<横川駅峠の釜飯>
[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第2日目(7):横川から高崎へ戻る
(五十三次洛遊会)
2012年10月12日(金)~14日(日)
※本稿の初出は2012年10月31日である.
初稿の誤字脱字転換ミスを訂正し,本文の加除修正を行った.
2012年10月13日(土) (つづき)
<横川駅>
■元祖峠の釜めし“おぎのや”
17時01分,無事,横川駅に到着する.道中,いろいろと道草をしたので,当初の到着予定より30分ほど遅延したが,明るい内に無事に2日目の行程を終える.
これからは,今夜の宿泊場所であるホテルルートイン高崎駅西口へ引き返すだけ.
夕食は,各人バラバラに摂っても良いし,折角だから皆で一緒に食べても良い.夕食の場所はここ横川でも高崎でも構わない,場合によっては,どこかのコンビニで夕食を買って,ホテルの自分の部屋で食べても良い.
こんな七面倒くさいことを私は取り仕切るつもりはない.すべてを同行の女性軍にお任せする.そして女性軍の出した結論は,折角,横川に居るんだから,有名な「峠の釜飯」を賞味しようという結論になる.もちろん,私に異存はない.
そこで,手っ取り早いところ,つまりは横川駅前の「元祖峠の釜飯おぎのや」に入り込む.
有名な店の割には,店内はそれほど広くない.未だ若い男性の店主が愛想良く私達を迎え入れる.先客が数名食事中である.私達は長いテーブルを挟んで座る.
資料1には,「峠の釜めし(とうげのかまめし)は,群馬県松井田市にある「荻野屋」が製造・販売する駅弁である.益子焼きの土釜に入れられているという点が特徴の駅弁で,「日本随一の人気駅弁」と評されたこともある.」と記述されている.
また同資料には.この駅弁が誕生した経緯として,以下のような記述があるので,引用しておきたい.
「荻野屋は1885年,横川駅の開業時に創業した.初期の駅弁は,おにぎり2個に沢庵漬けを添えたもので,1包み5銭であった.戦後,旅行者数も増えていったが,この頃の駅弁はどこも似たような内容であったため,飽きられていた.荻野屋も例外ではなく,全列車が横川 -軽井沢間の碓氷峠通過に際しED42形電気機関車への付け替えが必要なために長時間停車する駅という立地にもかかわらず,業績が低迷していた.そこで,当時の4代目社長であった高見澤みねじは,停車中の列車に乗り込み,旅行者に駅弁に対する意見を聞いて回った.意見の大半は「暖かく家庭的で,楽しい弁当」というものであった.
高見澤と.当時社員で後に副社長となる田中トモミ]は,その意見をどのようにしてそれを駅弁に反映するかを考え,弁当と一緒に販売する緑茶の土瓶に着目した.当時の駅で販売されていた緑茶の土瓶は陶器製であったが,陶器は保温性にも優れていた上,匂いも移らない]ため,「暖かい」「楽しい」という要望をクリアできる.さらに,「中仙道を越える防人が土器で飯を炊いた」という内容の和歌にヒントを得て,早速益子焼の職人に相談し,一人用の釜を作成することにした.
こうして,当時の「駅弁=折り詰め」という常識を破り,1958年2月1日から販売が開始されたのが,峠の釜めしである.」(※引用終わり)
<おぎのや>
■峠の釜飯
全員が峠の釜飯を注文する.もっとも,この店には峠の釜飯以外のご飯ものは無いようである.
私は信州小諸の出身である.学生時代からずっと信越本線を利用して東京や仙台を往復していた.横川駅では,必ずアプト式電気機関車と蒸気機関車の繋ぎ替えがあるので,数分の停車時間があった.その停車時間を利用して,この峠の釜飯を購入することが多かった.
余談になるが・・・
私のような信州生まれの人間なら誰でも知っている歌がある.
