散策:谷中七福神めぐり(その2)
散策:谷中七福神めぐり(その1)からの続きです。
↓
地図3
↓
線路沿いを天王寺に向かう。
↓
14:00 「紅葉坂」の階段をを上り天王寺へ。
坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵坂」ともいったが、
その命名由来は不詳。
最下段にモミジが・・・
この花、人の顔に見えませんか?
↓
14:05 天王寺(谷中七福神の毘沙門天)
天王寺(天台宗)は、もと「感應寺尊重院」という日蓮宗寺院として、鎌倉時代に創建された本寺でしたが、
不受不施派(他宗派から施しを受けず、施しもしない)だったことから、幕府から邪宗として弾圧を受けて
天台宗に改宗させられ、 後に寺名も天王寺となった。
享保年間には富くじ興行が許可されたことで賑い、湯島天満宮、目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称さ
れるほどに賑わっていましたが、上野戦争では、当寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残
して堂宇を全て焼失、さらに昭和32年の放火心中事件で幸田露伴の小説、「五重塔」で知られていた「五重塔」
を焼失しました。
谷中七福神の毘沙門天が祀られている毘沙門堂は焼失した五重塔の残材で建てられたケヤキ造りとのこと。
↓
天王寺を出て、さくら通りを進み「五重塔跡」(こどものひろば)へ。
さくら通り(桜の季節はきれいなんだろうな・・・)
五重塔跡
火災前 火災 消火後
↓
さくら通りを交番の角で右折し、長安寺へ向かう。
↓
14:20 長安寺(谷中七福神の寿老人)
長安寺(臨済宗妙心寺派)は、老山和尚禅師(享保9年1724年寂)が開山、長安軒として安藤右京亮屋敷内に
創建、正徳2年(1712)大道山長安寺の寺号が認められ、当地に移転したといいます。
○寿老人像は、徳川家康の寄贈と言われている。
板碑
↓
14:25 長安寺を出て、観音寺の築地塀見ながら加納院へ。
江戸時代に築造された土と瓦を交互に積み重ねて作った土塀に屋根瓦をふいた珍しい塀。
↓
14:27 加納院(新義真言宗)
↓
14:30 蛍坂
この坂下は蛍沢といわれ、蛍の名所であった。そこからこの坂の名が付いたという。
↓
六阿弥陀道に出て、右折。
↓
14:35 岡倉天心宅跡(岡倉天心記念公園)
岡倉 天心(おかくら てんしん)は、日本の思想家、近代美術の先駆者(1862~1913)。東京美術学校校長。
のち,門弟横山大観・菱田春草らと日本美術院を創立。ボストン美術館の東洋部長となり,日本美術の紹介に
尽くした。 主著「茶の本」「日本の目覚め」「東洋の理想」
↓
六阿弥陀道を戻って立善寺へ
六阿弥陀道の道標
↓
14:45 立善寺(日蓮宗 )
↓
都道452号線に出て、右折(三崎坂)。
↓
14:50 大圓寺
大円寺(日蓮宗)の創建年代等は不詳ながら、大円院日梗聖人が開基となり創建、上野清水門脇から当地へ
移転したといいます。
○瘡守稲荷は、疱瘡、皮膚病を治す御利益で知られる。
○境内に文学博士笹川臨風の「錦絵開祖鈴木晴信碑」、永井荷風の「笠森阿仙之碑」がある。
お仙は、笠森稲荷神社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はお仙の姿を、
当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。
錦絵開祖鈴木晴信碑 笠森阿仙之碑
↓
15:00 乱歩°
猫のモチーフが印象的な古びた喫茶店。千駄木駅から地上に出た場所にある団子坂はミステリーの
巨匠・江戸川乱歩の小説の舞台となった場所で、乱歩好きがこうじて店名にしているらしいが、店内
には乱歩グッズはほとんど無く、代わりにネコグッズで溢れているそうです。今は、乱歩がどうこう
というより、猫が好きで好きで仕方がないようです。店内は一種怪奇的な雰囲気だそうです。
(残念ながら本日休業)
↓
いせ辰
↓
都道452号線を渡り、三崎(さんさき)坂を見て、谷中小学校の横の道を三浦坂に向かう。
坂の名の由来:駒込、田端、谷中の3つの高台に由来すると言われている。
この坂は、この付近に住む僧侶が首を振りながらこの坂を歩いたことから「首振り坂」の別名がある。
↓
地図4
↓
15:15 三浦坂
三浦志摩守下屋敷の前で根津方面へ下る坂だったため「三浦坂」と呼ばれていた。
○ねんねこ家
ねんねこ家は飼い猫のいる古民家の自宅を開放する【レストラン・カフェ】で、気まぐれな猫が接客をするらしい。
「猫待ちカフェ」と自笑されている。
(残念!休業日でした。営業日:木・金・土・日曜、祝日。午前11時から午後6時)
