五
その頃、火麻呂は生駒仙坊の丘陵で迷っていた。次々ともたらされる情報を
吟味しながら、襲うかどうか迷っていた。襲えば破滅と分かっていながら、激
しい衝動を抑えることが出来なかった。
襲い掛かったとき、たった一人になっているかも知れない。十分すぎるほど
の報酬を約束していたが、そんな財宝はもう手元に残っていなかった。実物を
見ずに手を貸す玉など手下にはいない。逃げればまだよし、鬼の三兄弟など、
背後から襲い掛かり、火麻呂の首で葛麻呂から報酬を強請りかねない。
一団の僧侶が僧房から現れ、行基と見られる老僧を中心にして歩いてきた。
「願い奉る御詠歌を」
鈴を鳴らしながら賛嘆を歌う僧侶たち。
「百石に、八十石そえて、給いてし、乳房のむくい、今ぞわがする」
通り過ぎる僧侶たちをみやりながら賛嘆を口ずさむ火麻呂。
そんな火麻呂をチラッと見上げる行基、仙坊の入り口の草原で立ち止まり、
傍らの一人の僧侶戒融になにやら囁いた。
火麻呂の元にやってくる僧侶。
「行基禅師がお呼びです」
筑紫の観世音寺で知り合った戒融の言葉に少しむっとする火麻呂。
それでもおとなしく戒融についていく火麻呂。日頃から行基に興味を持って
いたのだ。火麻呂の頭では、あんな年老いた僧侶のどこに何万もの難民を救う
力が有るのか理解できなかった。道を造り、橋を造り、堤防を造り、貯水池を
造り、不毛の地を開墾する、行基の社会事業の仕組みが分からなかった。だが
本心ではとてつもなく偉い坊主だと感心していたのだ。
草原の石に腰をかけて火麻呂を待っている行基。
「座りなさい」
前の石を見ながら穏やかな口調で言う行基。
おとなしく座る火麻呂。
残っていた二人の僧侶と共に戒融が草の上に座禅を組んだ。
「ここにいる三人の僧侶を知っていますか?」
「一人だけ知っている」
「だったら良く覚えておきなさい」
若い方の僧侶を見る火麻呂、その二十歳を幾つか過ぎたばかりの僧侶は、火
麻呂が眼光鋭く睨めば、倍の迫力で睨み返してきた。触れれば忽ち切れてしま
いそうな刃物のような僧侶だ。武智麻呂の次男仲麻呂と雰囲気が驚くほど似て
いる、と火麻呂は思った。
もう一人の三十位の僧侶に目を移す火麻呂。穏やかな顔で火麻呂の鋭い視線
を包み込んで微笑んでいる。
最後に戒融を見た。ニコニコと笑顔で火麻呂に応えるその顔は少し精悍さを
増していた。
「知っているかも知れぬが、俺は」と、名乗ろうとする火麻呂を制して行基が
言った。
「名などどうでも良い、良く顔を見て、どんな顔をしているのか良く覚えてお
きなさい。この三人は、二十年もすれば、この日本を動かす僧侶の一人とな
る、その有り難い顔を拝んで良く覚えておきなさい」
「偉そうな事を言う前に、お坊は俺の事を知っているのか?」
「汝が火麻呂であろう」
「ふん、名前ではない、俺が何を考えているのか、何をしようとしているのか
だ」
「知らいでか。良いか火麻呂、この布施屋では働かぬ者の居場所はないぞ」
「何を言いやがる」、糞坊主とまでは口に出さぬ火麻呂。口ほどにも無いと思
ったのは確かだ。
火麻呂も手下も普段は開墾や畑仕事などに精を出していた。特に火麻呂の働
きぶりは布施屋でも一二を争っていた。
戒融に目をやる行基。
ゆっくりと頷く戒融。
「ほほう、働いておったか。だが、汝の器量ならもっと働けるぞ、己の力を尽
くさねば、働いたうちにははいらぬぞ」
「今、俺は忙しいのだ。野良仕事など出来ぬ」
「忙しいのではなく、悩んでいるのであろう」
「この吉志火麻呂に悩み事などあるものか」
「悪逆非道の漢じゃそうだな、火麻呂、そんなに焦ってどこに行こうとしてい
るのだ?」
「地獄に向かって一直線、わき目も振らずにまっしぐらに駆けている」
