栃木県壬生町
■説明板・・・
●熊野地蔵尊改め氏子子育地蔵尊
作詩:伊藤等 作曲:森川文雄
一、熊野神社の第二の鳥居 民を見守りはや百年 氏子子育地蔵尊 さとす姿に手を合わす
二、誰が編んだか毛糸のぼうし 心こもったチャンチャンコ 氏子子育地蔵尊 前より高く座ってる
三、榊清水かかさずささげ 年に一度の秋祭り 氏子子育地蔵尊 明日の平和をただ祈る
平成10年11月15日
高木 喬
※熊野神社境内に祀られています。
栃木県壬生町
■説明板・・・
●熊野地蔵尊改め氏子子育地蔵尊
作詩:伊藤等 作曲:森川文雄
一、熊野神社の第二の鳥居 民を見守りはや百年 氏子子育地蔵尊 さとす姿に手を合わす
二、誰が編んだか毛糸のぼうし 心こもったチャンチャンコ 氏子子育地蔵尊 前より高く座ってる
三、榊清水かかさずささげ 年に一度の秋祭り 氏子子育地蔵尊 明日の平和をただ祈る
平成10年11月15日
高木 喬
※熊野神社境内に祀られています。
栃木県壬生町
栃木県壬生町七ツ石
昔ある一族がこの地を通りかかった際、椿の花が満開で美しかったのでここで休息をとりました。村の人々は天皇家の身内と思い、一族が休んだところを「皇(後)室庵」と呼び、椿の花が咲いていたところを「椿森」と名付けました。また皇室庵には壬生家最後の城主壬生義雄の後室(未亡人)が庵を結んだことからこう呼ばれたという説もあります。
壬生観光協会作成 散策コース ゆうがおウォーキングコースより。
※七ツ石には字名で後室庵という地名があります。
後室庵には三等三角点がありました。この場所を見つけるのが大変でした。軽自動車でなんとか通れるような農道。
栃木県壬生町
■説明板・・・
●母衣掛けの松(伝説)
八幡太郎源義家が奥州征伐(後三年の役)に向かう途中七ツ石で兵を休めた時、道端の松に母衣を掛けて休息したといわれています。
また一説によると、義家が奥州征伐に向かう途中、一本の松を植えて戦勝を祈願し、のち源義家がここを通った時その松の木に母衣を掛けて休んだともいわれています。
その母衣が風になびいてあまりにも美しかったので、里人は「母衣掛けの松」と呼ぶようになりました。
古歌に 千枝にます みとり栄えて武士の 名も諸共に 母衣掛けの松(※文字が薄く濁点が判読できない)
とよまれています。母衣は鎧の上に掛けて敵の矢を防いだ布製の袋のことです。
平成元年1月 壬生町教育委員会
※松の木は小さいものでした。以前はもっと大きな松の木だったそうです。
栃木県壬生町
■説明書き・・・
●下馬木(げばぎ)溝渠(※こうきょ:主に給排水を目的として造られる水路のうち、小規模な溝状のものの総称。)の碑
下馬木神明宮の境内にあり、下馬木地区の田に水を引くため、明治初年下馬木の人々が上稲葉の峰山の下を掘り抜いてトンネルを造り、黒川の水を引いた大工事の記念碑です。溝渠の長さは1,561間(2,838m)にも及びます。
栃木県壬生町
■説明書き・・・
●芭蕉句碑(壬生町福和田)
句碑は、芭蕉塚建立を願い、志半ばで世を去った黒川舎古蘭(大橋甚右衛門)の遺言により、安政4年(1857)4月に同行の仲間により建立されました。
句の表には俳人松尾芭蕉の句「久た比れ亭 宿可る頃や 富じの花(※くたびれて やどかるころや ふじのはな)」と刻まれています。また、碑の裏には古蘭の辞世の句が刻まれています。「いざゆかん 花は冥土の 道すがら」
壬生観光協会 散策コースパンフより・・・
※ネットでこんな文字も見つけました。⇒「草臥れて 宿借る頃や 藤の花(くたびれて やどかるころや ふじのはな)」
※実際に句碑を見ても私には読めませんでした。
栃木県壬生町
■説明板・・・
●畳塚
