忘憂之物

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はげなどと言われ…中学教諭、生徒16人に体罰

2013年02月02日 | 過去記事


はげなどと言われ…中学教諭、生徒16人に体罰

<神奈川県の小田原市教育委員会は2日、同市立中学校の50歳代の男性教諭が、2年生の男子生徒16人の頬を平手でたたく体罰をしたと発表した。

 発表によると、1日午後、男性教諭が授業に遅刻した生徒たちに教室へ入るよう呼びかけた際、数人が「うるせー、ばか、はげ、死ね」と暴言を吐いた。男性教諭は発言した生徒に名乗り出るよう求めたが、返事がなかったため、その場にいた生徒16人を廊下に正座させて頬を1回ずつたたいた。けがはなかった。

 男性教諭は直後に校長へ報告し、「過去にも暴言はあったが、今回は名乗り出ないことが許せなかった。体罰が報道されている中でこんなことをして申し訳ない」と話したという。同校は2日、体罰を受けた生徒と保護者に経緯を説明し、謝罪した>




新聞の紙面を見ると、一面からもう、ずっと「虐め」とか「体罰」の見出しが続く。流行だ。近頃はもう遠慮なしに「暴力」と書き始めている。「体罰と暴力は曖昧」を逆手に取った「体罰=暴力」が成功したようだ。「平手打ち」どころか、頭をぱちんと叩いたり軽く小突いたりしても「暴力」と看做される世の中になった。「体罰」の是非を問う前に、先ず、この風潮というか空気を不気味に感じる。

同時に流行っているのがスポーツ選手、それからその指導者などに「体罰を語らせる」ことだ。野球の桑田も柔道の山下も「ダメだと思う」と言っている。とりあえず反対論など出るわけはない。一流選手、あるいは一流の指導者が言うんだから、ほら、やっぱりとなる。

でも本当の「論点」は一点だけ。また、その前にアマチュアでもプロでもよろしいが、いわゆる「スポーツ」に括られる指導の中に存在する「暴力行為」と、相手が未成熟な子供に関する指導の範疇における「体罰」との峻別は必要不可欠。「ある一定の勢力」は意図的にコレを混同する。そしてそろそろ、その本性が透けて見えてきた。

元来、左巻きは「体育」が嫌い。同じ体操服を着させて教師の号令に従って整然と行動させる、まるで軍隊じゃないか、と馬鹿を言ってきた歴史がある。ここぞとばかりに北朝鮮のマスゲームを引き合いに出し、アレと同じじゃないか、と自虐も厭わない。アレは子供に小便にも行かせず練習させて、一糸乱れぬ統制によって北の独裁者馬鹿の顔やら北朝鮮のマークを作らせるから不気味なのであり、アレが校名とか地域の名物とか、まあ普通のモノだったら素晴らしいと評価してもいい。小学生がマスゲームで安倍総理の顔をつくるようなモノだ。そんなの日本でやったらヘンだろう。

京都新聞に「J2京都サンガFC」の祖母井GMのインタビュー記事があった。この人も流行に乗る。さっそく<桜宮高にしろ女子の柔道にしろ、手を出して威圧するような指導は欧州ではあり得ない>とか。それには証拠があって本人が10年間、ドイツにて教師の資格を取り、その後1年半をドイツで体育教師、サッカーチームの指導をやってきたから、ということだ。その際<学校の中で先生が生徒をたたくのを見たことがない>らしい。

先ず、嘘がある。このGMは知らないかもしれないが、欧州とはドイツだけではなく、例えば欧州連合にはイギリスという国がある。イギリスは体罰を法的に認めている。アメリカもそう。21の州ではこれが認められる。韓国もそう。このGMは調べてみるがいい。世界は結構、生徒をたたいている。

ちなみにイギリスは1989年に公立高における体罰を禁止した。これは私立にも広がり、仕舞いには「親の体罰もダメ」になった。今の日本と近い感覚だ。それでどうなったか。体罰禁止から17年後、2006年に教師と親が悲鳴をあげた。教師や親らは共同で最高裁判所に願い出て「体罰は回復させるべき」と訴えた。だって聖書にも「右の頬を打たれたら」と書いてある。それで「2006年教育法」ができた。言うことを聞かない子供はたたいていい、と国が認めた。

ただ、子供を叩く鞭とベルトは認可制になった。これは国が指定する基準を超えないもの、と明記される。それから8歳以下の児童に体罰は禁止。手の平を叩くなら3回を超えてはならない。男子学生の場合は尻を叩いても良いが6回は超えないこと。体罰は記録すること、などが定められた。