↓
15:25 蓮華寺(日蓮宗)
古来より赤門寺として、また谷中六十三除・虫封の寺としても有名である。
↓
15:27 延寿寺日荷堂(日蓮宗)
○日荷堂の絵馬
日荷は日蓮の高弟で自ら造立したニ躰の仁王像を背負い、一昼夜のうちに身延山久遠寺に運び上げ、
山門に安置したと伝えられます。日荷堂の絵馬は、仁王像を背負い、六浦から身延山までの険しい道
を歩いた日荷の健脚にちなんで、足病平癒の祈願のために奉納されたものです。
↓
みかどパン
店の横にある大きなヒマラヤ杉が絶景の撮影スポットになっている。
↓
15:30 妙行寺(日蓮宗)
↓
15:33 妙福寺(日蓮宗)
↓
15:35 妙泉寺(法華宗本門流)
↓
15:37 佛心寺(日蓮宗)
↓
言問通りに出て、谷中六丁目の信号の角の一乗寺へ
↓
15:39 一乗寺(日蓮宗)
↓
言問通りを渡り、一乗寺の斜め左の道に入り、突き当りが護国院。
↓
15:45 護国院(谷中七福神の大黒天)
護国院(天台宗)は、天海の弟子生順が、釈迦堂の別当寺として開創した。延宝8年(1680)四代将軍家綱霊廟
建立のため西方へ移転し、さらに、宝永6年(1709)現在地に五代将軍綱吉霊廟の建立のため移った。
○釈迦堂
現存する本堂は釈迦堂とも呼ばれ、享保7年(1722)3月の再建。唐様の建築で中央奥の須弥壇に本尊釈迦
三尊坐像を安置する。天海僧正が足利氏以来騒乱が続き、戦死者の多く、その菩提を弔うために建てたと
いわれる。後に寛永寺建立に因り、護國院内に移した。
○大黒天画像
大黒天画像は三代将軍家光から贈られたものと伝え、谷中七福神のひとつとして信仰をあつめている。
○庫裡
庫裡の一階部分は、昭和2年の新築。東京美術学校(現、東京藝術大学美術学部)教授岡田信一郎の設計で、
昭和初期の住宅建築の風潮を良く伝えており、平成13年国登録有形文化財に指定された。 岡田は、旧鳩山
市郎邸・歌舞伎座等を手がけ、和風建築の設計に手腕を発揮した人物である。
本堂(釈迦堂) 庫裡? 楽堂
↓
地図5
↓
15:55 護国院を出て左方向に道なりに進み、清水坂へ
坂近くに弘法大師にちなむ清泉が湧いていたことから名づけられたという。
かっては樹木繁茂し昼でも暗く、「暗闇坂」ともいう。
↓
16:00 「森鴎外居住の跡」を経由して不忍池へ
不忍池
↓
16:15 不忍池辯天堂(谷中七福神の弁財天)
弁天堂は、寛永寺の伽藍の一つで、天海僧正が寛永寺を創建したときに、竜泉弁天院を開基した備中松山城主
の水谷伊勢守勝隆とはかり、比叡山の近江の竹生島になぞらえて、不忍池の中に中島を築いて、弁財天をまつっ
たのが、このお堂だと伝えられている。
○八臂大弁財天
弁天堂に祀られている弁財天は、長寿、福得の神として広く信仰を集め、音曲の神としても有名である。
○不忍池
弁天堂を配した不忍池の風致は江戸の昔から万人の愛する所であり、大正末期には参道の中程に華麗な
竜宮門ができ、池の中の竜宮城を思わせたが、昭和20年3月の空襲により焼失してしまった。昭和33年、
本堂を再建した。池の四方八方から見られるようにと八角形のお堂にしたといわれる
弁天堂
八臂大弁財天 大黒天堂
↓
上野恩賜公園の中を上野駅に向かう。
↓
月の松
寛永寺 清水観音堂の「月の松」は、江戸の名所を描いた歌川広重の連作浮世絵シリーズ「名所江戸百景」に
「上野山内月のまつ」「上野清水堂不忍ノ池」の2枚に描かれている。
明治初期の台風で「月の松」は消失したが、2012年12月に復活した。
上野山内月のまつ 上野清水堂不忍ノ池
↓
稲荷坂
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花園稲荷神社(祭神:倉稲魂命)
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16:45 上野駅(JR、京成)
雲行きが怪しく、休憩もとらず歩きどうしだった。疲れたーーー。
散策:谷中七福神めぐり(その1)からの続きです。
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地図3
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線路沿いを天王寺に向かう。
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14:00 「紅葉坂」の階段をを上り天王寺へ。
坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵坂」ともいったが、
その命名由来は不詳。
最下段にモミジが・・・
この花、人の顔に見えませんか?