「気の毒だが火麻呂、地獄などどこにも無いぞ」
「本当に無いのか?」
これほどの偉い僧侶が言うのだから無いのかも知れないと思う火麻呂。
「無い」と、断言する行基。
「地獄というほどのものは、この世にもあの世にも無い」
がっくりと肩を落とす火麻呂。
「地獄が無ければ、死んだものはどこに行けば良いのだ」
「死ねば、焼かれて灰になるか、土に帰るだけだ」
火麻呂はこんな恐ろしい事を言う僧侶に初めて出会った。
「極楽に行くのがそれほど怖いのか?」
上目使いに行基を窺う火麻呂。
「怖いものか」
「安心しろ火麻呂、極楽もまたあの世には無い」
「極楽も無いのか?」
無ければ母真刀自の魂は救われぬではないか、それでは実の子に殺されかけ
た真刀自が余りにも可哀想だ。火麻呂の目に涙が溢れた。
「火麻呂、人は生きている間に救われねば成らぬ。この世に極楽を創らねばな
らぬのだ。その為に学び、施し、導かねばならぬのじゃ」
この世に極楽を創る! 何という恐ろしい事を言う坊主だ。火麻呂の頭では
到底理解出来なかった。が、わけも分からず感動した。
「火麻呂、ここに呼んだのは他でもない」
今度は優しく微笑みながら言う行基。
「貴方が先ほど覚えたいと思った歌を教える為です」
驚く火麻呂、矢張りこの僧侶は人の心が読めるのだ。
鈴を鳴らし、静かに歌いだす行基。
「百石に、八十石そえて」
ともに歌う二人の僧侶。
戒融だけが、火麻呂の耳元で囁くように歌った。
「給いてし、乳房のむくい、今ぞわがする」
繰り返す行基。
今度は火麻呂も歌った。
「百石に、八十石そえて、給いてし、乳房のむくい、今ぞわがする」
歌い終わると、静かに立ち上がる行基。三人の僧侶を従えて街道を京師に向
けて歩き出した。
見送りながら思考を巡らす火麻呂、何事かを決意して立ち上がった。
「有ろうと無かろうと、俺は地獄に向かってまっしぐらに駆け続けて見せる」
と、呟き、通り過ぎてしまった葛麻呂一行の先回りをする為に、生駒山に向
かって走り出した。
走る火麻呂の方に振り返る行基。
「悪に強ければ善にも強い。あの男の魂を救えば、計り知れない力を手に入れ
る事が出来ます」
従う三人もまた火麻呂に振り返り、夫々に頷いた。
地獄に向かって駆け抜ける火麻呂を見送る四人の僧侶。
菩薩と謳われた行基。
若き日の快僧弓削道鏡。
薬師寺義淵僧正最大の後継者、東大寺初代別当良弁。
そして三十年もの間唐土を行脚することとなる宇佐の僧侶戒融である。
道鏡と良弁は行基の知識を継承し、一番凡庸な戒融が夢を継いだ。
平城(良奈)と摂津(阪大)を結ぶ最古の官道の一つ、暗越街道は行基布施
屋のある生駒の山裾を右に見ながら暗峠へと上っている。
街道が山道になると、急に道幅が狭まり、牛車がようやく通れる程の幅しか
無かった。左右を守っていた騎兵も前後に分かれた。
平城を出る頃、異様に張り切って騎乗の人となっていた葛麻呂だったが、早
くも疲れて牛車に逃げ込んできた。
馬鹿面で眠り呆ける葛麻呂を見やる雅、火麻呂の最大の標的が毛虫の傍にい
る事が不安でならなかった。外を窺うと、伊勢参りの帰りと思われる巡礼たち
が岩壁に這い蹲るようにして牛車の通り過ぎるのを待っている。
そんな巡礼まで疑いの目で見てしまう雅。こんな所で襲われてしまったら大
混乱を起こしてしまう。雅の不安が増した。しかし、期待しているのかも知れ
ない。
いつの間にか暗峠を越えていた。攝津に入ってすぐ、竹薮と崖から出来た、
墓道のような切通が前方に見えて来た。
雅も鹿人も、襲ってくるならここだ、と直感した。
半数の兵士を先行させ、切通の警護を固める鹿人、騎兵に前後を守られた牛
車を真っ先に通した。
