↓の画像は道路側から撮ったものです。
那須町商工会発行
〇芦野宿と伊王野の里ガイドブックには・・・(全文掲載させていただきます。)
ここは奥州街道のとおる、芦野からすこしはなれた、とても小さな村です。
ここに、人間にばけるという、ヘビの夫婦がいました。
ヘビ夫婦は、いろいろな人間にばけていました。いまは百姓夫婦にばけました。
「ねえ、おまえさん、百姓にばけたのはいいけど、百姓の道具がぜんぜんないよ」
「どっからか、かりてこよう」
夫婦は、近くの家にかりにいきました。
「すンませんが百姓道具を貸してくれませんか」
「あぁ、いいよ」
うまく、夫婦は百姓道具をかりてきて、それから毎日いっしょうけんめい、働きました。
そばを通りかかる人はみんな、声をかけていきました。
「やァ、ごせえが出るネ」
「まったくだ。まったくだ。あんたらこの村じゃ、いちばんの働きもンだがな」
「いやぁー」
夫婦は村でとても人気者になりました。ところがあるばん、
きょうあったことなどをはなしているうちに、なにがおもしろかったのか、
ふたりで、ゲラゲラわらいだしました。
「わっはっは」
「おっほっほ」
すると、夫婦とももとのヘビにもどってしまいました。あまりわらいすぎると、
もとのすがたになってしまうのです。
夫婦は、こっそり村をでて、1里(4キロメートル)ほどはなれた山の中のほらあなににげていきました。
そのころ、村ではふたりがいなくなったので、心配していました。
ヘビ夫婦は、また人間にばけようと話をしていました。
「ねぇ、おまえさん、こんどはどんな人にばけるかねぇ」
「そうだな、くすり売りにでもばけてやるか」
こうして、くすり売りにばけ、村にいきました。
そしてまた、村に住みついて、くすり売りをはじめました。
夫婦は、またこの村の人気者になりました。というのは、
貧しい人びとにはくすりをただであげていたのです。
この村にすみついてからちょうど2週間たって、
つい、あることからわらいがとまらなくなってしまいました。
それでまたヘビのすがたにもどってしまいました。しかたないのでまた、
山のほらあなににげていきました。
ほらあなの中で、ヘビ夫婦はまた、なににばけようかとそうだんしました。
いろいろはなしあい、かんがえた末、海から魚や海草を買い入れてきて売ることにしました。
そこで夫婦は、魚や海草を買い入れて、また村にいきました。
村では、魚や海草などめずらしいため、みんなよってきました。
それに安かったので、よろこんで買ってくれました。
こうして、村人にもすっかりなれたというときに、また、わらいがとまらなくなり、
もとのヘビのすがたになってしまいました。ところが、ヘビのすがたにもどるところを、
こんどはとおりかかった村人にみられてしまいました。村人は、
「これはたいへんだ。みんなにおしえなければ」とびっくりして逃げていきました。
そして村にいき、みんなにはなしました。するとひとりが、
「土ンなかにうめたらどうだんべか」
「うんだ、うんだ」
と、はなしの結果、ヘビ夫婦を土の中にうめてしまいました。
ところが、ヘビをうめたところに、いつのまにか2つに石ができていました。
1つは大きく、1つはそれよりもやや小さいのでした。村人はみな、ふしぎがりました。
うめられたヘビ夫婦がうらんで石になって出てきたのではないかと考えました。
それからというもの、村人は石のそばをとおるのをさけ、きみわるがりました。
こんな出来事があって1ケ月すぎたある夜、石のところから子どもの泣き声がきこえるのでした。
毎晩、泣き声はきこえました。村人はきみわるくなりました。
それでこうして村の人全部があつまって話し合いをしているのです。
「どうすべか。このままじゃ、きみわるくて夜なんか、ねらんねべな」
「うんだ、うんだ」
