図書館で借りていたく感動したので手に入れた次第。 アマゾンへリンク →★
地味な表紙に反して、うっかりするととんでもな内容になりかねないタイトルがスリリングだったりする。
今や人類の起源がアフリカだという説は流布したと思うが、では我々現生人類がどのようなルートを辿って今に至るのか、という疑問がエキサイティングでないわけがない。
過去についてどのようなアプローチがあるのかというと、そりゃ化石でしょうが、そうそう出てくるものでもない。その代わり、今生きている我々のDNAを調べると過去を推理することができる、というのが根っこにあるのだ。どうして今を調べて昔が分かるのか?その手法や理論は易しいものではないが、そこから導き出される話がまあ面白いこと。
研究は進む。最初はミトコンドリアDNA配列を部分的にしか決定できなかったものが、ミトコンドリアではなくヒト細胞のDNA配列をすべて読めるようなところまで来たのだから。ましてや化石からDNAを取り出して読んだ、となるとそりゃワクワクするね。
シベリアや新大陸に最初に到達したと思われる集団の起源など知らなかったことばかりである。ユーラシア大陸の東西交流はシルクロード以前からのようだし、ヨーロッパの集団の成り立ちは思った以上に複雑なようだし、ヒトは大昔からずいぶんダイナミックに移動している。おもしろいなあ。
しかし借りたこの本を読んだ後あえて手に入れて読み返したい、と思ったのはそれだけではない。
考え方の枠、とでもいうのか、なんとなくそういうもんだという風に思わされているところにちゃんと意識を向けてそこに疑問を呈しそこに潜む問題点を明らかにし、前提を新たにくっきりとさせた上で論を組み立てるところに、くらっと来たのだ。
例えば、人類の進化のスタート地点をチンパンジーとの分岐点に定めるのはなぜか? という問い。
「人種」というトラブルの原因になりかねないものをどう扱うのか、しっかり表明してあるくだりを読むと、なるほどなあと納得する。
先住民が残っている場合、遺骨の研究は時として「墓暴き」ととられることもある。それを篠田氏はどう考えるのか、というところもなるほどと思った。
それぞれの集団の間に優劣はない、というはなしは、ジャレド・ダイアモンド『文庫 銃・病原菌・鉄』で知ってびっくりしたのだが、それと同様なことも書いてあった。
62p.
「文化の違いは、アフリカを出た後の環境要因や歴史的な経緯がその基礎を作り、それぞれの集団による選択と方向性の違いによって産み出されました。人間社会の多様性の源は、知能の能力の差ではなく、その社会が何を優先するのか、環境にどのように適応するのかにあったのです。」
これは声を大にして言いたい。
とにかくいろいろなレベルで面倒なものを呼び込みそうなこの研究をニュートラルに保つのは相当な覚悟と自制心がいるなあ、と思ったんである。
あ、タイトルにある「日本人」はどうなのか? うん、複雑だな。
さっきあげた、チンパンジーとの分岐をスタートに、という話と同様、スタート地点の定め方の問題を指摘していた。
130p.
「旧石器時代にさまざまな経路で日本列島に流入したはずの人びとが、その後の縄文時代までに融合して均一の集団となることを仮定したために、日本人の形成プロセスが縄文時代以降を説明するシナリオになっています。」
そして、131p.
「なぜ私たちは無条件に均一化を受け入れたのかということを考えておく必要があるようにも思えます。そこにはアプリオリに単一な日本という概念を受け入れるという偏見が含まれているようにも感じるからです。」
この分野の研究は目が離せない。