そのⅩⅡ 風雲
丹波屋の京屋敷では、明智光秀と里村紹巴が主催する俳句連歌の会が度々行
われていた。
天正6年(1578年)3月10日にも開かれた。
この時は、連歌会の後、茶懐石が持て成され、続く宴の席では京で評判の琵
琶法師の平家語りが聴けると言う
その前日、丹波屋宗右衛門の妻女ヨシと娘ヨシコが丹後から入京していた。
連歌会と茶懐石を心を込めて持て成すためだ。
琵琶法師芳一が丹波屋京屋敷に到着すると、主と妻女が門まで迎えに出てい
た。
妻女のヨシは目の見えぬ芳一を労り、手を引いて導いて呉れた。
春爛漫の陽気のように温かい手だった、優しい心が掌を伝って芳一の心を和
ませてくれた。あの時の建礼門院徳子が思い出された。
「法師様は、・・・」と、ヨシは少し言葉を詰まらせた。
「何で御座いましょう?」
「不躾をお許し下さいませ。お目は、生まれつきなので御座いましょうか?」
「いいえ、十に成った冬に突然見えなく成りました」
ヨシの顔が青ざめた、その後見る見るうちに喜色で輝いた。もしや・・・?
「お名前を聞かせては頂けませんか?」
「芳一と申します」
「良い響きの素敵なお名前ですわ」
声が震えていた。
ヨシは迷った。名乗るべきかどうかを。
ここは一端心の内に秘めると決意した。
ヨシとヨシコの母娘は日本海に漂う小舟から、丹波屋の大船に助けられ、妻
と成り娘となったのだ。
不思議な事が有った。生まれつき目が見えなかったヨシコの目が突然見える
ようになったのだ。
ヨシコは芳一の目が見えない事と何か関係が有るのかと不安を覚えたのだ。
翌十八日、早朝から連歌会の参加者が続々と集まって来た。
明智光秀と光晴が玄関に入ってくると、ヨシが光秀の腰の物を預かり、娘ヨ
シコが光晴の刀剣を両手で拝むようにして抱きしめた。
光晴が娘を見詰めると、ヨシコは頬を染めて俯いてしまった。
そんな光景を、丹波屋で行儀修行をしていた火が垣間見ていた。今は楓と名
乗っている。
茶室で、光秀に茶を立てている丹波屋。
「宗右衛門殿、先日の話ですが、光晴には過ぎた話と存じますが、・・・」
が、の後が気になって宗右衛門は茶筅から目を外して光秀を見詰めた。
「謀反人の汚名を着せられ、惨たらしくも滅ぼされた荒木の家に嫁いでいた、
長女結衣が坂本城で哀しみに呉れておりまする」
「あれは。あまりにも御無体な仕打ちで御座いましたなあ。一族郎党、女も子
供も磔にするなど、人の成せる業では御座いません。不幸中の幸いでしたな、
明智様の結衣姫が御実家にお帰りになれたというのは」
「信長は人に有らず、魔王であるからな。結衣を帰してきたのは、この光秀を
更に追い使う魂胆」
「信長様は明智様の御器量がお分かりなのです」
前に差し出された茶碗の抹茶をうやうやしく口に運ぶ光秀、そこで大げさに
溜息を付いた。
「実は宗右衛門どの。結衣を光晴に嫁がせようと思っています。結衣を幸せに
出来るのはあの者しかいないと思っています」
「それは良う御座います。なに、丹波屋風情の商人の娘を御正室となど思うて
おりませぬ。どうか側室の一人に加えて下され。うかと口を滑らしてヨシコに
は悟られてしまいましてな、大層気に入っております」
「話は変わるが、謙信公御上洛の大号令が出たそうです。手取川で勝家軍を撃
破してから二ヶ月。・・・今頃春日山では戦支度に湧いておりましょう」
「いよいよ、・・・ですか?! 私共も励めねば成りませんな」
謙信の上洛が実現した時には、丹後の明智軍が先鋒を勤める、との密約が成
っていた。
その頃、光晴は別室で控えていた。
襖の開く音がして、絹擦れの音が近づいて来た。
その若い女中は、光晴の前に抹茶を置いた。
茶碗を取り上げる光晴を穴の開くほど見詰めている娘。
「わたくしが立てましたのよ」