アメリカもアメリカらしく<教師が合理的な適度な武力で児童を処罰することができる>と定めた。やり方はアメリカ式の拷問ではなく、2尺を上回らない3.4センチの板で、学生のお尻を5回を超えない範囲で叩いてもよろしい、になった。このあと「プライベートな理由で叩いてはダメ」とか「意見が合わないからという理由で叩いてはダメ」などの注釈がつく。また、そのときの生徒の「性質、程度、性別、年齢、健康状況」を考慮して、とか続く。こういうのは普通、阿呆の国のことだとわかる。

韓国も2002年に「学校生活規定案」を策定。そこには生徒をレイプしてはいけない、ではなく、先ず、体罰を行う場合は理由を説明する。それから生徒の健康と精神状態を検査して、そこに学校管理者と生活指導教師を呼んでくる。そして直径1センチ、長さ50センチを上回らない棒を用意(高校生になるとちょっと威力が増して1.5センチ)。これでお尻を小学生なら5回を超えない回数、中学生以上なら10回を超えない回数で叩く。女子はふとももとする、とかになる。待っている間、子供は欠伸をするだろう。

なんでも決めてもらわないとやれないことを阿呆と言うが、この京都サンガのGMが自慢するドイツは2000年、たしかに「養育における有形力追放法」として体罰を禁止している。だからこのGMが<学校の中で先生が生徒をたたくのを見たことがない>は、日本に来て「痴漢を見たことがない」と言っているに等しい当たり前だとわかる。「見たことがない」と「ない」はイコールしない、と左巻きでも知っている。「南京大虐殺」も「従軍慰安婦」は「見たことがない」どころの話ではなく「証拠がない」から困っている。つまり、ドイツの教師は体罰がどうのこうのではなく、法律で禁止されているから(人が見ているところで)やらないだけだ。

我が孫の「そーちゃん」も今年から小学生だが、ドイツの子供も6歳になると「基礎学校」に行く。これが日本のように6年間、そのあと中学に3年間と義務教育が続くのではなく、4年間でお仕舞い。ドイツの子供は10歳になればギムナジウムに行くか、実科学校に行くか、基幹学校に行くか選ばねばならない。あっさり言うとギムナジウムは大学進学を目指す子供、実科学校は事務仕事や専門職の勉強、基幹学校は職人養成だ。

今の時代。職人とはいえハイテク分野になる。それならギムナジウムになるから、クラスの生徒の過半以上はそこを目指す。基幹学校に行くのは貧乏な子供、成績が残念な子供、それから移民になる。要するに激しい格差問題が生じている。基幹学校の荒廃は社会問題となり、生徒らの勉強に対する意欲は壊滅的。つまり、日本で言うところの「中卒」が10歳、小学校の4年生程度の義務教育レベルで社会に出てくる。日本のホームレスは朝日新聞を読めるが、ドイツの失業者の中には分数が出来ない、新聞の記事レベルの文章が読めない、が普通にいる。いまドイツではこの「三分岐型の教育制度」は深刻な問題となっている。昔の日本人に倣って、なんでもかんでも「欧州に倣え」は考えたほうがいい。

このGMはまた怪しげなことも付け加えている。<ドイツと日本は同じ第二次世界大戦の敗戦国。「体育」が強兵につながると考えられ、戦争に悪用された歴史を持っている>とか。そんなドイツは<体育を「スポーツ」に変えた>そうで<半面、日本は「体育」が残っていて、子どもは先生の独裁的な指導に黙って耐えている>と案じてみせる。

申し訳ないが、とても納得できない。いわゆる「体育」と「スポーツ教育」はまったく違う。このGMは例えば、自分が案じている桜宮高の事件をわかっていない。「体育」とは身体教育であり、学校で行われる授業であれ部活であれ、それはすべからく「身体における教育」なのである。桜宮高の顧問は「勝たせる」に要点を置いていたとわかっている。メディアもずっと「勝つことに意味はあるのか」とやってきた。私は少なくとも、勝とうとすること自体に意味はある、という立場であるが、それでも「勝つこと」よりも重要な意義はあると考える。それはまさに「勝敗を超越したところ」にある教育である。

桜宮高の顧問はスポーツ教育をやった。生徒を「選手」として育成した。練習もそうだし、作戦を練ったりもした。「体育」の観点からなら「なぜそうするのか」「そうすればどうなるのか」を学ばせねばならない。結果の前には厳然として過程が存在する、と教えねばならない。教育ならばこちらを重んずるのは当然のことだ。だから「生徒」は努力の価値を学び、用意する必要性を学ぶ。結果のみを重視されるのはスポーツ選手であり、その最高峰はプロスポーツ選手である。顧問は教師であり、決してコーチや監督は本業ではない。