切通の中は真っ暗で当に地獄に続く隧道のようだった。
切通を過ぎると左側に草原が広がり、大勢の農夫が開墾に精を出していた。
右側には切り立つ崖が聳え、崖の上で二人の樵が丸太を積み上げていた。
草原の端の二股道路の手前で後続を待つ雅の牛車。
眠りこける葛麻呂も、雅も、まさかこの草原の斜面で神隠しにあった郡司小
幡猪足が土になっているとは、夢にも思わなかった。
後続が続々と到着し、殿を務めた鹿人も切通から姿を現した。
崖を見上げる鹿人。
集積作業を続けている二人の樵、長身と巨漢、蛇火裟麻呂と槌麻呂かも知れ
ない。
戦慄を覚える鹿人、あの丸太を頭上から降らされたらどうなっていたか分か
らない。
草原では相変わらず農夫が開墾作業を続けている、積み上げられた草や土砂
の陰に武具が隠されているに違いない。ここまで準備を整えていながらなぜ襲
ってこなかったのだろう? 鹿人の疑問はすぐ解けた。難波からの街道を百人
ほどの武装した佐伯軍団が上ってきたのだ。
鹿人と十人の騎兵だけを残して、葛麻呂一行は近江へと続く右側の街道を降
りていった。
「鹿人殿、矢張り能登に帰るのですか?」
岐路に立つ鹿人の元に騎馬の将官が駆けつけ、笑みを浮かべながら話しかけ
て来た。
「おお、佐伯の、大角殿。お別れが言えず心を痛めていました」
「平城が寂しくなってしまいますなあ」と言いながら、いかにも残念そうに軍
馬の皮鎧を叩く佐伯直大角。
皮鎧を珍しそうに見詰める鹿人。
「鹿人殿はこの皮鎧を見るのは初めてですか?」
「いいえ、出羽で恐ろしい思いを致しました」
「そうでしたな。皮の裏に鋼が仕込んで有りす。これを鹿人殿が使えば当に天
下無双となりましょう。そうだ、別れの土産にこの皮鎧を馳走致します。能登
の御許に届けさせましょう」
「これは有り難い。何よりも嬉しい土産で御座います」
佐伯宿禰は大伴氏から分かれたという伝承を持ち、宮城南面東の佐伯門を守
る門号氏族である。ただし、大角の佐伯直は宿禰の佐伯氏に属してはいるが、
捕虜となった蝦夷を祖先としていた可能性が大きい。軍馬の皮鎧は高句麗系の
民族が使うことで知られ、高句麗の傭兵だった靺鞨、すなわち蝦夷の幾つかの
部族がこの皮鎧を用いた。
ザツザツザッザッ! 軍靴を轟かせて佐伯軍団が岐路を右折し、駆け足で京
師へと向かった。
その中に、佐伯の傭兵に成り下がった泥麻呂と蟷螂が混じっていた。
「泥麻呂様、あいつ等この草原全部を掘り返すつもりじゃないでしょうね」
「掘り返したところで、猪も人も土になれば分かるものか」
囁きあいながら切通に消える二人。
「それでは御免!」
馬を駆けさせて軍団を追う大角。
見送った鹿人が近江のほうを振り返って、葛麻呂一行が十分に遠ざかったこ
とを確認した。
「草原に向かって突撃態勢!」
鹿人の号令で横隊を組んで草原に向かって態勢を整える騎兵、一斉に槍を突
き出した。
その一人から槍を受け取った鹿人、一騎で草原の中に悠然と馬を乗り入れ
た。
何事も無かったのように働き続けていた開墾の農夫たちに緊張が走り、働く
手を止めて鹿人と騎兵の方を窺って身構えた。
うずたかく積み上げられた草の端を槍の柄でほじくる鹿人。
草の中から姿を現す数々の武具。
槍を草原に突き立てた鹿人が崖の方に振り返った。
「ウオーッ!」
二匹の鬼が斧を振りかざして吼えている。鹿人を威嚇し、侮蔑し、挑発して
いるのだ。
弓に矢を番える鹿人。
慌てて丸太の陰に身を潜める蛇火裟麻呂と槌麻呂。
崖に向かって矢を放つ鹿人、その行方も見届けず、再び槍を取って草原の奥
へと馬を歩ませた。
丸太に突き刺さる矢。
丸太の陰から恐る恐る顔を出した二匹の鬼が、鹿人が弓を肩に駆けているの
