長らく高校教員として、また日本古代史の研究家として活躍されていた藤田友治さんが今年の8月27日に亡くなり、夕方から大阪灘波の松竹座地下の日本料理店で開かれた追悼会に参加しました。30年連れ添った美代子さん、三人のお子さん、そして、古代史研究会、教員仲間の皆さんなど多くの方々が出席され、一言ずつ想い出を語り合い、友治さんを偲びました。写真は追悼会帰りの灘波の繁華街
以下は藤田さんの追悼集に寄せた私の原稿です。
藤田友治さんとは私が学生時代からの付合い。当時、私は社会党茨木総支部の党員で、藤田さんは数少ない茨木市内に住む教員党員だった。「卒業したら山下君はどうするんだ」と問われ、「社会党の専従になるかもしれません」といったら、「そうか、職革(しょっかく・職業革命家)か」といわれ、初めて職革という業界用語を知ったものである。それ以降、同じ空気を吸った時間は多くなかったが、私の社会党左派的なものの考え方をよく理解していただき、何かあるときは心強い思いがしたものである。
住まいが近いということもあって、私の選挙の際はビラ配りなどご夫婦や息子さんにお世話になった。一方、私がお手伝いできたのは何もなくほんとに申し訳ない気持ちである。
さて藤田さんは古代史研究家で、市や教育委員会が市内の太田茶臼山古墳を継体天皇陵と称しているのはおかしいと議会で取り上げたときなど、いろいろ教えていただいた。また「天皇陵を発掘せよ」「続・天皇陵を発掘せよ」「古代天皇陵をめぐる」、今年になって『「君が代の」起源』も送ってもらった。
私はこれらの著作を理解するだけの能力はない。ただいつの時代も権力者は自らの支配を正当化し、そのために事実をごまかしてきたことだけは分かる。そして今日に至るまでそれは変わらないし、今後もそうなんだろうと思う。わが国の天皇制はまことに便利な代物である。
ウソとごまかしが大手を振り、時代が反動を強めているときだけに、藤田さんは貴重な存在だった。まだまだやりたいことがあっただろうにと思うと極めて残念でならない。藤田さん本当にありがとうございました。
以下は藤田さんの追悼集に寄せた私の原稿です。
藤田友治さんとは私が学生時代からの付合い。当時、私は社会党茨木総支部の党員で、藤田さんは数少ない茨木市内に住む教員党員だった。「卒業したら山下君はどうするんだ」と問われ、「社会党の専従になるかもしれません」といったら、「そうか、職革(しょっかく・職業革命家)か」といわれ、初めて職革という業界用語を知ったものである。それ以降、同じ空気を吸った時間は多くなかったが、私の社会党左派的なものの考え方をよく理解していただき、何かあるときは心強い思いがしたものである。
住まいが近いということもあって、私の選挙の際はビラ配りなどご夫婦や息子さんにお世話になった。一方、私がお手伝いできたのは何もなくほんとに申し訳ない気持ちである。
さて藤田さんは古代史研究家で、市や教育委員会が市内の太田茶臼山古墳を継体天皇陵と称しているのはおかしいと議会で取り上げたときなど、いろいろ教えていただいた。また「天皇陵を発掘せよ」「続・天皇陵を発掘せよ」「古代天皇陵をめぐる」、今年になって『「君が代の」起源』も送ってもらった。
私はこれらの著作を理解するだけの能力はない。ただいつの時代も権力者は自らの支配を正当化し、そのために事実をごまかしてきたことだけは分かる。そして今日に至るまでそれは変わらないし、今後もそうなんだろうと思う。わが国の天皇制はまことに便利な代物である。
ウソとごまかしが大手を振り、時代が反動を強めているときだけに、藤田さんは貴重な存在だった。まだまだやりたいことがあっただろうにと思うと極めて残念でならない。藤田さん本当にありがとうございました。