繰り返すが、この顧問はそれを忘れた。だから体罰は激しくなった。「勝たせるために」と精神的にも追い込んだ。相手は「バスケ部の生徒」であり「NBAの選手」ではないと失念した。考え方が間違っているから、その行為も間違っていた。万人には通じなかった。中には精神的に病んで自殺する生徒も混じった。だから事件になった。

例えば「逆上がり」をやる。存外、私は得意だったが、これが出来ない子はやはりいた。体育ならば「向き合う姿勢」とか「練習に取り組む態度」を評価する。満点もらうのはキレイにくるくる回る子よりも、先生、ボクできないけど、出来るようになるまで頑張ります、と取り組もうとする子供になる。しかし、これがスポーツ教育だと「競技の結果」を採点せざるを得ない。これはもう「教育」ではない。

逆上がりが出来ない理由は先ず、絶対的に「自分の体重を支えることが出来ない」とわかる。つまり、デブだ。もちろん、私のように120キロのベンチプレス可能なデブもいるが、そうではない子供は「逆上がり」と聞いただけで嫌になる。非力な子は恥ずかしいから真面目に取り組んだりもしない。いい加減にやって出来ないことを誤魔化す。

ならば、これを正すのが教育だ。「そんなこともできないのか、このデブ」と馬鹿にするクラスメイトがいるならそれを叱る。ゲンコツも使う。「どうせやっても無理だし」と言う本人も叱る。鉄棒は危険だから、ふざけてやっている者があればそれも叱る。そして「やれない子供」を「できなくてもいい」とフォローする。「それでもお前は恥ずかしからずにやろうとした。立派だ」と褒める姿勢こそが教育だ。

また、最初から「やりたくない人はやらなくていいです」も教育ではない。これはスポーツ教育になる。だからスポーツ教育の顧問は「やる気がないなら辞めろ」とか言える。バスケットボール部の顧問ならば、バスケットボールというスポーツを通じてなにをどう教えるか、を問われているのであって、優勝したとか、すごい選手を育てたとかは「オマケ」である。オマケのために人を殴って良いわけない。


また、このGMの記事から何ページかめくると、同じ京都新聞に広島県尾道市の県立高校の記事があった。ベタ記事だ。41歳の男性教諭が自殺したのが公務災害として認められたとか。2007年には公務員災害補償基金の県支部から「公務外」との処分を受けていた。生徒が教師を虐めても問題には出来ない、知ったことかと、いう意味だ。この男性教諭は授業妨害を受けていた。生徒から「死ね」とか「学校に来るな」と言われ続けた。朝日新聞やらが純情で清廉で傷つきやすいと書く、天使のような子供らから胸倉を掴まれ小突かれていた。この高校では男性教諭の同僚も自殺している。

神奈川県の50歳の男性教諭。記事には<遅刻した生徒たちに教室へ入るよう呼びかけた際>とある。たぶん、遅刻してきたのに謝るどころか、そのまま廊下で遊んでいたとわかる。我々の中学生時代を思い出そう。こんな「学校の日常風景」が思い浮かぶだろうか。どんな不良でも「そのような行為」に及ぶ際はある種の覚悟も要した。自分が間違っていても、そこには「美学」と呼んでいい幼くて未熟ながら小さな決心があった。少なくとも、正面切って教師に刃向かう際は殴られる覚悟もした。不良はちゃんとグレていた。この中学2年は違う。このあと50歳の男性教諭から正座させられている。素直に16人もだ。つまり、この餓鬼らは大人が怒ったらびっくりしている。

要するに覚悟もヘチマもない。普通の光景だった。我々世代の不良が遅刻して教室に入らず、廊下にいることを教師が咎めたら緊張感が走った。教師も「こら、おまえ」と切り出すのではなく、それなりに構えてもいた。それほどの異常事態だった。せめて真剣だった。

いま、日本の学校では50歳男性教諭が、からかい半分、中学2年生から<うるせー、ばか、はげ、死ね>と言われている。その理由は<男性教諭は発言した生徒に名乗り出るよう求めたが、返事がなかったため、その場にいた生徒16人を廊下に正座させて頬を1回ずつたたいた>がニュースになる現実だ。御丁寧に<けがはなかった>と付け加える風潮だ。生徒の顔は豆腐で出来ているわけでもない。ビンタくらい、怪我するわけもない。

