この難波津の場所にはいろいろ説があり、近年は日下雅義さんの高麗橋説が有力です
日下さんは地道な現地調査を基に、考古学や歴史学を総動員して
古代景観を復元し、通説を覆してきました。文庫本「地形からみた歴史」には感心します
上の図は弥生時代の大阪、日下説です。難波潟には淀川と大和川が流れ込み、
上町台地の海側には3つの帯状の沿岸州(バリアー)が伸びている
このころの津は住吉大社あたりだったようです
日下さんによる、6~7世紀の大阪。見れば見るほど深い図です。
難波宮から難波大道が南北に伸び、河内飛鳥から住吉津への大津道が東西に交差、
古市と百舌鳥の古墳群をつなぐ丹比道(たじひみち)が丘陵地帯を横断。
淀川は放出(はなてん)から、大和川は平野川などに分かれて河内湖に流入してます
天満砂州には、難波の堀江が開削されてます。現在の大川です。
難波津は南北のラグーンあたり、現在の高麗橋あたりという説です。
東横堀川は豊臣秀吉の命により開削されたらしいですが、
低いところを掘るはずで、東横堀川のあたりがラグーンの跡と考えるのが自然です。
という訳で、難波津の跡、東横堀川に沿って歩いてみました。
現在の高麗橋です。名前の由来は
高麗館(こまのむろつみ)」があったからという説があります
大手橋、ガス灯な感じです
本町橋
農人橋、
東横堀川はまだまだ続きますが、今日はここまで
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