“信濃国は十州に
境つらなる国にして
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
海こそなけれ物沢に
よろず足らわぬものはなし
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
うがつトンネル二十六・・・”(歌詞は(注)を参照)
そう! 信越本線には,横川から軽井沢まで,26個ものトンネルがあった.しかも線路は1000分の65という急勾配.坂の後ろに電気機関車3両,前に1両連結されていた.
列車が発車するときは,まず先頭の電気機関車が,「ピーッ」と汽笛を鳴らす.するとそれに応えるように残りの3両が「ピーッ,ポーッ,ピー」と汽笛を鳴らす.そしてユックリと列車が動き出す.
そういえば,横川と軽井沢の間に「熊ノ平」という駅があったっけ・・・今風にいえば,第一級の秘境駅だった.
遊学先から半年に1回,故郷の信州に帰っていた.横川からトンネルを一つひとつ潜る度に,見える景色が変わる.そして,潜る度に故郷の小諸が近くなる.潜ったトンネルの数を数えながら,
“もうすぐ信州だ・・”
胸が高鳴ったことを思い出す.
私は,本当に久々に峠の釜飯を味わいながら,古い古い時代のことを甘酸っぱく回想する.
峠の釜飯はご飯の量が多い.若い頃はペロリと食べていたが,この年になるととても全部は食べられない.このまま棄てるのも惜しいので,残りは入れ物の釜と一緒に,ホテルまで持ち帰ることにする.
<峠の釜飯>
<高崎へ戻る>
■横川駅から電車に乗車
横川駅17時39分発高崎行の電車に乗車する.
何となく懐かしい感じがする車両である.以前,東海道本線を走っていた車両に似ていて,ちょっと古い感じである.
電車が走り出した途端に,ゴツゴツした振動が車輪の方から伝わってきて,少々乗り心地が良くない.私は知らない間に,新しい乗り心地の良い電車に馴れてしまったのかも知れない.
車内は空いている.
電車は,私達が2日間かけて歩いた距離をわずか30分ほどで走って,18時10分に高崎駅に到着する.
<横川駅で電車に乗る>
■ホテルへ戻る
夕食も済ませてしまったし,もう特に街中でしなければならないこともないので,ブラブラとホテルルートイン高崎駅西口へ向かう.駅前は相変わらず賑わっている.
18時30分頃,ホテルへ戻る.
まずは,ロビーで無料のコーヒーを賞味する.
“寝る前にコーヒーを飲んだら眠れなくなるぞ・・・”
と天の声.でも,そんなことはない.たった1杯のコーヒーだが,このほろ苦さを賞味していると,気分が落ち着くし,1日の憂さは,ほろ苦さで雲散霧消する.
19時前に自室へ戻る.
連泊中に,1回は大浴場を利用しようかと思っていたが,大浴場のある2階までわざわざ出掛けるのも面倒だ.節水しなければいけないなと思うが,今夜はカンベンして貰って,部屋の中のバスタブを使う.
バスタブの湯に浸かりながら,いよいよ明日は中山道の難所,碓氷峠越えだな,どうなるんだろうと考え続ける.
入浴後は,することもないので,早々と就寝する.
こうして第7回2日目の旅は無事終わった.