また、驚いたことに山本五十六閣下の「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、 ほめてやらねば人は動かじ」を引用しているのもあった。大日本帝国海軍の元帥でも「体罰はダメ」と言ってるじゃないか、という左巻きの罰当たりだ。ちゃんと読めと言いたい。最後は<人は動かじ>だ。「子は動かじ」ではない。これを言うなら女子柔道の園田に言うべきだ。学校の教師が相手にしているのは「子」である。「鱈子」とか「白子」の「子」である。「犬の子」でも「鯛の子」でもいい。つまり「人の子」だ。

学校教育だけではなく、親の体罰も絶対にダメ、と言う人に問いたい。この記事の生徒、どうやって教室に入れるのか。どうすれば真面目に席について授業を受けるのか。50歳にもなった大人の教師が<うるせー、ばか、はげ、死ね>と言われてへらへらしたり、気にせず授業を続けたり、罵倒されながらも「席についてください」を繰り返すほうが子供のためになるのか。それは「教育」「指導」と呼べるのか。

尾道市の教諭はどうすればよかったのか。桜宮高の生徒が犠牲者なら、同じく、精神的に追い込まれた、それも「育てる」とか「指導だった」という理屈の入る余地のない、大人と社会を舐め切った悪意に対してどうすればよかったのか。「自殺するくらいなら辞めたらいい」は桜宮高のバスケ部キャプテンも言われた。では、この自殺した教諭もその同僚もそうすればよかったのか。

左巻きの連中は意図的に、つまり、日本の子供、日本の将来を「殺す」ために体罰問題を利用する。「暴力と体罰は曖昧」などと問題化させ、日本の優れた曖昧を「殺す」。「曖昧」とは元々「曖昧屋」のこと。日本では古来から「売春宿」という看板はなかった。そういう商売、社会的必要悪はなんとなく匂わせて「曖昧」にしていた。

パチンコもそう。よく「博打か遊びかが曖昧」として問題化させ、いっそのことカジノ合法化すればどうか、と大阪市長も言う。冗談ではない。「曖昧」の受け止め方、解釈の仕方、社会にとっての在り方、などが日本人にはわかっていた。そういうハイレベルな民度があった。つまり、阿呆の欧米人にはわからぬ「阿吽の呼吸」というモノが日本人にはあった。「決められなくてもやれる」だけの教養があった。体罰にしても「この棒でこの箇所を何回までなら殴って良い」みたいなものは必要なかった。教師は加減を知っていたし、とくに容赦することもなかった。どつかれた子供も、その親も理解できていた。

教師はその昔「訓導」と呼ばれた。「聖職」とか怪しげな言葉の前に尊敬されていた。威厳があった。それがいま、生徒からおちょくられて正座させてビンタしたら<体罰が報道されている中でこんなことをして申し訳ない>と謝らねばならなくなった。私はいまの子供に同情する。50歳の男性教諭に対して、面と向かって小馬鹿に出来る神経の子供を哀れに思う。この国を愛する心から、殴ってあげたい、と思う。






2 コメント

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Unknown (久代千代太郎)
2013-02-10 10:26:10
>のんちゃん

>権威なくして教育は成り立ちません

そういうことですね。ずいぶん前から「教壇」が教室から消えましたが、横並びのしょうもない平等公平で「導く」が可能かどうか、ちょっと考えたらわかることです。

連中は意図的に壊したわけですな。

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マジで子供が増長してます (桜のん太郎)
2013-02-09 23:07:10
(経済的に)普通の家の子(しかも1年生!)が
平気で大人を蹴飛ばしに来ます。
手は出せないまでも半泣きになるぐらいまでどやします
(『あそこはしんどくない』と市教委に思われている小学校です)
犬の子でももっともマシな躾をするだろうに。「学校でどつけないんだから家庭で適度にどついとけよ」と思います。コイツらが体だけ大きくなったら・・・とい思うと空恐ろしくなります。

また高学年の男なんかは「オイ、今は掃除の時間やろ!」ってな感じでポンと肩を叩いたぐらいで
「あ~体罰や~!桜ノ宮高校や~!市教委に言うたろ~!」とか舐めた口聞いてどつき回したい衝動に駆られます。

気の弱い、怒鳴り倒せない人は今後教師にはなれないでしょうね。教師の質も劣化する一方になるでしょう

体罰を積極的に行う必要はありませんが、最後の抑止力としては絶対に必要です。権威なくして教育は成り立ちません。
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