を見届けて丸太の上で仁王立ちになった。
蛇火裟麻呂が草原の南火血麻呂に首を振って、やってしまえとばかりに合図
を送った。
「やるか? キツネ」
「はやまるなナカチ、やるときは一人でも生かしては破滅だ」
「ハハハ、皆殺しにしてくれようぞ」
「五人がかりで一人をやる。馬を狙って引き摺り下ろせばなんとかなる」
囁きあう南火血麻呂と狐麻呂。
般若党の面々が、そろりそろりと武具の方に歩み寄って行く。
草原の中ほどで馬を留める鹿人、大の字になって寝転んでいる火麻呂に言葉
を投げた。
「汝が火麻呂か?」
悠然と寝転んだまま空を眺めている火麻呂。
火麻呂の腹に槍を突きつける鹿人。
「義賊とかほざいているが哀れなものじゃのう、防人と役夫の成れの果てが般
若党であろうが」
ゆっくりと半身を起こす火麻呂。
鹿人の槍が火麻呂の腹から胸、そして首筋えと上がって行く。
「火麻呂、我が顔を忘れるで無いぞ。この鹿人が守る能登国衙は難攻不落であ
る。能登に一歩でも足を踏み入れたなら、その首必ずや我が太刀の餌食にして
くれようぞ。大それた企みなど忘れてしまえ」
「面白い! 今からやってみるか? 気の毒だが勝ち目は無いぞ。なぜ軍団が
いる間に挑んでこなかった」
「ハハハ! 盗賊の退治など、この鹿人一人で十分じゃ! 慈悲をもってこの
度だけは見逃してやる。だが、あの三匹の鬼だけは許すことは出来ぬ、必ず鬼
退治にこの熊来鹿人が戻って参る」
火麻呂の首から槍先をはずして清々しく微笑む鹿人。
「鬼の首を三つ、それまで汝に預けておこうぞ、火麻呂! さらばじゃ!」
鐙を蹴る鹿人、慌てて武具を取る般若党の面々を槍で振り払って草原から街
道に踊り出、近江に向かって駆け抜けた。
慌てて鹿人を追う十人の騎兵。
2016年12月11日 Gorou
その頃、火麻呂は生駒仙坊の丘陵で迷っていた。次々ともたらされる情報を
吟味しながら、襲うかどうか迷っていた。襲えば破滅と分かっていながら、激
しい衝動を抑えることが出来なかった。
襲い掛かったとき、たった一人になっているかも知れない。十分すぎるほど
の報酬を約束していたが、そんな財宝はもう手元に残っていなかった。実物を
見ずに手を貸す玉など手下にはいない。逃げればまだよし、鬼の三兄弟など、
背後から襲い掛かり、火麻呂の首で葛麻呂から報酬を強請りかねない。
一団の僧侶が僧房から現れ、行基と見られる老僧を中心にして歩いてきた。
「願い奉る御詠歌を」
鈴を鳴らしながら賛嘆を歌う僧侶たち。
「百石に、八十石そえて、給いてし、乳房のむくい、今ぞわがする」
通り過ぎる僧侶たちをみやりながら賛嘆を口ずさむ火麻呂。
そんな火麻呂をチラッと見上げる行基、仙坊の入り口の草原で立ち止まり、
傍らの一人の僧侶戒融になにやら囁いた。
火麻呂の元にやってくる僧侶。
「行基禅師がお呼びです」
筑紫の観世音寺で知り合った戒融の言葉に少しむっとする火麻呂。
それでもおとなしく戒融についていく火麻呂。日頃から行基に興味を持って
いたのだ。火麻呂の頭では、あんな年老いた僧侶のどこに何万もの難民を救う
力が有るのか理解できなかった。道を造り、橋を造り、堤防を造り、貯水池を
造り、不毛の地を開墾する、行基の社会事業の仕組みが分からなかった。だが
本心ではとてつもなく偉い坊主だと感心していたのだ。
草原の石に腰をかけて火麻呂を待っている行基。
「座りなさい」
前の石を見ながら穏やかな口調で言う行基。
おとなしく座る火麻呂。
残っていた二人の僧侶と共に戒融が草の上に座禅を組んだ。
「ここにいる三人の僧侶を知っていますか?」
「一人だけ知っている」
「だったら良く覚えておきなさい」
若い方の僧侶を見る火麻呂、その二十歳を幾つか過ぎたばかりの僧侶は、火