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14:05 天王寺(谷中七福神の毘沙門天)
天王寺(天台宗)は、もと「感應寺尊重院」という日蓮宗寺院として、鎌倉時代に創建された本寺でしたが、
不受不施派(他宗派から施しを受けず、施しもしない)だったことから、幕府から邪宗として弾圧を受けて
天台宗に改宗させられ、 後に寺名も天王寺となった。
享保年間には富くじ興行が許可されたことで賑い、湯島天満宮、目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称さ
れるほどに賑わっていましたが、上野戦争では、当寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残
して堂宇を全て焼失、さらに昭和32年の放火心中事件で幸田露伴の小説、「五重塔」で知られていた「五重塔」
を焼失しました。
谷中七福神の毘沙門天が祀られている毘沙門堂は焼失した五重塔の残材で建てられたケヤキ造りとのこと。
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天王寺を出て、さくら通りを進み「五重塔跡」(こどものひろば)へ。
さくら通り(桜の季節はきれいなんだろうな・・・)
五重塔跡
火災前 火災 消火後
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さくら通りを交番の角で右折し、長安寺へ向かう。
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14:20 長安寺(谷中七福神の寿老人)
長安寺(臨済宗妙心寺派)は、老山和尚禅師(享保9年1724年寂)が開山、長安軒として安藤右京亮屋敷内に
創建、正徳2年(1712)大道山長安寺の寺号が認められ、当地に移転したといいます。
○寿老人像は、徳川家康の寄贈と言われている。
板碑
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14:25 長安寺を出て、観音寺の築地塀見ながら加納院へ。
江戸時代に築造された土と瓦を交互に積み重ねて作った土塀に屋根瓦をふいた珍しい塀。
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14:27 加納院(新義真言宗)
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14:30 蛍坂
この坂下は蛍沢といわれ、蛍の名所であった。そこからこの坂の名が付いたという。
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六阿弥陀道に出て、右折。
↓
14:35 岡倉天心宅跡(岡倉天心記念公園)
岡倉 天心(おかくら てんしん)は、日本の思想家、近代美術の先駆者(1862~1913)。東京美術学校校長。
のち,門弟横山大観・菱田春草らと日本美術院を創立。ボストン美術館の東洋部長となり,日本美術の紹介に
尽くした。 主著「茶の本」「日本の目覚め」「東洋の理想」
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六阿弥陀道を戻って立善寺へ
六阿弥陀道の道標
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14:45 立善寺(日蓮宗 )
↓
都道452号線に出て、右折(三崎坂)。
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14:50 大圓寺
大円寺(日蓮宗)の創建年代等は不詳ながら、大円院日梗聖人が開基となり創建、上野清水門脇から当地へ
移転したといいます。
○瘡守稲荷は、疱瘡、皮膚病を治す御利益で知られる。
○境内に文学博士笹川臨風の「錦絵開祖鈴木晴信碑」、永井荷風の「笠森阿仙之碑」がある。
お仙は、笠森稲荷神社前の茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸の三美人の一人。絵師鈴木春信はお仙の姿を、
当時全く新しい絵画様式である多色刷り版画「錦絵」に描いた。
錦絵開祖鈴木晴信碑 笠森阿仙之碑
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15:00 乱歩°
猫のモチーフが印象的な古びた喫茶店。千駄木駅から地上に出た場所にある団子坂はミステリーの
巨匠・江戸川乱歩の小説の舞台となった場所で、乱歩好きがこうじて店名にしているらしいが、店内
には乱歩グッズはほとんど無く、代わりにネコグッズで溢れているそうです。今は、乱歩がどうこう
というより、猫が好きで好きで仕方がないようです。店内は一種怪奇的な雰囲気だそうです。
(残念ながら本日休業)
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いせ辰
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都道452号線を渡り、三崎(さんさき)坂を見て、谷中小学校の横の道を三浦坂に向かう。
坂の名の由来:駒込、田端、谷中の3つの高台に由来すると言われている。
この坂は、この付近に住む僧侶が首を振りながらこの坂を歩いたことから「首振り坂」の別名がある。
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地図4
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15:15 三浦坂
三浦志摩守下屋敷の前で根津方面へ下る坂だったため「三浦坂」と呼ばれていた。
○ねんねこ家
ねんねこ家は飼い猫のいる古民家の自宅を開放する【レストラン・カフェ】で、気まぐれな猫が接客をするらしい。