「有り難く頂戴いたします」と、抹茶を一口飲んで顔を顰めた。恐ろしく苦か
ったのだ。
「おいしう御座いましょう」
「はい」と言って、光晴も娘を見て小首を傾げた。
「お世辞と嘘はいけませぬ」
娘が笑った。
ようやく火だと気付く光晴。なんという娘だ、変幻自在、狐狸の類いかも知
れない。
煌々と篝火が庭園と舞台を浮かび上がらせ、夜桜が乱舞を見せる中、芳一の
平家語りが始まった。
♪ 祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり
観る者は皆、それぞれの想いの中で傾聴している。
芳一の実母ヨシは名乗り合わぬ長男の琵琶と謡いに涙を溢れさしていた。
ヨシの夫・宗右衛門、実は桓武平氏の子孫だった。夢枕にたった建礼門院徳
子の訴えで、芳一の訪問は前もって知っていた。また、土岐源氏の明智光秀の
支援をするのは奇縁とは言え、全身全霊で明智氏を援助する覚悟が有った。ヨ
シコを光晴の側室にと請うたのは本心からである。
♪ 沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす
散花が風に舞った。
花の気配を感じた芳一が眼を開いた。何も見えなかったが、家族との再会
が、尼御前の予言として実現すると念じ、信じていた。
今は翠と名乗っている林は、これは運命の出会いだと確信した。今までにこ
んなに胸がときめいた事は無かった。ああ! 法師様の眼となってお護りした
いと願った。
突然、芳一の琵琶が激情のままに、荒々しくかき鳴らされた。
♪ 驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。猛き者もつひには滅びぬ
稚葉と名乗っている風がそっと光秀の袖を引いた。
光秀が風を見返ると、悲痛な面持ちで見詰めていた。
また、琵琶が凪のそよ風の如くに静まった。
♪ 偏に風の前の塵に同じ
別室で、風が光秀に唯ならぬ形相で口を開いた。
「ただ今急使が参りました。お屋形様が、謙信公が病を得、昏睡状態に陥った
との事」
「なに! 本当か?」
風の顔が不安でおののいていた。
「我ら三人は春日山に急行して真偽を確かめまするので、駿馬を九頭馳走して
下さりませ。風と林と火が越後へと、今から直ぐにも立とうと思います」
「いかにも、馬など容易い用じゃ。騎馬武者の一隊でも光晴に率いさせて同行
させようぞ」
「無用に御座います。恐れながら足手纏いになりまする」
「相分かった。向後の事は、お主達の知らせを待とう」
「御免!」
溢れ出そうになる涙を断ち切って、風は雄雄しく立ち上がった
2017年2月18日 Gorou
丹波屋の京屋敷では、明智光秀と里村紹巴が主催する俳句連歌の会が度々行
われていた。
天正6年(1578年)3月10日にも開かれた。
この時は、連歌会の後、茶懐石が持て成され、続く宴の席では京で評判の琵
琶法師の平家語りが聴けると言う
その前日、丹波屋宗右衛門の妻女ヨシと娘ヨシコが丹後から入京していた。
連歌会と茶懐石を心を込めて持て成すためだ。
琵琶法師芳一が丹波屋京屋敷に到着すると、主と妻女が門まで迎えに出てい
た。
妻女のヨシは目の見えぬ芳一を労り、手を引いて導いて呉れた。
春爛漫の陽気のように温かい手だった、優しい心が掌を伝って芳一の心を和
ませてくれた。あの時の建礼門院徳子が思い出された。
「法師様は、・・・」と、ヨシは少し言葉を詰まらせた。
「何で御座いましょう?」
「不躾をお許し下さいませ。お目は、生まれつきなので御座いましょうか?」
「いいえ、十に成った冬に突然見えなく成りました」
ヨシの顔が青ざめた、その後見る見るうちに喜色で輝いた。もしや・・・?