「どうだべか、芦野から坊さまをよんで、お経でもあげてもらうべか」
「うんだ、そうすべ」
ということになって、芦野の宿へお坊さんをよびにいきました。
そしてお坊さんにお経をよんでもらいました。
それからは子どもの泣きごえもきこえなくなりました。
しかしまた、小さな石ができたそうです。
それでも村は平和になりました。
現在、夫婦石という集落があり、ここに、その石がいまでも実在する。
みよといしの方面へお越しの際はぜひご覧ください。
大きな石と小さな方の石が、よるになるとくっついてしまうという話もある。
↓教伝地蔵
↓殺生石園地
■説明板・・・
●教傳地獄の由来
第96代後醍醐天皇の御代(1318)の頃、奥州白河在の五箇村に蓮華寺と言う寺があり、「教傳」と言う住職がおりました。この教傳は生まれながらの不良少年で、心配した母がお坊さんにしようとしてこの寺に預かってもらいました。その教傳も28歳になって、前の住職の跡をつぎ、母と一緒に寺に住むようになりましたが、その行いは少しも直りませんでした。元亨元年(1336?)のことです。教傳は、2・3人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行くことになりました。その日のことです。教傳は、母が朝食を用意してすすめると教傳はまだ旅仕度も出来てないのにと悪口を言いながら、お膳をけとばしてそのまま出発してしまいました。
那須温泉に着いた教傳はある日殺生石を見学しようと賽の河原附近まで行くと今まで晴れわたっていた空が、俄かに(にわかに)かきくもり雷鳴が天地をゆるがし、大地から火炎熱湯が噴き出し、連れの友人はいっせいに逃げ去りましたが、教傳は一歩も動くことが出来ませんでした。ふり向いて見ると「おれは寺を出るとき母の用意したお膳を足げりにして来た天罰をうけ、火の海の地獄に堕ちて行く」と教傳が大声をあげ苦しみもがいております。友人がかけ寄り助けようと引き出したが、教傳の腰から下が、炭のように焼けただれており息をひきとってしまいました。それからも教傳が引き込まれたところには泥流がフツフツと湧いていましたが、いつしか山津波に埋まってしまった。その後、湯本温泉の有志が享保5年に地蔵を建立して供養を行い、親不孝のいましめとして参拝する者が後を絶たなかったと言うことです。
那須町観光課・那須観光協会
■殺生石園地案内板・・・
●殺生石
周囲には火山特有の有毒ガスが噴出しており、近づいた小動物のほとんどが死んでしまうことからこの名がついた。九尾の狐伝説の残る名所。「九尾の狐伝説」物語は今から約3,500年前。中国、インドを荒らしまわった九尾の狐は、やがて日本に渡って「玉藻の前」という美女に変身し、帝の寵愛を受けるようになりました。帝の命を奪い日本を我が物にしようとした玉藻の前でしたが、占い師の阿部泰成(※安倍泰成?)によって正体を見破られ、那須野が原に逃げ込んだところを、当時の武将、上総介広常、三浦介義介によって討ち取られました。狐は死んで巨石となり、その怨念は毒気となって近づくものすべてを殺し続けました。時は過ぎ、これを聞いた名僧源翁和尚がこの地を訪ね、持っていた杖で石を一喝すると、石は3つに割れ、1つは会津に、1つは備前へと飛んでいき、残った1つが殺生石だと伝えられています。
那須町
■案内板・・・
●殺生石と松尾芭蕉(まつおばしょう)【1644-1694】
元禄2年(1689)この地を訪れた俳人芭蕉は、紀行「奥の細道」に次のように記(しる)しています。
「殺生石は温泉(いずゆ)の出づゆ山陰(やまかげ)にあり、石の毒気(どくけ)いまだ滅びず、蜂、蝶のたぐひ真砂(まさご)の色(※地面の砂の色)の見えぬほど重なり死す。」
この様子から、当時は、相当の火山性ガスが発生していたと思われます。また、この地に残した一句を紹介しましょう。