「猫待ちカフェ」と自笑されている。
(残念!休業日でした。営業日:木・金・土・日曜、祝日。午前11時から午後6時)
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15:25 蓮華寺(日蓮宗)
古来より赤門寺として、また谷中六十三除・虫封の寺としても有名である。
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15:27 延寿寺日荷堂(日蓮宗)
○日荷堂の絵馬
日荷は日蓮の高弟で自ら造立したニ躰の仁王像を背負い、一昼夜のうちに身延山久遠寺に運び上げ、
山門に安置したと伝えられます。日荷堂の絵馬は、仁王像を背負い、六浦から身延山までの険しい道
を歩いた日荷の健脚にちなんで、足病平癒の祈願のために奉納されたものです。
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みかどパン
店の横にある大きなヒマラヤ杉が絶景の撮影スポットになっている。
↓
15:30 妙行寺(日蓮宗)
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15:33 妙福寺(日蓮宗)
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15:35 妙泉寺(法華宗本門流)
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15:37 佛心寺(日蓮宗)
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言問通りに出て、谷中六丁目の信号の角の一乗寺へ
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15:39 一乗寺(日蓮宗)
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言問通りを渡り、一乗寺の斜め左の道に入り、突き当りが護国院。
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15:45 護国院(谷中七福神の大黒天)
護国院(天台宗)は、天海の弟子生順が、釈迦堂の別当寺として開創した。延宝8年(1680)四代将軍家綱霊廟
建立のため西方へ移転し、さらに、宝永6年(1709)現在地に五代将軍綱吉霊廟の建立のため移った。
○釈迦堂
現存する本堂は釈迦堂とも呼ばれ、享保7年(1722)3月の再建。唐様の建築で中央奥の須弥壇に本尊釈迦
三尊坐像を安置する。天海僧正が足利氏以来騒乱が続き、戦死者の多く、その菩提を弔うために建てたと
いわれる。後に寛永寺建立に因り、護國院内に移した。
○大黒天画像
大黒天画像は三代将軍家光から贈られたものと伝え、谷中七福神のひとつとして信仰をあつめている。
○庫裡
庫裡の一階部分は、昭和2年の新築。東京美術学校(現、東京藝術大学美術学部)教授岡田信一郎の設計で、
昭和初期の住宅建築の風潮を良く伝えており、平成13年国登録有形文化財に指定された。 岡田は、旧鳩山
市郎邸・歌舞伎座等を手がけ、和風建築の設計に手腕を発揮した人物である。
本堂(釈迦堂) 庫裡? 楽堂
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地図5
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15:55 護国院を出て左方向に道なりに進み、清水坂へ
坂近くに弘法大師にちなむ清泉が湧いていたことから名づけられたという。
かっては樹木繁茂し昼でも暗く、「暗闇坂」ともいう。
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16:00 「森鴎外居住の跡」を経由して不忍池へ
不忍池
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16:15 不忍池辯天堂(谷中七福神の弁財天)
弁天堂は、寛永寺の伽藍の一つで、天海僧正が寛永寺を創建したときに、竜泉弁天院を開基した備中松山城主
の水谷伊勢守勝隆とはかり、比叡山の近江の竹生島になぞらえて、不忍池の中に中島を築いて、弁財天をまつっ
たのが、このお堂だと伝えられている。
○八臂大弁財天
弁天堂に祀られている弁財天は、長寿、福得の神として広く信仰を集め、音曲の神としても有名である。
○不忍池
弁天堂を配した不忍池の風致は江戸の昔から万人の愛する所であり、大正末期には参道の中程に華麗な
竜宮門ができ、池の中の竜宮城を思わせたが、昭和20年3月の空襲により焼失してしまった。昭和33年、
本堂を再建した。池の四方八方から見られるようにと八角形のお堂にしたといわれる
弁天堂
八臂大弁財天 大黒天堂
↓
上野恩賜公園の中を上野駅に向かう。
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月の松
寛永寺 清水観音堂の「月の松」は、江戸の名所を描いた歌川広重の連作浮世絵シリーズ「名所江戸百景」に
「上野山内月のまつ」「上野清水堂不忍ノ池」の2枚に描かれている。
明治初期の台風で「月の松」は消失したが、2012年12月に復活した。
上野山内月のまつ 上野清水堂不忍ノ池
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稲荷坂
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花園稲荷神社(祭神:倉稲魂命)
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16:45 上野駅(JR、京成)
雲行きが怪しく、休憩もとらず歩きどうしだった。疲れたーーー。