『詩想の画家ジョルジョーネ』より。
以前、『一枚の絵画と詩』で、「嵐・テンペスタ」を紹介しましたが、今回、『詩想の画家ジョルジョーネ』辻茂 著を読み、一枚の絵画『嵐』について改めて・・・・。『一枚の絵画と詩』ですが、殆ど、実際に原画を見たことがない私ですが、印刷による一枚の絵画ではありますが、それぞれ一枚の絵画から言葉にならない詩的なおもいを受け取る私です。
『詩想の画家ジョルジョーネ』辻茂 著より。
――深く、言い知れず微妙で多様な緑。その緑に塗りこめられた木立を背にして、まず明るく浮び上がるのは、蹲る女性の裸形であり、この光源からひそかに発する一箭は彼女自身の視線であった。それに呼応して、低く垂れこめた雨雲を引き裂く、微かだが鋭い閃光。その下の流水や家並みに、そして梢にも、裸形にも、細微な筆先から滴り鏤められて、貴石にも喩えられる精妙な光の粒。その光の透明の海の底に沈んでいるのは、メランコリックで、華麗さを含んだ男の像である。これらすべての、みずみずしい青春の息吹きと、同時に熟成した銘酒の芳香を思わせる感覚的陶酔が、私を捉えた主なものであったが、あわせて私を虜にしたのは、この絵の人影と人影、人影と自然のあいだの配置が生む、謎めいた趣であった。
まことに、惹きこまれる不思議な一枚の絵画『嵐』です。
続けて、辻茂さんは、『嵐』の構造として。《風景画的要因》《風俗画的要因》≪人物画的要因》《アルカディア的要因》として分析しているのですが、その本質として、アルカディア的(甘美なユートピアの空想あるいは追憶)として規定できるであろうこの詩的精神こそ、この絵の風景や人物のモティーフに作用して、それらを実写以上のもの、すなわちアルカディア的で象徴的な風景と人物たらしめているものである。
それは、いわば、ジョルジョーネの個我を中心に据えての世界にかかわるものであり、起ったこと、すなわち、ストーリア(物語)の表現ではなくて、起きるであろうことの表現、すなわちポエージア(詩)に属するものであったろう。オウィデウスやウェルギリウスらの古代の詩人に教えられ、同時代にもサンナザーロらの唱った<アルカディア>こそ、ヴェネツィアで<詩画>ポエジーエと呼ぶのが習いとなっていた絵画の、内容としていたものであるが、このジョルジョーネの「嵐」は、それに含められるべき一例であり、同時に、自然と女性―および母性―についての、ジョルジョーネ自身の、ほとんど個人的な象徴性に彩られた「愛」の詩的寓意であったのだと考えられると・・・・。
改めて一枚の絵画『ジョルジョーネ作『嵐』です。