難波津 2013-09-07 17:58:06 | 古代史 私の小学校の校歌には「咲くやこの花、難波津の♪」という歌詞がありました この難波津の場所にはいろいろ説があり、近年は日下雅義さんの高麗橋説が有力です 日下さんは地道な現地調査を基に、考古学や歴史学を総動員して 古代景観を復元し、通説を覆してきました。文庫本「地形からみた歴史」には感心します 上の図は弥生時代の大阪、日下説です。難波潟には淀川と大和川が流れ込み、 上町台地の海側には3つの帯状の沿岸州(バリアー)が伸びている このころの津は住吉大社あたりだったようです 日下さんによる、6~7世紀の大阪。見れば見るほど深い図です。 難波宮から難波大道が南北に伸び、河内飛鳥から住吉津への大津道が東西に交差、 古市と百舌鳥の古墳群をつなぐ丹比道(たじひみち)が丘陵地帯を横断。 淀川は放出(はなてん)から、大和川は平野川などに分かれて河内湖に流入してます 天満砂州には、難波の堀江が開削されてます。現在の大川です。 難波津は南北のラグーンあたり、現在の高麗橋あたりという説です。 東横堀川は豊臣秀吉の命により開削されたらしいですが、 低いところを掘るはずで、東横堀川のあたりがラグーンの跡と考えるのが自然です。 という訳で、難波津の跡、東横堀川に沿って歩いてみました。 現在の高麗橋です。名前の由来は 高麗館(こまのむろつみ)」があったからという説があります 大手橋、ガス灯な感じです 本町橋 農人橋、 東横堀川はまだまだ続きますが、今日はここまで