忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

友愛ピエロが踊るとき

2010年06月17日 | 過去記事

閉店後の「終礼」だった。瞬間、空気がざわめいた。が、下を向いてクスクスし始める者もいた。私がその「原因」となった御仁の顔をしげしげと芝居がかった表情で見つめるから、そのクスクスは横の者にも伝播し始めていた。何気ない、ま、ついでに意味もない挨拶の冒頭の一言だ。「阿呆とハサミは使いようと言いますが――――」

手前味噌ばかりで恐縮だが、30歳になったばかりの私の社内での評価はすこぶる悪かった。今思い出しても痛烈な上申書を提出したりしたから、古い体質のパチンコ屋でオイシイ思いをしている幹部連中には評判が悪かった。また、これは自慢だが、金もないのに「鷹は餓えても穂は摘まず」(腹が減って死ぬとしても不正は行わない)と偉そうに、ヤクザであろうが不正幹部であろうが「抱き込めない」というのも災いしていたのだが、しかし、まあ、世の中捨てたもんじゃない。見ている人は見ているわけで、再評価された私は持ち上げられ、今度は新人の幹部候補生の講習などを行うようになっていた。逆転現象である。

自分の勤務する店も社員の扱いは酷いもんだったが、それもすべて見直した。システムから変えた。ま、偉そうに言うほどのことではなく、私はこれを「穴埋め作業」とこっそり呼んでいたが、要するに人材の見直し、その配置を整えるということからやっただけだ。

機械が得意なものには修理だけでなく部品の管理も任せる。教えてから発注もやらせてみる。どこにでもいる「仕切り屋」さんにはもう、つべこべ言わずに仕切らせる。名称などはその都度、適したものを考えればいい。新人アルバイトが多ければ「新人育成トレーナー」いなければ「ハウスルール管理責任者」などだ。名刺も作ればいい。安いもんだ。

いまいち仕事に身が入らぬダラダラくんを「リーダー」に抜擢したりする。要するに自己評価の低さが気に入らんなら「名前だけ」でもつけて権限を先に渡せばいい。あとはこちらが管理するだけだ。フロアリーダーにアルバイトチーフにカウンター責任者にと、どんどんなんでもさせればいい。ま、やり過ぎて放置すると、組織内で権力のインフレーションを起して壊れる(笑)。正直、すまんかった。

ま、これが上手くいっている時の話だ。今はもう懐かしい「社長マン」が店長だった頃、全従業者を並べて放った言葉がこれだった。私の人材育成や人員配置による業務の効率化やモチベーションのアップ、さらには離職率の減少など、その日の店長会議で評価されたとのことだった。まったく悪気はない。悪気もないが頭もない。だから、満面のどや顔で「阿呆とハサミは使いようと言いますが――――」と始めた。こちらが呆気にとられるほどの馬鹿だった。全従業者の前で「お前らは阿呆かハサミのどちらかだ」とやったわけだ。この御仁の辞書には「適材適所」など書いてなかった。

少し前のここで「阿呆なトップは似るのだ」と書いた。
http://blog.goo.ne.jp/gatikome/e/a927518c9c740d1b91e68d007977e82c



ンで、やはり、そうらしい。

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100615/stt1006152025008-n1.htm
<「『裸踊り』をさせて下さったみなさん、有り難う」鳩山前首相ツイッターでネット騒然>

文脈を見る。私はついったーが出来ないので、産経新聞の記事から見る。

<「『新しい公共』が一人歩きを始めました。こんなに嬉しいことはありません」と書き出し、「私に『裸踊り』をさせて下さったみなさん、有り難うございました。その私に続いて『裸踊り』をしようと立ち上がって下さったみなさん、有り難う。この伝播力が必ず社会を大きく動かすでしょう>

断言してもいいが、これは皮肉でもなければ悪意もない。本当に、なんというか、登山の途中に見つけた清らかな湧水のような、清涼感ある自然の恵み溢れる天然素材の阿呆である。嵐山で散歩していると、ふと目に入った川の畔に咲く名も知らぬ花、この花は何故ここに咲いているの?なんていうお花なのかしら、ううん、知らなくてもいいの、でも、でもね、嗚呼ぁ、なんというか、これはずっと、これからもっずっと、こうなんだろうなぁ・・と清々しい気持ちで一句詠んでしまいそうな感じの阿呆である。