「お名前を聞かせては頂けませんか?」
「芳一と申します」
「良い響きの素敵なお名前ですわ」
声が震えていた。
ヨシは迷った。名乗るべきかどうかを。
ここは一端心の内に秘めると決意した。
ヨシとヨシコの母娘は日本海に漂う小舟から、丹波屋の大船に助けられ、妻
と成り娘となったのだ。
不思議な事が有った。生まれつき目が見えなかったヨシコの目が突然見える
ようになったのだ。
ヨシコは芳一の目が見えない事と何か関係が有るのかと不安を覚えたのだ。
翌十八日、早朝から連歌会の参加者が続々と集まって来た。
明智光秀と光晴が玄関に入ってくると、ヨシが光秀の腰の物を預かり、娘ヨ
シコが光晴の刀剣を両手で拝むようにして抱きしめた。
光晴が娘を見詰めると、ヨシコは頬を染めて俯いてしまった。
そんな光景を、丹波屋で行儀修行をしていた火が垣間見ていた。今は楓と名
乗っている。
茶室で、光秀に茶を立てている丹波屋。
「宗右衛門殿、先日の話ですが、光晴には過ぎた話と存じますが、・・・」
が、の後が気になって宗右衛門は茶筅から目を外して光秀を見詰めた。
「謀反人の汚名を着せられ、惨たらしくも滅ぼされた荒木の家に嫁いでいた、
長女結衣が坂本城で哀しみに呉れておりまする」
「あれは。あまりにも御無体な仕打ちで御座いましたなあ。一族郎党、女も子
供も磔にするなど、人の成せる業では御座いません。不幸中の幸いでしたな、
明智様の結衣姫が御実家にお帰りになれたというのは」
「信長は人に有らず、魔王であるからな。結衣を帰してきたのは、この光秀を
更に追い使う魂胆」
「信長様は明智様の御器量がお分かりなのです」
前に差し出された茶碗の抹茶をうやうやしく口に運ぶ光秀、そこで大げさに
溜息を付いた。
「実は宗右衛門どの。結衣を光晴に嫁がせようと思っています。結衣を幸せに
出来るのはあの者しかいないと思っています」
「それは良う御座います。なに、丹波屋風情の商人の娘を御正室となど思うて
おりませぬ。どうか側室の一人に加えて下され。うかと口を滑らしてヨシコに
は悟られてしまいましてな、大層気に入っております」
「話は変わるが、謙信公御上洛の大号令が出たそうです。手取川で勝家軍を撃
破してから二ヶ月。・・・今頃春日山では戦支度に湧いておりましょう」
「いよいよ、・・・ですか?! 私共も励めねば成りませんな」
謙信の上洛が実現した時には、丹後の明智軍が先鋒を勤める、との密約が成
っていた。
その頃、光晴は別室で控えていた。
襖の開く音がして、絹擦れの音が近づいて来た。
その若い女中は、光晴の前に抹茶を置いた。
茶碗を取り上げる光晴を穴の開くほど見詰めている娘。
「わたくしが立てましたのよ」
「有り難く頂戴いたします」と、抹茶を一口飲んで顔を顰めた。恐ろしく苦か
ったのだ。
「おいしう御座いましょう」
「はい」と言って、光晴も娘を見て小首を傾げた。
「お世辞と嘘はいけませぬ」
娘が笑った。
ようやく火だと気付く光晴。なんという娘だ、変幻自在、狐狸の類いかも知
れない。
煌々と篝火が庭園と舞台を浮かび上がらせ、夜桜が乱舞を見せる中、芳一の
平家語りが始まった。
♪ 祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり
観る者は皆、それぞれの想いの中で傾聴している。
芳一の実母ヨシは名乗り合わぬ長男の琵琶と謡いに涙を溢れさしていた。
ヨシの夫・宗右衛門、実は桓武平氏の子孫だった。夢枕にたった建礼門院徳
子の訴えで、芳一の訪問は前もって知っていた。また、土岐源氏の明智光秀の
支援をするのは奇縁とは言え、全身全霊で明智氏を援助する覚悟が有った。ヨ
シコを光晴の側室にと請うたのは本心からである。
♪ 沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす
散花が風に舞った。
花の気配を感じた芳一が眼を開いた。何も見えなかったが、家族との再会
が、尼御前の予言として実現すると念じ、信じていた。
今は翠と名乗っている林は、これは運命の出会いだと確信した。今までにこ
んなに胸がときめいた事は無かった。ああ! 法師様の眼となってお護りした
いと願った。
突然、芳一の琵琶が激情のままに、荒々しくかき鳴らされた。
♪ 驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。猛き者もつひには滅びぬ
稚葉と名乗っている風がそっと光秀の袖を引いた。
光秀が風を見返ると、悲痛な面持ちで見詰めていた。
また、琵琶が凪のそよ風の如くに静まった。
♪ 偏に風の前の塵に同じ
別室で、風が光秀に唯ならぬ形相で口を開いた。
「ただ今急使が参りました。お屋形様が、謙信公が病を得、昏睡状態に陥った
との事」
「なに! 本当か?」
風の顔が不安でおののいていた。
「我ら三人は春日山に急行して真偽を確かめまするので、駿馬を九頭馳走して
下さりませ。風と林と火が越後へと、今から直ぐにも立とうと思います」
「いかにも、馬など容易い用じゃ。騎馬武者の一隊でも光晴に率いさせて同行
させようぞ」
「無用に御座います。恐れながら足手纏いになりまする」
「相分かった。向後の事は、お主達の知らせを待とう」
「御免!」
溢れ出そうになる涙を断ち切って、風は雄雄しく立ち上がった
2017年2月18日 Gorou