中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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東海道五十三次宿場巡り全15回第6回(13)

2007年10月16日 10時20分29秒 | 街道:東海道五十三次
            第6回:二ノ宮駅から箱根湯本まで(その2)
              2007年10月3日(水)(つづき)

<酒匂川を越える>

■小八幡の一里塚

 少し長い休憩を取った後,11時30分に国府津駅を出発する。また,例によって,
 「エイ,エイ,オー・・・」
である。全く・・・!
 再び国道1号線に沿って,西へ,西へと歩き続ける。
 11時45分,江戸日本橋から19番目の「小八幡の一里塚跡」を通過する。勿論,現在は一里塚の跡は何も残っていない。ただ,立派な説明文が掲示されている。
 
    <東海道一里塚跡>               <酒匂川河原から大山を望む>

 さらに,私達は国道1号線に沿って歩き続ける。歩きながら地図を見ていると,もうすぐ酒匂川の鉄橋に差し掛かるはずである。

■酒匂浜公園で昼食
 12時04分,先頭のリーダーが突然左折する。静かな枝道である。この枝道をほんの200メートルほど進むと,1ヘクタールほどの空き地に到着する。酒匂浜公園である。ここで,昼食を摂ることになる。
 
       <酒匂浜公園>                     <昼食の助六>

 空き地は雑草に覆われている。ほぼ真ん中に直径20メートルほどの砂遊び場らしい施設がある。傍らに「犬の糞は飼い主が始末すること」と書いてある立て札が立っている。周りにはベンチが幾つか据え付けられている。私達は,ベンチや砂遊び場の縁に腰を下ろして,昼食を摂る。
 私は,100円ショップで購入したシートを持参しているので,辺りに犬の糞など落ちていないことを十分確認してから砂場らしいところに広げる。そして,大船駅構内の寿司屋で購入した助六鮨を食べる。うん,美味しい。特に油揚げがとても美味しい。
 昼食後,リュックを枕に,15分ほどうたた寝をする。

■川辺本陣跡
 12時44分に,また,
 「エイ,エイ,オー・・・」
の掛け声を揚げてから,酒匂浜公園を出発する。先ほど通った路地から国道1号線に戻り,再び西へ進む。そして,酒匂川の手前で川辺本陣跡に到着する。格子窓が綺麗で,黒い大きな門構えの家が建っている。門には,「地域育児センター」と書いた看板が貼り付けてある。残念ながら,川辺本陣の「曰く因縁」は全く分からない。
 
        <川辺本陣跡>                  <日本橋から82km道標>

<いよいよ小田原中心部へ>

■酒匂橋を渡る
 12時58分に,酒匂川に架かる酒匂橋の袂に到着する。ガイドの説明によると,昔の酒匂橋は,今の橋よりも斜めに架かっていたとのことである。橋の東側は現在の位置と殆ど同じだが,西端はもっと川の上流の方にあったという。先頭のガイドが,
 「橋の西の端は,ほら,あそこに見えるビルの辺りだったようです・・・」
と言いながら,現在の橋の西端から200メートルほど上流に立っている4~5階建ての白いビルを指さす。そして,
 「橋を渡り終えたら,路地を通って,一旦,あそこのビル辺りまで遡ります。そこから旧東海道に沿って西へ歩きます・・」
と付け加える。
 
         <酒匂川橋>                <旧酒匂川橋は白いビルの左側>

 酒匂橋は大きな橋である。川下には並行して東海道本線の鉄橋が架かっている。電車がかなり頻繁に行き来している。川面からやや涼しい風が吹き上げてくる。

■新田義貞の首塚
 13時04分に,酒匂橋を渡り終える。ほんの10メートルほど進んだところで,右折して小さな路地に入る。誰かがガイドに,
 「良くこんな路地を知っていますね・・・」
と感心しながら,話しかける。
 やがて路地は細い静かな道に突き当たる。三叉路になっている。この道が旧東海道である。三叉路を左折する。静かな道をほんの200メートルほど進むと,再び国道1号線に出る。国道一号線を渡って,路地の続きに入る。辺りは静かな住宅地である。路地を直進して小さな十字路を抜け,次の交差点を右折する。少し進んで,再び右折する。その角に,「新田義貞の首塚」と書いた説明文が建っている。

                   <新田義貞の首塚の説明文>

 道幅がほんの1メートルほどしかない小さな路地である。その路地をさらに10メートルほど進むと,小さな空き地がある。その空き地に隣接して,柵越しに小さいけれども立派な宝篋印塔が立っているのが見える(13時10分)。
 13時11分,日本橋からの82km道標を通過する。
 
       <日本橋から82km道標>                  <新田義貞の首塚>

 鎌倉辺りで良く見掛ける宝篋印塔に比較すると,相輪の部分(先端の部分)がやや不釣り合いに大きいような気がするが,素人の私には良く分からない。できることならば,もっと近付いて,この宝篋印塔を子細にデジカメに収めたいが,団体行動なので,それもできない。
 案内板の説明によると,越後の藤島で討死にした新田義貞の首を,故郷に葬るために,家臣の宇都宮安藤が運んでいたが,ここで安藤が病死してしまった。そこで,新田義貞の首と一緒にここで葬られたという。

■山王交差点(激戦地跡)
 首塚の前の空き地は狭いので,一度に沢山の人は入れない。先頭を歩いていた私達は,13時14分,私達は場所を譲って,後から北人達と,狭い道で擦れ違いながら,今来た道を引き返す。
 
          <山王町交差点>                             <江戸口見付と一里塚址>

 13時17分,私達は,再び,国道1号線に戻る。そして,国道をそのまま西へ歩き続ける。暫くの間,特段の史跡もないので,ただ黙々と歩き続ける。そして,13時40分に山王交差点に至る。この辺りに篠曲輪があったという。曲輪(くるわ)は城郭内にある防御陣地あるいは兵の駐屯施設のことらしい。「曲輪」は「郭」とも書くが,江戸時代には「丸」といわれたようである(Wikipediaより引用)。
 山王交差点付近は,「小田原の役」,つまり,1590年(天正18年),豊臣秀吉が後北条氏の居城である小田原城を包囲して,北条氏父子を攻略した戦役で,激戦地になったところだという(Wikipediaより引用)。
 先を急ぐ私達は,この辺りの見学を飛ばして,先へ進む。まことに残念である。

■江戸見付・一里塚址
 山王交差点を直進する。そして,13時31分に江戸見付と江戸日本橋から20番目の一里塚跡に到着する。ここには「江戸見付一里塚址」と書いた立派な石碑が建っている。その脇には,「江戸見付並びに一里塚」と書かれた説明板が建っている。日本語の説明の下に英語の説明文も記載されている。傍らには,大きな松の老木が生えている。
 いよいよ小田原市の中心部に入り込む。

                  <小田原城址江戸口見付跡>


                             (つづく)


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