今年で68回目となる会津まつり。
毎年全国各地の会津ゆかりの地からご参加いただき、
皆さまにお楽しみ頂いておりましたが、
今年は感染症拡大防止の観点から、規模を縮小し、
例年とは、異なる形で開催する事となりました。
本来、
戊辰戦争に散った《先人への鎮魂と感謝》
そして、秩父宮勢津子妃殿下のご成婚により
会津藩の復権がかなった《祝いと喜び》を
まつりの根幹に据え、
永く後世に伝えていくべき
と、数年前にまつりの方向性を検討する委員会での提言がありました。
今年の会津まつりは、この提言を基に
根本に帰ろうっていう催しとなるようです。
まつりの基本理念を受け継ぐ、先人感謝祭を継続し
更に
今年も綾瀬はるかさんらによるトークショー
戦国武将 蒲生氏郷公 入府430年を記念した歴史講演など、多彩な催しを計画しております。
全国で地域に根ざしたお祭りが、中止となる今年、胸に燃やす志はどなたも消えてはいません。
地域地域の取り組みは、感染症には負けない❗️ですよね!
会津では先の戦争といえば、太平洋戦争ではなく、戊辰戦争を指すと聞いたことがあります。それ程、戊辰戦争の敗北が会津に与えた影響には、甚大なものがあったのでしょう。
薩長が目指したものは、新政府樹立のためには、京都守護職を勤め新選組預かり役を拝命し、薩長の「勤皇派」を佐幕派の旗頭として徹底撲滅を計った「会津藩」は憎んでも余りある存在だったのでしょう。
会津をを打てばこの戦争は絶体勝てると方針を立てたのも仕方のないことだったのでしょう。
司馬遼太郎の小説「峠」では、次のようにきじゅつしています。
『新政府は、会津を討とうとしている。会津藩は内に戦備を整えつつ、京都に対してはひたすらに恭順を示し、陳謝し、八方に手を尽くし許されることを請うた。が、薩長は許さなかった。何がどうあっても会津を討つ。というのが、ゆずるべからざるほうしんであつた』
と。松平容保・会津藩の無念さが伝わってきます。
知ったかぶりの長いコメントになってしまいました。
会津の情報いつも楽しく拝読させていただいてます。
当地もようやく朝晩の秋めいた気配となりました。
私も余り詳しくはない会津の歴史ですが、
会津藩は『朝敵』との汚名を着せられ 戊辰後の斗南への移封など筆舌に尽くし難い辛苦を耐えてきたと聞きます。
会津藩の置かれた状況から、薩長からの倒幕の矢面に挙がるのは仕方ない事とおもいますが、会津の人間は、かの屈辱を忘れてはいないでしょう。(そう思うのはごく少数派になってるでしょうね)
先日 訪ねた只見の河井継之助記念館でも、ペイブメントさんが記述してくださった部分の司馬氏の『峠』を思い出しました。
余談ですが、実家の父は娘(私)の結婚相手に、薩長はいかん!と、聞かされて育ちました。
会津の情報も、なかなか発信出来ず ジレンマに陥っている、今日この頃です。
偏見と独断ですが、わたしも同感です。
討幕運動に走った薩長の下級武士たちは、
討幕の果てに、
明治のような社会が現れようとは思っていなかったのでしょう。
もう一藩、土佐藩を加えたいのですが、土佐には明治の自由民権運動の旗頭・板垣退助や後藤象二郎、ジョン万次郎、中江兆民、岩崎弥太郎など傑出した人物がいるので、除外しています。
(幕末・明治の歴史が好きな、後期高齢者です)