麻呂が眼光鋭く睨めば、倍の迫力で睨み返してきた。触れれば忽ち切れてしま
いそうな刃物のような僧侶だ。武智麻呂の次男仲麻呂と雰囲気が驚くほど似て
いる、と火麻呂は思った。
もう一人の三十位の僧侶に目を移す火麻呂。穏やかな顔で火麻呂の鋭い視線
を包み込んで微笑んでいる。
最後に戒融を見た。ニコニコと笑顔で火麻呂に応えるその顔は少し精悍さを
増していた。
「知っているかも知れぬが、俺は」と、名乗ろうとする火麻呂を制して行基が
言った。
「名などどうでも良い、良く顔を見て、どんな顔をしているのか良く覚えてお
きなさい。この三人は、二十年もすれば、この日本を動かす僧侶の一人とな
る、その有り難い顔を拝んで良く覚えておきなさい」
「偉そうな事を言う前に、お坊は俺の事を知っているのか?」
「汝が火麻呂であろう」
「ふん、名前ではない、俺が何を考えているのか、何をしようとしているのか
だ」
「知らいでか。良いか火麻呂、この布施屋では働かぬ者の居場所はないぞ」
「何を言いやがる」、糞坊主とまでは口に出さぬ火麻呂。口ほどにも無いと思
ったのは確かだ。
火麻呂も手下も普段は開墾や畑仕事などに精を出していた。特に火麻呂の働
きぶりは布施屋でも一二を争っていた。
戒融に目をやる行基。
ゆっくりと頷く戒融。
「ほほう、働いておったか。だが、汝の器量ならもっと働けるぞ、己の力を尽
くさねば、働いたうちにははいらぬぞ」
「今、俺は忙しいのだ。野良仕事など出来ぬ」
「忙しいのではなく、悩んでいるのであろう」
「この吉志火麻呂に悩み事などあるものか」
「悪逆非道の漢じゃそうだな、火麻呂、そんなに焦ってどこに行こうとしてい
るのだ?」
「地獄に向かって一直線、わき目も振らずにまっしぐらに駆けている」
「気の毒だが火麻呂、地獄などどこにも無いぞ」
「本当に無いのか?」
これほどの偉い僧侶が言うのだから無いのかも知れないと思う火麻呂。
「無い」と、断言する行基。
「地獄というほどのものは、この世にもあの世にも無い」
がっくりと肩を落とす火麻呂。
「地獄が無ければ、死んだものはどこに行けば良いのだ」
「死ねば、焼かれて灰になるか、土に帰るだけだ」
火麻呂はこんな恐ろしい事を言う僧侶に初めて出会った。
「極楽に行くのがそれほど怖いのか?」
上目使いに行基を窺う火麻呂。
「怖いものか」
「安心しろ火麻呂、極楽もまたあの世には無い」
「極楽も無いのか?」
無ければ母真刀自の魂は救われぬではないか、それでは実の子に殺されかけ
た真刀自が余りにも可哀想だ。火麻呂の目に涙が溢れた。
「火麻呂、人は生きている間に救われねば成らぬ。この世に極楽を創らねばな
らぬのだ。その為に学び、施し、導かねばならぬのじゃ」
この世に極楽を創る! 何という恐ろしい事を言う坊主だ。火麻呂の頭では
到底理解出来なかった。が、わけも分からず感動した。
「火麻呂、ここに呼んだのは他でもない」
今度は優しく微笑みながら言う行基。
「貴方が先ほど覚えたいと思った歌を教える為です」
驚く火麻呂、矢張りこの僧侶は人の心が読めるのだ。
鈴を鳴らし、静かに歌いだす行基。
「百石に、八十石そえて」
ともに歌う二人の僧侶。
戒融だけが、火麻呂の耳元で囁くように歌った。
「給いてし、乳房のむくい、今ぞわがする」
繰り返す行基。
今度は火麻呂も歌った。
「百石に、八十石そえて、給いてし、乳房のむくい、今ぞわがする」
歌い終わると、静かに立ち上がる行基。三人の僧侶を従えて街道を京師に向
けて歩き出した。
見送りながら思考を巡らす火麻呂、何事かを決意して立ち上がった。
「有ろうと無かろうと、俺は地獄に向かってまっしぐらに駆け続けて見せる」
