アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

記憶の旅 六 丘の上のマリア

2018-04-02 17:34:49 | 物語
六 丘の上のマリア

 いざ行かん、記憶の旅へ。我に続け。

 男が窓から降ってきた時。丸山さんと小早川さんは屋上にいた。
 二人の話を交互に聞かされて、僕はそれが記憶になってしまった。

 保護直後、僕は七八人の精神科医をたらい回しにされ、いろいろな事を聞か
れ、いろいろな意見を聞かされた」
「あなたは記憶喪失では有りません。記憶喪失というのは、二三時間から十日
ほどで記憶が戻ります。どのくらいたちますか?」
「どのくらい?」
「記憶の無いのに気がついてから」
「たぶん・・・一月位かな」
 あまり自信が無かった。
「やはり・・・、あなたの病気は一種の記憶障害で○×△○○(難しいので覚
えられなかった)と言います」
 ショックだった。
「一生治らない・・・?」
「多分。一生記憶が戻らないと覚悟してください」
 多分・・・? 無責任な医者だ。
 他の精神科医がこんな事を言った。
「あまり記憶に囚われて、無理に鍵を開けようとすると・・・」
「開ける?」
「すると、あなたの脳の回路がショートして、本当の精神病患者なってしまい
ます」
 精神病? 今と変わらないじゃ無いか。
「で・・・?」
「悪ければ自殺に至ります」
 自殺? あの男のように飛び降りてしまうのだろうか?
 これも僕の記憶の一部になった。
 だが、記憶の旅を続けないなんて出来ない。

 そう、男が降ってきたあの時。
 二人(丸山さんと小早川さん)はこんな話をしていたそうだ。
 タバコを吸いながら暫く睨み合っていた。
 百七十五センチのひょろひょろ丸山さんは、百八十五センチの逞しい肢体の
持ち主、小早川さんに睨まれてビビっていたそうだ。
 が、先に口を開いたのは丸山さんだ。
「俺、あんたの事覚えている。・・・俺は一度見た見た人と名前は絶対に忘れ
ないのさ。あんたデカだろう。名前は小助川」
 小早川さんは高い金網により掛かって丸山さんを手招きした。
 丸山さんが近づくと、小早川さんは首を抱え込み、こう囁いた。
「確かにあの時は刑事だった。今は刑事じゃ無い。ある事件で人を殺して服役
していた」
「だったらどうしてここに来たんだ」
「偶然」
 首を解放した小早川さんは金網を少しよじ登った。
「偶然なんかじゃ無い」
叫ぶ丸山さんの前に飛び降りた小早川さんはこう言ったそうだ。
「心配しなくていい。あんたは白さ、アリバイが完全に成立している」
「たけど、俺の血と精液があの女の下着に着いていたって聞いた」
「それは、あんたがカッターナイフで脅して女を駐車場の影に連れ込んだ時の
ものだろう? 十時頃だった」
「ああ」
「女が殺されたのは十一時半から十二時かけてさ。完全なアリバイが有った」
「女房に会ったのか?」
「ああ、事件直後と三ヶ月ほど前にね。娘さん、桃子って言うそうだね。今は
中学生になってる」
お願いだから教えて欲しい。教えて下さい。娘にだけはもう一度会いた
い」」
「忘れるんだな。・・・ここを出たら、真面目に暮らすんだ。そしたら何時
か会えるさ。俺のようにね」
「小早川さんは。真犯人を知ってるの?」
「ああ。突き止めた」
「だったら・・・?」
「もうデカじゃないし、誰も望まない。知ってるだろう? 犯人に仕立て上
げられたネパール人は去年冤罪が確定して国に帰った。彼を犯人に仕立てた
のは警視庁と殺された加藤紗智子の母親さ」
「なんの為に?」
「娘のスキャンダルをもみ消したかったのさ。加藤グループの女帝が政治家
を使って総てをもみ消した」

 二人からこの話を聞いてから、この迷宮入り事件も僕の記憶になった。
 僕は怯えた。殺されたマリアはユキコじゃないのか? 小早川さんのター
ゲットは丸山さんじゃ無くて。ぼくじゃないのか・・・と。

 千九百九十九年三月下旬。桜舞う渋谷の夜。
 道玄坂の石畳を、カッカッカッと靴音高く颯爽と闊歩する一人の女性がい
た。十センチ程も有ろうかのハイヒールで大股に歩き、真紅のスプリングコー
トの裾を翻してその坂(道玄坂)を登っていく。まるで小さな旅女〔たびびと〕
が如くエルメスのトートバッグを肩にかけ、亜麻色の長い髪を風になびかせて
いた。
 彼女の華麗な容姿、真紅のコート、そして黒のエルメスとが盛り場の宵に輝
くばかりに映えた。
年のころ二十歳前後と見える彼女はいつものごとく、甲高
い声で歌を口ずさんでいた。
「ロクサーヌ」
 ポリス〔スティング〕の歌であったが、誰にもそのようには聞こえなかっ
た。恐ろしい程の音痴だったからである。

 ポリスのロクサーヌの概要を言えば。
 南米かどこかの場末の街娼に激しく恋をした男の心情を歌いあげたもので、

ロクサーヌ!
 今夜は髪を結いあげないでおくれ  客を拾うのもやめておくれ
 君にはどうだっていいじゃないか ロクサーヌ!
 今夜はそんなドレスで着飾らないでおくれ
 ロクサーヌ! 今夜は客を取らないでおくれ

