私が超心理という言葉に出会ったのは、本山博先生が設立した「国際宗教・超心理学会」に於いてでした。心理という言葉は知っていましたが心理の上に超がつく超心理って何を言うのかなと。また、超心理学会の前に国際宗教という言葉があり、宗教と超心理は密接な関係にあるのだと。
宗教とは何か、検索してみると、宗教は、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである、とありました。
私がその、宗教と超心理の国際的研究と実践である、IARP(国際宗教・超心理学会)の会員であったのは、1978年から2003年の25年間でした。
そのIARPの目的として、
人類の歴史と共に古い世界の宗教の歴史には、過去何千年来、究極的存在や聖なるものに関するさまざまな宗教体験、神秘体験、あるいは奇跡に関する超常的現象が伝えられている。それは宗教が生まれてくる母胎だったといえる。われわれは、真の信仰と理性は一致するものであることを信じ、このような超常的宗教現象について学問的に研究することを目的とする。
われわれの目的はまず、超常的な宗教的諸現象について、超心理学・深層心理学。医学・生理学その他の実践的科学の方法によって研究する道をひらくことである。さらに、そういう宗教現象が人間の本性に対してどのような思想的意義をもつものであるかということを、哲学・倫理学・比較宗教学などの立場から研究して、将来の世界に要求される思想的諸原則を求めてゆくことである。
同時にまたわれわれが、現実生活の中で自己の実践を通じて、よりよき人生と世界を建設してゆくための実際的方法を組織してゆくことを目指す。
とあります。
IARPの会員であった私は、その実践ということで、瞑想ヨーガ(クンダリニヨガ)を学び、今は会員ではないのですが、そのIARPにおける瞑想との出会いが、今の自分をもたらしているのであり、これからも、日々の瞑想は欠かせないものとなっています。
実際、一方の科学的研究というと、IARP機関誌や会報などから知るのみですが、それら諸先生による記事は、いつ読んでも教えられることばかりです。そんな、貴重なIARPの記事を、私なりに紹介していけたらなと・・・・。
『宗教と超心理と』 1
『情報環境の光と影―たまごっちの心理学―』小田晋(宗教と超心理 1998年)より、抜粋です。
最近はむしろ何かマニアのことを「おたく」といっているのですが、「おたく」という元の意味は「君・僕」という一人称が使えない人達のことなのです。
さて、バーチャルリアリティと幻覚ということでありますが、幻覚というのは存在しない事柄に対する知覚です。
しかしながらバーチャルリアリティには功罪があるのでありまして、人間の心の健康と密接に関連がございます。ネガティブな側面ということですと、一つは「おたく感」の加速です。おたくが全部悪いというわけではありません。おたくをやたらに目の敵にするのも考えものです。今回の神戸市須磨区で起きた小学校6年生殺害事件の犯人も、それから東京・埼玉幼女殺害事件の宮崎勤被告人も、いずれも確かに対人関係はあまりよくなかった。内向的だった。現実の対人関係のかわりにビデオや、宮崎勤の場合は6千本にも及ぶビデオです。
神戸の事件の場合には、一つは、確かにこれは快楽殺人といいまして、自分の内部の性衝動や破壊衝動のもやもやが、特に思春期の影響で強化されていた。しかしそれが行動として突出する前は、その行動を教えるために多くの犯罪小説やホラービデオの影響があったことは確かのように思われます。しかしながら、基本的には、やはり彼の苦しい感情的な冷たさということに問題があります。
これは非常に素質的な、あるいは有機溶剤の使用のためか、あるいは精神病初期のためか、あるいは母親との関係の非常に深い障害に基づくところの感情的な影響なのか、そういうものが根の中にあるわけです。
