明治天皇宮ノ前行在所跡>
説明文によると,ここは旧本陣清水金左衛門宅のあった場所らしい。明治天皇は,この金左衛門宅に合計5回宿泊されたようである。
■小田原なりわい交流館
御在所を通過して,すぐに小田原なりわい交流館に到着する。13時48分である。ここで,しばらく休憩を取る。それほど大きな建物ではないが,木造2階建ての風情のある建物である。入口の戸袋には,大きな白い字で「お休み所」書いてある。建物の中に入る。一寸した土産売り場と休憩スペースがある。沢山の観光客が休憩を取っている。交流館のトイレには長い待行列ができている。
建物の外を一回りしてみる。建物の外壁には,この交流館の説明文と小田原宿の細かい説明文が掲示されている。裏手に廻ってみる。裏手は,自動車が10台ほど駐車できる駐車場になっている。
<小田原なりわい交流館> <日本橋から85kmm道標>
<小田原なりわい交流館の説明>
<小田原市中心街>
■電線のない綺麗な町
13時48分に小田原なりわい交流館を出発する。
宮ノ前御在所の直ぐ西の十字路を左に入った直ぐの所に,本町御在所があるというが,ソソクサと通り過ぎる。写真を撮る暇もない。残念至極である。
私達は綺麗で広い国道1号線を,少し西北西に向きを変えて先へ進む。綺麗な通りである。普通ならば空中を走る電線が全くない。素敵な街灯が並んでいる。とても綺麗な通りである。ここは,バスで箱根を往復するときに,何時も通っている所だが,歩いてみると,バスの車窓から眺める風景とはひと味違うことに気が付く。そこがまた楽しい。 14時18分,「日本橋から85km」標識を通過する。
所々に,町名を書いた石柱が建っている。バスで通過しているときは,このような石柱があることには全く気が付かなかった。石柱の側面には,故事来歴の簡潔な説明文が刻まれている。これらを子細に読みながら歩きたいが,急ぎ足で歩き続ける今回のツアーでは,そんな時間は全くない。小田原は古い城下町だけあって,町名の読み方も風流で面白い。
<所々に故事来歴を記した街案内が建っている> <小田原駅跡>
■箱根登山鉄道発祥の地
14時22分に陸橋を渡って,進行方向右手の歩道に移る。陸橋の袂に「人車鉄道軽便鉄道小田原駅跡」と彫ってある石柱が建っている。ガイドの説明によると,ここが箱根登山鉄道つまり小田急電鉄発祥の地らしい。
14時24分に東海道本線のガードを潜る。そして,直ぐに右折,やや急な坂道が続いている。その坂道の手前を,再び左折して,裏道のような道に入り込む。どうやら国道1号線の抜け道になっているらしくて,狭い道を自動車が絶え間なく通り過ぎる。
抜け道の入口に板橋見付跡がある。大急ぎで説明板の写真を撮るが,残念ながらカメラブレで全く読めない。
写真を撮っている内に,一行の最後部にまで遅れてしまった私は,遠慮がちに前の人を追い越して,ジリジリと前に出る。道路はやや急な登り坂になっている。
■石垣山一夜城
14時50分頃,箱根登山鉄道風祭駅入口付近を通過する。進行方向右手は山裾になっている。左手は早川沿いの谷間になっている。つまり私達は早川の左岸を遡っている。右岸には小高い山が見えている。この辺りに有名な豊臣秀吉一夜城祉がある石垣山があるはずだが,どこだか特定している暇がない。
1590年(天正18年),豊臣秀吉は,小田原の北条氏を15万人の大軍で包囲した。このときに本営として総石垣作りの城を築いた。このことから,ここは石垣山と呼ばれるようになったという。
(つづく)