koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

關西紀行-其之伍:天平の夢,平城の光弐・・・

2012年01月07日 15時47分31秒 | 旅行,および「鉄」

手前味噌で恐縮ですが,まずこちらをお読みいただけるとありがたいのです。
随分前に書いた雑文ですが,当時から暖めてきた平城の都への思いを組んでいただけたら幸甚です・・・。
今回の大和行は,こうした思い入れから始まりました・・・。


資料館からスタートして,第一次大極殿正殿→遺構展示館→東院庭園→朱雀門と平城宮跡を一周して資料館に戻り,元来た道を大和西大寺駅へ。
近鉄奈良まで2駅電車に乗り,バスで奈良公園へ。
日没の遅い西日本とはいえ,既に宵闇が迫っていましたので,鹿が寄ってくる中を急いで運慶・快慶作の金剛力士像で東大寺南大門をくぐり,大仏殿前を右へ。
二月堂を目指します。


以前に何度か述べましたが,若い頃からの京都でお気に入りの道というか街は,祇園→円山公園→高台寺門前(何故か「寧々の道」とか名前が付いており,人だらけでしたが・・・)→二年坂→産寧坂(三年坂)→清水坂→清水寺という東山ルートなのですが,ここ数年の関西行で奈良のお気に入りを見つけました。
春日大社→若草山→手向山八幡宮→東大寺三月堂→二月堂→大仏殿西というルートです。
若草山の麓には,謡曲「小鍛冶」にも出てくる三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか),手掻包永(てがいかねなが)といった代表的な大和鍛冶の店が軒を並べますが(こちらが分かりやすい),全く迂闊なことに若草山=三笠山であることを最近知りました。
そのあたりはこちらに詳しく載っていますが,どうやら,若草山と呼ぶようになったのは昭和10(1935)年の三笠宮家が誕生して以来だそうです。
昭和天皇の弟三笠宮崇仁親王が宮号を名乗ったので,それを踏みつけるのはうまくない・・・ということで,若草山になったとか・・・。
但し,三笠山=若草山は俗説で,上記リンクにある御蓋山→三笠山・・・というのが,本当・・・ということですが,果たしてどうなのでしょう。
平城宮跡から,歴史ボランティアの老人に教えられて見たところ,確かに三蓋山は何とか確認できました。
しかし,やはり古歌にも詠まれた三笠山という名称の方がしっくり来るような気がします・・・。


二月堂から大和平野の展望を楽しみ,その後大仏殿脇へと続く情緒ある石畳の道を下るのがお気に入りだったのですが,夕暮れ時の二月堂には誰も居ず,ゆっくりと宵闇迫る大和平野の夕映えと夜景を楽しむことができました。
もっと標高の高い三笠山の上からだったらもっと美しかったかもしれませんが,翌月に山焼きを控えたこの時期は,入山できないかもしれません・・・。
二月堂よりの大和平野夕景。中央は大仏殿。
光が徐々に・・・。仲麻呂や真成が思ったのは・・・。
右下の回廊を下ると石畳の道が・・・。
大仏殿の大伽藍の向こうに・・・・・

二月堂からの夕景を存分に楽しみつつも,異郷に果てた当時の遣唐使たちに思いを馳せます。
一説に生存率だか帰還率は30%とかいう話もあるようですので,文字通り命がけだったことは間違いありません。
607年に始まった(そして10数年で随が滅亡したので中止になった)遣隋使の最初の正使が小野妹子であったことは小学校の教科書にも載っていますが,では遣唐使のそれは誰だったのか,これは意外に知られていません。
私は受験勉強をしていた時代に,高校の日本史の教科書で知ったのですが,最後の遣隋使も勤めたという犬上御田鋤(いぬがみのみたすき)なる人物がそれです。
630年のことですから,聖徳太子が没して大化の改新との間ですから,蘇我氏の専制時代ということになります。
この一事からも,馬子-蝦夷-入鹿と続く蘇我氏を大化の改新の単なる悪役と決めつけるのは不当であると言えるのではないでしょうか・・・。


無念の思いで異郷に没した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)や井真成(いのまなり)といった人たちの心を過ぎったのは,きっと美しい平城の都への追想ではなかったか・・・,そんなことを思いながら暗い東大寺の参道を下りました・・・。
珍しい2ショット。こんながら空き(2便合わせて10数人??)で良いのか近鉄・・・。


帰途は,例年なら近鉄の特急料金500円を奮発して優雅に・・・となったのですが,今回は消耗が半端ではなかったので,どうせ寝ていくなら・・・ということで,ロングシートの急行で京都へ戻りました。
4人とも爆睡で京都到着に気づかず,駅員さんに起こしていただくというオチが・・・(笑)。
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