<ホテルロビーでコーヒーを賞味する>
**********第2日目のまとめ*********
<ラップタイム>
8:17 安中駅歩きだし
8:39 正龍寺
8:47 西広寺
8:53 熊野神社
8:54 安中城東門跡
9:07 大泉寺
9:12 安中宿本陣跡(安中郵便局)
9:17 旧碓氷郡役所
9:24 安中教会
9:33 郡奉行役宅
9:51 妙高寺
9:57 蓮久寺
10:16 安中大木戸跡
10:19 愛宕神社
10:33 新島襄旧宅
11:19 原市村戸長役場跡
11:24 真光寺
11:40 八本木旧立場茶屋
11:40 八木延命地蔵尊
11:41 聖徳太子孝養の像と庚申石祠
12:22 食堂「にこにこ」(12:51まで昼食)
12:53 八木木戸長役場跡
13:02 馬頭観音
13:12 日枝神社
13:40 妙義道常夜灯
14:10 下木戸跡・ももんが堀
14:12 脇本陣跡
14:13 崇徳寺
14:20 無料休憩所(14:45まで休憩)
14:51 松井田八幡本殿
15:09 補陀寺
15:20 新堀の一里塚
15:50 五料の茶屋本陣(15:59まで見学)
16:04 夜泣き寺僧と茶釜石
16:19 碓氷神社
16:38 百合若大臣足踏石
17:01 横川駅着
[歩行記録]
■水平歩行距離 17.7km
■累積登攀高度 312m
■累積下降高度 61m
■所要時間(休憩時間を含む)
安中発 8:17
横川着 17:01
(所要時間) 8時間44分(8.73h)
水平歩行速度 17.7km/8.73h=2.03km/h
(第2日目おわり)
(第3日目に続く)
[参考資料]
資料1;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%A0%E3%81%AE%E9%87%9C%E3%82%81%E3%81%97
資料2;http://www.pref.nagano.lg.jp/xsyoukou/osaka/sinanonokuni.html
(注)
信濃国の歌詞は以下の通り(参考資料2から引用).
信州人ならだれでも歌える歌である.
1 信濃の国は 十州に 境連ぬる 国にして
聳(そび)ゆる山は いや高く
流るる川は いや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺
四つの平(たいら)は肥沃(ひよく)の地
海こそなけれ 物(もの)さわに
万(よろ)ず足らわぬ 事(こと)ぞなき
2 四方(よも)に聳(そび)ゆる 山々は
御岳(おんたけ) 乗(のり)鞍(くら) 駒ケ岳(こまがたけ)
浅間は殊(こと)に 活火山
いずれも国の 鎮(しず)めなり
流れ淀(よど)まず ゆく水は
北に犀(さい)川 千曲(ちくま)川
南に木曽川 天竜川
これまた国の 固(かた)めなり
3 木曽の谷には 真木(まき)茂り
諏訪(すわ)の湖(うみ)には 魚多し
民のかせぎも 豊かにて
五穀(ごこく)の実らぬ 里やある
しかのみならず 桑とりて
蚕飼(こがい)の業(わざ)の 打ちひらけ
細きよすがも 軽(かろ)からぬ
国の命を 繋(つな)ぐなり
4 尋(たず)ねまほしき 園原(そのはら)や
旅のやどりの 寝覚(ねざめ)の床(床)
木曽の桟(かけはし)かけし世も
心してゆけ 久米(くめ)路(じ)橋(ばし)
くる人多き 筑摩(つかま)の湯
月の名に立つ 姨捨山(おばすてやま)
しるき名所と 風雅士(みやびお)が
詩歌(しいか)に詠(よみ)てぞ 伝えたる
5 旭(あさひ)将軍 義(よし)仲(なか)も
仁科(にしな)の五郎信(のぶ)盛(もり)も
春(しゅん)台(だい)太宰(だざい)先生も
象山(ぞうざん)佐久間(さくま)先生も
皆此(この)国の人にして
文武(ぶんぶ)の誉(ほまれ)たぐいなく
山と聳(そび)えて 世に仰ぎ
川と流れて 名は尽(つき)ず
6 吾妻(あずま)はやとし 日本(やまと)武(たけ)
嘆(なげ)き給(たま)いし 碓氷山(うすいやま)
穿(うが)つ隧(トン)道(ネル) 二十六
夢にもこゆる 汽車の道
みち一筋(ひとすじ)に 学びなば
昔の人にや 劣(おと)るべき
古来(こらい)山河(さんが)の 秀(ひい)でたる
国は偉人の ある習(なら)い
[加除修正]
2013/6/7 誤字脱字転換ミスの訂正と本文の加除修正を行った.
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/058e73ce635fdd9d2b44a9e140f189ee
「中山道六十九宿」第6回目の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d07a6d75e3b121bf37c6d9c3f955e08d
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/99d39f1a8c4dc15d2b63a04e942a28c2
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
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