と、呟き、通り過ぎてしまった葛麻呂一行の先回りをする為に、生駒山に向
かって走り出した。
走る火麻呂の方に振り返る行基。
「悪に強ければ善にも強い。あの男の魂を救えば、計り知れない力を手に入れ
る事が出来ます」
従う三人もまた火麻呂に振り返り、夫々に頷いた。
地獄に向かって駆け抜ける火麻呂を見送る四人の僧侶。
菩薩と謳われた行基。
若き日の快僧弓削道鏡。
薬師寺義淵僧正最大の後継者、東大寺初代別当良弁。
そして三十年もの間唐土を行脚することとなる宇佐の僧侶戒融である。
道鏡と良弁は行基の知識を継承し、一番凡庸な戒融が夢を継いだ。
平城(良奈)と摂津(阪大)を結ぶ最古の官道の一つ、暗越街道は行基布施
屋のある生駒の山裾を右に見ながら暗峠へと上っている。
街道が山道になると、急に道幅が狭まり、牛車がようやく通れる程の幅しか
無かった。左右を守っていた騎兵も前後に分かれた。
平城を出る頃、異様に張り切って騎乗の人となっていた葛麻呂だったが、早
くも疲れて牛車に逃げ込んできた。
馬鹿面で眠り呆ける葛麻呂を見やる雅、火麻呂の最大の標的が毛虫の傍にい
る事が不安でならなかった。外を窺うと、伊勢参りの帰りと思われる巡礼たち
が岩壁に這い蹲るようにして牛車の通り過ぎるのを待っている。
そんな巡礼まで疑いの目で見てしまう雅。こんな所で襲われてしまったら大
混乱を起こしてしまう。雅の不安が増した。しかし、期待しているのかも知れ
ない。
いつの間にか暗峠を越えていた。攝津に入ってすぐ、竹薮と崖から出来た、
墓道のような切通が前方に見えて来た。
雅も鹿人も、襲ってくるならここだ、と直感した。
半数の兵士を先行させ、切通の警護を固める鹿人、騎兵に前後を守られた牛
車を真っ先に通した。
切通の中は真っ暗で当に地獄に続く隧道のようだった。
切通を過ぎると左側に草原が広がり、大勢の農夫が開墾に精を出していた。
右側には切り立つ崖が聳え、崖の上で二人の樵が丸太を積み上げていた。
草原の端の二股道路の手前で後続を待つ雅の牛車。
眠りこける葛麻呂も、雅も、まさかこの草原の斜面で神隠しにあった郡司小
幡猪足が土になっているとは、夢にも思わなかった。
後続が続々と到着し、殿を務めた鹿人も切通から姿を現した。
崖を見上げる鹿人。
集積作業を続けている二人の樵、長身と巨漢、蛇火裟麻呂と槌麻呂かも知れ
ない。
戦慄を覚える鹿人、あの丸太を頭上から降らされたらどうなっていたか分か
らない。
草原では相変わらず農夫が開墾作業を続けている、積み上げられた草や土砂
の陰に武具が隠されているに違いない。ここまで準備を整えていながらなぜ襲
ってこなかったのだろう? 鹿人の疑問はすぐ解けた。難波からの街道を百人
ほどの武装した佐伯軍団が上ってきたのだ。
鹿人と十人の騎兵だけを残して、葛麻呂一行は近江へと続く右側の街道を降
りていった。
「鹿人殿、矢張り能登に帰るのですか?」
岐路に立つ鹿人の元に騎馬の将官が駆けつけ、笑みを浮かべながら話しかけ
て来た。
「おお、佐伯の、大角殿。お別れが言えず心を痛めていました」
「平城が寂しくなってしまいますなあ」と言いながら、いかにも残念そうに軍
馬の皮鎧を叩く佐伯直大角。
皮鎧を珍しそうに見詰める鹿人。
「鹿人殿はこの皮鎧を見るのは初めてですか?」
「いいえ、出羽で恐ろしい思いを致しました」
「そうでしたな。皮の裏に鋼が仕込んで有りす。これを鹿人殿が使えば当に天
下無双となりましょう。そうだ、別れの土産にこの皮鎧を馳走致します。能登
の御許に届けさせましょう」
「これは有り難い。何よりも嬉しい土産で御座います」
佐伯宿禰は大伴氏から分かれたという伝承を持ち、宮城南面東の佐伯門を守