鳥居元忠は慶長5年(1600)の関が原の戦に先立ち、徳川家康の命により伏見城を守りました。石田三成方の大軍を引き受けよく戦いましたが、約一ヶ月の攻防戦の末、伏見城にて自刃(じじん)しました。
この元忠の忠義を賞賛した家康は、自刃のさいの血に染まった畳を江戸城の伏見櫓(やぐら)の階上に置き、登城する諸大名に彼の忠義をしのばせたと言われています。
その後、明治にいたり江戸城が明け渡されたため、ゆかりの深い現在の地に納められ、「畳塚」と称えその上に記念碑が建立されました。
元忠の命日(旧暦の8月1日)には、勇壮な武者行列が昭和初期まで行われていました。
壬生町教育委員会
※精忠神社本殿の裏側にあります。
栃木県壬生町
壬生町のパンフレットには、
江戸時代の正徳2年(1712)から明治維新まで、代々壬生藩主だった鳥居家の家祖・鳥居元忠公を祀る神社です。境内には「畳塚」や「宝物蔵」があります。・・・と書いてあります。※榜示杭(藩領の境界石)、干瓢記念碑もあります。
栃木県壬生町
■「わが町の史跡を訪ねて」
●壬生家・鳥居家の菩提所
壬生城址の北にあり、曹洞宗に属し向陽山常楽寺といいます。壬生氏初代の胤業はあつく禅門に帰依し密宗の梵宮を改めて七堂伽藍を興しました。胤業は法号を常楽寺殿亀雲道鑑大居士といいます。寺の西の墓地には壬生家歴代の墓(町指定史跡)があります。また同寺は江戸時代にあっては、鳥居家の保護もあつく鳥居家累代の墓(町指定史跡)もあります。
山門をくぐって右側には尾形乾山(尾形光琳の弟)の碑があり「ふくろ鳴く壬生のうら山時雨きて、みのきるむれの立ち騒ぐ見ゆ」と刻まれています。
●斎藤玄昌(さいとうげんしょう)の墓
玄昌は文化6年(1809)2月、梁田軍羽苅村に生まれました。名は知柔、通称は玄昌、号は一瓢。蘭医学を修め、天保5年(1834)に壬生鳥居家に藩医として仕えました。天保11年(1840)12月に石崎正達らと壬生上河岸の刑場で処刑囚の解剖(「解体正図」刊)を行い、嘉永3年(1850)2月には藩に請願し壬生領内に、強制種痘を行いました。晩年は、人材育成のため私立学校の経営を企画しましたが、それを果たさぬまま明治5年(1872)5月に64歳でなくなりました。
栃木県壬生町
■「わが町の史跡を訪ねて」
慈覚大師誕生地(じかくたいしたんじょうち)
慈覚大師(794-864)は壬生の地御里(新町)に生まれたと言われています。姓を壬生氏、名を円仁といいます。幼少にして父を失い母に育てられましたが、温和で強い性格の持ち主でした。9才の時大慈寺の僧広智菩薩に学び、15才で比叡山に登り伝教大師(最澄)に師事しました。また838~847年の間、唐に渡り天台宗を学びました。在唐中には武宗の廃仏にあい、俗人に身を替えたりの苦しい求法をしました。この旅行中に書いた「入唐求法巡礼行記」は、マルコポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵の「西遊記」とともに世界三大旅行記の一つとして高く評価されています。帰朝後は、天台宗第三世座主となり、伝教大師の偉業を大成し日本天台宗の基礎を築きました。寺の正面は「大師堂」と呼ばれ、慈覚大師を祀っています。このお堂は貞享3年(1686)日光山輪王寺の願いによって壬生城主三浦壱岐守正次によって建立されました。このお堂のすぐ西に「大師産湯の井戸」があります。また境内には、県指定天然記念物の「大イチョウ」があります。
●五町文化財マップ
大師堂は、天台宗の基礎をきずいた平安時代の高僧、慈覚大師をまつっています。堂は貞享3年(1686)、日光山輪王寺の願いにより、壬生城主三浦明敬によって建立されました。現在、建立時の棟木が当寺に保管されています。大師堂は彫刻類の飾りは一切なく質素ですが、格調の高い建物であるとともに、江戸時代中期に建造された町内に残る唯一の建造物となっています。