『ヴィーナスについて』
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ヌードとは、「裸」という意味でもありますが、日本のヌードの歴史として、戦後の1951年、東京の三宅坂に初めて女性の裸婦像(平和の群像)が設置された。以降、第二次世界大戦以前に金属供出で減少した銅像を埋める存在として、女性の裸体像が増加していった。このため男性の裸体像よりも女性の裸体像が多い状況が生み出された。しかし21世紀の日本では、裸婦像を公共の場から撤去する動きも見られていると。
私はヌードというと、画家ボッティチェリが描いた『ヴィーナスの誕生』やモディリアーニが描いた『横たわる裸婦』などを思い浮べます。でも、実際の裸というと幼い子供と一緒にお風呂に入ったときとか、今となっては、鏡の前の自分の裸を見るぐらいですが。私は若かった頃、絵画の講習会で女性をモデルにヌードをスケッチしたことがありました。
そう、ヌードというと、性的関心、エロチシズムという言葉が連想されたりしますが、次のような言葉には、ハッとした私です。
あなた自身の心を見つめてごらん!
あなたは本当の女よりもポルノ写真のほうに興味を持つ
写真は人間の心をすさまじい力でつかむ
人間は虚構の中に生きているのだ
よく考えると「ポルノ写真」や、芸術的な「ヌード写真」にしろ、虚構の世界の話であり、現実のリアリティーにはかなわないのですが・・・・。
『ヌード写真の見方』飯沢耕太郎著より。
写真術の発明とほぼ同時に撮影されはじめた初期のヌードには不思議な魅力と輝きがある。写真家たちは、はじめて手にした写真機を通して裸体に向いあっている。写真家にもモデルにもある種の緊張と恥じらいがあり、今まで目にしたことがない写真映像の出現に対する驚きが共有されている。何よりも初期の写真術によって撮影されたヌードには、絵画にない、いきいきとした存在感がある。そこに写し出されている女性は、ギリシャ神話や聖書の登場人物ではなく、まさに同時代に生きる、固有の名前と顔を持った生身の女性なのである。
シュールレアリストたちにとって、エロチシズムとは現実世界に深くとらわれた常識的な思考法を破壊し、未知の世界へ踏み込むための橋わたしをする感覚であった。その意味でヌードは彼らの純粋な欲望と自由を象徴するものだったのである。このような考え方は写真家たちに受け継がれる。とりわけビル・ブラントのような写真家にとっては、ヌードは何よりもエロティックな感受性の産物だったように思われると。
シュールとかエロチシズムとか抽象的な言葉が出てきて、頭のなかが少し混乱してしまいますが・・・・。
人は時に、頭のなかの妄想(空想)の世界におもいをはせ、現実の世界から離れてしまうことがあるのですが、現実と仮想現実との健全な往復運動というものは何よりも必要であり、そうでなければ精神的な健康を保つことはできないということも確かなのです。
芸術とは、その仮想と現実の健全な往復運動によって成り立っているのですから。
・次回に続く・・・。