おたくということは、一つには現実の対人関係が非常に貧しくなる。それからもう一つは、情報環境の中でもビデオゲームの中の殺人などというのは、人を殺している痛みや手ごたえがあまりないのです。そうしているうちに、人を殺す痛みや手ごたえがなくなって、痛みや手ごたえのない、疑似環境や仮想現実の中で殺人をリピートしている間にどんどんそれがふくらんでいって、行動に突出してしまということがあるような気がします。そればかりではなくて、一般的に対人関係が悪くなり、他人の痛みがわからなくなる、他人の感情が読みとれなくなるというような傾向はおたく化の加速によって生じるような気がしますし、もちろんバーチャルリアリティへの没入は現実からの逃避をもたらします。
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やはり本当はたまごっちを育てるよりも、ネコでもいいから自分で育てた方がいい。これはペット療法といいますが、それよりは自分の弟妹の世話をした方がいい。背中に自分の妹をくくりつけて子守をさせるというのが昔の家庭ですが、あれは決して悪くはない。弟妹の世話をさせる、あるいはお年寄りの世話を子供にさせる。そのことは、勉強、勉強といって子供を追い立てるよりも子供にとって一番いい情操教育であり、道徳教育である。
そして、確かに臭いかもしれないけれども、自分の家のお年寄りを自分の子供に、お祖母さんを孫に世話をさせる、そしてお祖母さんにやさしい言葉をかけてあげて、お祖母さんに「ありがとうよ」と言ってもらうことに生き甲斐を感じるというような教育を母親ができるためには、母親は実は親孝行なんていうのは古い、老親介護は社会保障でやるべきであって、そういうことを家庭の主婦に押し付けるのは間違いだ、社会進出の邪魔になるというようなことばかりを、今日の大新聞を見れば、言うも恐ろしいけれども、家庭欄を見ればそんなことばかり教えられますけれども、実はそういう価値観で育てられた今の三十代、四十代の女性たちの一部が、今の子供は皆が酒鬼薔薇聖斗じゃないけれども、ああいうものも生み出すような、つまりいじめに歯止めがかからないような子供たちを作りあげたのです。
以上のことから考えて、子供にとって一番いい教育は、たまごっちを育てさせることではない。自分の弟妹やお祖父さん、お祖母さんの世話をさせることです。肉体を使った直接の現実とのかかわり合いなくては、人間は情緒的には成長しない。
もちろんバーチャルリアリティ技術を使いこなすことは今後日本が技術的に、科学的に、あるいは経済的に世界と競争していく上に絶対必要で、しかもそのことによって彼の体験を拡充することができるのも確かなのです。
要するに、情報環境と現実環境の健全な往復運動なしには我々は健康であることはできません。そういう意味での情報環境とバーチャルリアリティの間の健全な往復運動を支えてきたのは、実はキリスト教でも仏教でもそうですが、高等宗教だったのです。そういう意味においては健全な宗教というものの役割というものはますます大きい。
人間はバーチャルリアリティなしには実は生きていけない生き物なのです。つまりそのリアリティの中にだけに生きているのは動物です。人間は疑似環境も存在するからこそ人間なのですが、しかしその中に溺れ込んでしまったら、現実の生活が貧しくなります。健全な往復運動というものが何よりも必要で、そうでなければ精神的な健康を保つことはできません。
幻覚の世界の中に没入してしまうのは、それこそ我々の言う精神障害の定義にすぎない。精神病の定義であるわけですからね。精神病にならないのに精神病がやるような行動をするような、そういうメンタリティをバーチャルリアリティは野放しにしておくことによって、我々は子供達に与えることになっているのかもしれないということを、実は幾つかの殺人おたくみたいな人間のやる犯罪によって、我々は痛いほど思い知らされたということになるのだろうと思います。
・以上、IARP機関誌『宗教と超心理』第42号よりのお話でしたが、本山博先生、小田晋先生とも今はいません。私の人生においてIARP国際宗教・超心理学会との出会いは宝物です。人間存在の本質について、宗教体験についてなど・・・・、いろいろと教えられました。これからも、読み継がれていかなくてはならない貴重な内容のお話ばかりだと思う私ですので、ときどき、紹介していけたらな・・・・。