る門号氏族である。ただし、大角の佐伯直は宿禰の佐伯氏に属してはいるが、
捕虜となった蝦夷を祖先としていた可能性が大きい。軍馬の皮鎧は高句麗系の
民族が使うことで知られ、高句麗の傭兵だった靺鞨、すなわち蝦夷の幾つかの
部族がこの皮鎧を用いた。
ザツザツザッザッ! 軍靴を轟かせて佐伯軍団が岐路を右折し、駆け足で京
師へと向かった。
その中に、佐伯の傭兵に成り下がった泥麻呂と蟷螂が混じっていた。
「泥麻呂様、あいつ等この草原全部を掘り返すつもりじゃないでしょうね」
「掘り返したところで、猪も人も土になれば分かるものか」
囁きあいながら切通に消える二人。
「それでは御免!」
馬を駆けさせて軍団を追う大角。
見送った鹿人が近江のほうを振り返って、葛麻呂一行が十分に遠ざかったこ
とを確認した。
「草原に向かって突撃態勢!」
鹿人の号令で横隊を組んで草原に向かって態勢を整える騎兵、一斉に槍を突
き出した。
その一人から槍を受け取った鹿人、一騎で草原の中に悠然と馬を乗り入れ
た。
何事も無かったのように働き続けていた開墾の農夫たちに緊張が走り、働く
手を止めて鹿人と騎兵の方を窺って身構えた。
うずたかく積み上げられた草の端を槍の柄でほじくる鹿人。
草の中から姿を現す数々の武具。
槍を草原に突き立てた鹿人が崖の方に振り返った。
「ウオーッ!」
二匹の鬼が斧を振りかざして吼えている。鹿人を威嚇し、侮蔑し、挑発して
いるのだ。
弓に矢を番える鹿人。
慌てて丸太の陰に身を潜める蛇火裟麻呂と槌麻呂。
崖に向かって矢を放つ鹿人、その行方も見届けず、再び槍を取って草原の奥
へと馬を歩ませた。
丸太に突き刺さる矢。
丸太の陰から恐る恐る顔を出した二匹の鬼が、鹿人が弓を肩に駆けているの
を見届けて丸太の上で仁王立ちになった。
蛇火裟麻呂が草原の南火血麻呂に首を振って、やってしまえとばかりに合図
を送った。
「やるか? キツネ」
「はやまるなナカチ、やるときは一人でも生かしては破滅だ」
「ハハハ、皆殺しにしてくれようぞ」
「五人がかりで一人をやる。馬を狙って引き摺り下ろせばなんとかなる」
囁きあう南火血麻呂と狐麻呂。
般若党の面々が、そろりそろりと武具の方に歩み寄って行く。
草原の中ほどで馬を留める鹿人、大の字になって寝転んでいる火麻呂に言葉
を投げた。
「汝が火麻呂か?」
悠然と寝転んだまま空を眺めている火麻呂。
火麻呂の腹に槍を突きつける鹿人。
「義賊とかほざいているが哀れなものじゃのう、防人と役夫の成れの果てが般
若党であろうが」
ゆっくりと半身を起こす火麻呂。
鹿人の槍が火麻呂の腹から胸、そして首筋えと上がって行く。
「火麻呂、我が顔を忘れるで無いぞ。この鹿人が守る能登国衙は難攻不落であ
る。能登に一歩でも足を踏み入れたなら、その首必ずや我が太刀の餌食にして
くれようぞ。大それた企みなど忘れてしまえ」
「面白い! 今からやってみるか? 気の毒だが勝ち目は無いぞ。なぜ軍団が
いる間に挑んでこなかった」
「ハハハ! 盗賊の退治など、この鹿人一人で十分じゃ! 慈悲をもってこの
度だけは見逃してやる。だが、あの三匹の鬼だけは許すことは出来ぬ、必ず鬼
退治にこの熊来鹿人が戻って参る」
火麻呂の首から槍先をはずして清々しく微笑む鹿人。
「鬼の首を三つ、それまで汝に預けておこうぞ、火麻呂! さらばじゃ!」
鐙を蹴る鹿人、慌てて武具を取る般若党の面々を槍で振り払って草原から街
道に踊り出、近江に向かって駆け抜けた。
慌てて鹿人を追う十人の騎兵。
2016年12月11日 Gorou
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