同級生が自転車のコマを外して乗り回し、中には「両手放し」とか「サドル立ち」などの大技を身に付けているとき、ひとりで靴が履けたら、すごい!ひとりで出来ましたね!!さすが!と育つとこうなる。「一握りの悪意」は教育だ。おい、同級生はみんな自転車に乗っているぞ!さあ!おまえもやってみろ!こけたくらいどした!泣くな!もう一度だ!という「悪意」は義務教育に含まれねばならない。その現実を教えることも教育なのだ。

誰もちゃんと教えないから、この子は63歳にもなって「裸踊り」の意味を知らない。だから先ほどの「阿呆とハサミ」と同じく、頭に浮かんだ言葉を躊躇なく無邪気に口から放り出す。これをボキャブラリーが乏しいことを原因とするならば、その程度のボキャブラリーであり続けて自覚しない傲慢こそが真因であるともいえる。「おかしいですよ」「それは違いますよ」と言われた回数が圧倒的に少ないのだろう、それはそのまま、その人物の「物差しの長さ」となる。鳩山由紀夫が大学の講演で「海外留学時代は仕送りが1億5千万円しかなかった」と言い間違えたのか冗談のつもりだったのかは知らんが、その後に「いや1千500万だったかな?」とすることを「苦労」だと、僕も苦学生だったんだとでも言いたげな「実例」として疑うことなく挙げることができるのもそういうことだ。

63歳のこの子の頭の中では、現地でアルバイトしながらホームステイして学校に通う者がいるなど「自分の物差し」で測りきれないから、それは映画の中、物語のような感覚しかない。「いま、日本のサラリーマンの平均年収は1千万円くらいですか?」と言ったなどという伝説もあるが、例えば、これが母親から12億6千万円も生前贈与を受けながら、臆することなく「知らなかったわけでありますから」と国会で言える非常識の正体である。また、周囲の普通の人と「この子」との動かし難い常識の乖離は、それこそ「恵まれた家庭に育った自分」と「普通の家庭に育った他の人」とは明確に一線を画する存在として切り捨てることもできる。すぐに瓦解する程度ではあるが、自分の頭の中だけでは常に都合よく組み立てられる論理なのである。

普通の人からすれば何でもないことでも、この子が自分で思いついたならば、それは画期的な発見であり、周囲があっと驚くレベルの一大事だと認識する。麻生さんがブレたブレたとマスコミに叩かれていたとき、鳩山由紀夫は得意満面、記者団に対して「麻生総理はブレ続けるという点では全くブレていませんよ、フフッ分かります?意味」と小粋な友愛ジョークを飛ばしたとされているが、これも自分の中だけでは「うわーすごいウマいこと思いついた―センスあるなーぼくって♪」となって言ったのかもしれない。「国というものがよくわからない」も「国益も大事だが地球益はもっと大事」などもそうだ。周りの大人が誰も止めないからだ。誰も突っ込まないからだ。だから、この子は大きくなってから、それも63歳になって総理大臣になって恥をかくことになる。

おそらく、この子は「裸踊り」を「恥を忍んで国のためにやったこと」だとでも考えているんだろう。自分は友愛のためにマスコミから叩かれ、国民からの支持率も下げて「まで」がんばったことが「禺直」であり、それはまるで「裸踊り」のようなことだったと言いたいのだろう。自分を「友愛のピエロ」だとでもいう自画自賛なんだろう。それでも誰かがまた「裸踊り」を引き継いでくれると酔っているのであろう。なんとも・・・





いや、マテよ、裸踊り・・・?も、もしや、裕福ではない家庭で育った私が知らない意味でもあるのかと思って調べてみた。もしこの裸踊りに深い意味が隠されていたら、私は大恥をかくではないか!なにやら不安になってきたのである。




と不安になってYahooの辞書を引いてみた。






・はだか‐おどり〔‐をどり〕【裸踊(り)】
・意味 裸でおどる踊り。





余計に不安になった。

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