「お兄さん、お茶しない」
 彼女はすれ違う男という男に、明るく高い声で話しかける。
「お兄さん、遊ぼうよ」
 男という男、彼女にとって老人であっても若者であっても、英・米人、フラ
ンス人、ドイツ、スペイン、ロシア、どの国の男でもかまわなかった。
 通称、円山町のマリアと呼ばれていた彼女はなんと十数ヶ国語を理解してい
たのである。
 外国人が何語で声をかけても即座に反応した、が、彼女の口から吐き出され
るのは嬌声と日本語だけだった。彼女は会話が苦手だった、それ以上に嫌悪し
ていた。
 音痴と会話が苦手という事の関連は筆者には良く分からない。どちらも真似
と言えば言えた。あるいは多少の関係が成立しているのかも知れない。彼女
(丸山町のマリア)は真似という事を極端に嫌い、激しく憎悪していた。

 彼女が道玄坂で客を拾うなどという幸運はほとんどなかった。
 道玄坂上の交番を必ず右折して、彼女は自分の猟場である丸山町に入って行
く。
「ずいぶん暖かくなったわね。もう春よ」という具合に交番の巡査に声をかけ
る。まるで彼女自身が佐保神になって春を呼んできたように声をかけるのだ。
 声を掛けられた巡査(彼らは皆彼女がマリアと呼ばれている街娼である事を
知っていた)はやや顔を顰めるか苦笑を浮かべる。赴任したての若い巡査な
ど、彼女の華やかさにうろたえて顔を赤らめたりするのだ。
 カッカッカッカッ! 円山町をマリアは漁る、獲物を、客を。相変わらずロ
クサーヌを口ずさんでいた。
「マリア!」
 その筋と思われる男がマリアに声をかけた。
「この間の話、考えてくれたかい」
ひとひらの桜が風に待ってマリアの頬に止まった。
「あらっ、サブちゃん、何だったかしら?」
 立ち止り、振り返ってマリアが男に聞き返した。
「うちの組は渋谷の連中」
 男はそう言って拳を額に当てて言った。
「奴等にだって顔が訊くんだ。お前みたいな商売は一人でやるには危ないぜ」
「大丈夫よ。あたしにはいつだって覚悟が出来ているわ。それよりどう?」
 街灯に照らされたマリアの瞳が青く光っていた。
「よせやい、おれは女なんぞに不自由はしてねえ」
「あらまあ、そのお面相で良く言うわね。あたしのほうが御免さ」
 笑いながらそう言うと、踵を返してまた歩き始めた。そのマリアの瞳が今度
はエメラルドグリーンに煌いた。頬の桜の花弁が頬から夜空に向かって旅立っ
た。
 マリアを他人はおそらくハーフではないかという、数ヶ国語〔実際は十数ヶ
国語〕を解し、青い瞳と亜麻色の髪を持っていたからである。
  あたしのほうが御免さ、と毒づかれた男はマリアに対して腹を立てなかっ
た。今夜だけでなくいつもである。マリアが明るくあまりにもあっけらかんと
していたからである。

 マリアは円山町ではドナウというラブホテルをたいていは使っていた。定宿
のように使うことで利益があるからだったが、なぜドナウでなければいけない
のか自分でも良く分からなかった。かすかな理由を探せば、美しく青きドナウ
というワルツに魅せられていたからからも知れない。現実のラブホテルドナウ
からはとうてい美しく青きドナウという連想は起こしようもなく裏寂れて薄汚
れていた。
 円山町には川はおろかどぶ川でさえ存在しなかった。このドナウ川のさざ波
という歌詞からはせいぜい江戸川か隅田川を連想させることが出来た。

 彼女の一日の目標は稼いだ金額ではなかった。最低三人、出来れば四人。と
自分自身に言い聞かせその達成に向かって懸命に励んだ。
 一日の旅の終わり近く、マリアは必ずといって良い程、神仙駅近くのコンビ
にによっておでんと野菜サンドを買う。おでんの種は決まってコンニャクか糸
コンニャクで、汁をたっぷりとかけ、からしを数袋要求した。たいていの場
合、レジで百円玉を千円札に、千円札を万札に両替した。
 井の頭線神仙駅を渋谷発の終電が発着した前後にその踏み切りを必ず渡っ
た。
 渡りきって松涛方面に向かって、今度は密やかに、足音を忍ばせて歩き始め
ると彼女の歌が変わる。
「ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン!」
 エイズでこの世を去ったフレディ・マーキュリーの歌である。
「ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン!」
 空しい中なんで生きるか? 見放されて先が見えてきた。それでも、わかる
か、ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン!、舞台は続けねばならない。今日が終
われば明日、明日が終わればその次の日、来る日も来る日も、ザ・ショウ・マ
スト・ゴー・オン! ショウを続けねばならないのだ。
 ある意味では彼女は流離女であり、女優であったのかも知れない。

 松涛町に入ると、彼女は立止まって円山町を苦渋に満ちた顔で振り返った。
 ラブホテル街のケバケバとしたネオンの上天に清らかな星が煌き、十六夜う
月が輝いていた。
 魂を振り絞るようにして、低い声でマリアが叫ぶように呟いた。
「ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン!」
 
 四月五日、円山町のボロアパートで彼女の死体が発見された。殺されたのは
十日ほど前の三月二十八日。奇しくも彼女の誕生日だった。二十歳を幾つか過
ぎたと思われていたマリアは、三十八才のOLで丸山町と目と鼻の先、高級住
宅街・松濤の住人だった。

 GOROU
 2018年3月22日


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