「石の香は夏草赤く露(つゆ)あつく」
現在は、ガスの噴出量は少なくなっているものの、硫黄色を残した巨石群と噴気は、往時の雰囲気を漂わせています。
栃木県
史跡 殺生石(国指定名勝)
2022/03/29 07:15読売新聞に九尾の 狐きつね 伝説で知られる栃木県那須町の「 殺生石せっしょうせき 」が、突然真っ二つに割れた・・・という記事が掲載された。
2022/12/9下野新聞に九尾の狐伝説の殺生石でイノシシ8頭の死骸が見つかった。・・・という記事が掲載された。
↓割れる前の石
■殺生石園地案内板・・・
●殺生石
周囲には火山特有の有毒ガスが噴出しており、近づいた小動物のほとんどが死んでしまうことからこの名がついた。九尾の狐伝説の残る名所。「九尾の狐伝説」物語は今から約3,500年前。中国、インドを荒らしまわった九尾の狐は、やがて日本に渡って「玉藻の前」という美女に変身し、帝の寵愛を受けるようになりました。帝の命を奪い日本を我が物にしようとした玉藻の前でしたが、占い師の阿部泰成(※安倍泰成?)によって正体を見破られ、那須野が原に逃げ込んだところを、当時の武将、上総介広常、三浦介義介によって討ち取られました。狐は死んで巨石となり、その怨念は毒気となって近づくものすべてを殺し続けました。時は過ぎ、これを聞いた名僧源翁和尚がこの地を訪ね、持っていた杖で石を一喝すると、石は3つに割れ、1つは会津に、1つは備前へと飛んでいき、残った1つが殺生石だと伝えられています。
那須町
■案内板・・・
●殺生石と松尾芭蕉(まつおばしょう)【1644-1694】
元禄2年(1689)この地を訪れた俳人芭蕉は、紀行「奥の細道」に次のように記(しる)しています。
「殺生石は温泉(いずゆ)の出づゆ山陰(やまかげ)にあり、石の毒気(どくけ)いまだ滅びず、蜂、蝶のたぐひ真砂(まさご)の色(※地面の砂の色)の見えぬほど重なり死す。」
この様子から、当時は、相当の火山性ガスが発生していたと思われます。また、この地に残した一句を紹介しましょう。
「石の香は夏草赤く露(つゆ)あつく」
現在は、ガスの噴出量は少なくなっているものの、硫黄色を残した巨石群と噴気は、往時の雰囲気を漂わせています。
栃木県
2022/03/29 07:15読売新聞に九尾の 狐きつね 伝説で知られる栃木県那須町の「 殺生石せっしょうせき 」が、突然真っ二つに割れた・・・という記事が掲載された。
2022/12/9下野新聞に九尾の狐伝説の殺生石で、イノシシ8頭の死骸が見つかった。・・・という記事が掲載された。
わたしのホームページ 鹿沼見て歩き↓
https://tochi-mite.sakura.ne.jp/
ただいま、たくさんのデータを掲載しています。
宇都宮市 国指定 名勝 越路岩
■説明板・・・
●国指定名勝 大谷の奇岩群 越路岩 ▲所在 田下町 ▲指定 平成18年7月28日
越路岩は姿川に沿った奇岩群の北端に位置し、姿川が東向きから南向きに流れを大きく変える地点の右岸にそびえる独立奇岩です。特に北東や北に広がる田園を介した眺望に優れており、水面に姿を映し出し、あたかも奇岩が海面にそびえ立っているように見える■国指定名勝は栃木県に3つ
●日光市華厳の滝と中禅寺湖(昭和6年3月30日指定)⇒華厳滝・・・ ⇒中禅寺湖周辺・・・
●宇都宮市大谷の奇岩群 御止山 越路岩(平成18年7月28日指定)⇒越路岩・・・
●おくのほそ道の風景地 平成26年3月18日指定)
「日光市ガンマンガ淵(慈雲寺境内)」⇒憾満の道と大谷川・・・
「大田原市八幡宮(那須神社境内)」⇒那須神社・・・
「那須町殺生石」⇒殺生石・・・
「那須芦野遊行柳」⇒遊行柳・・・
周辺の風景のようです。ずいぶん離れている。ことから「陸の松島」と呼ばれ大谷の奇岩群をコンパクトに表した景観です。