ONE FINE DAY

「昨日のことは忘れてほしい」
「もう遅い。日記に書いた」

Samuel Palmer

2007-05-31 | 美術
なんだかすっかりアート大好き系のブログになってしまいました(笑)
若い頃から絵を見るのは好きでした。
ムンクやホドラーの展覧会に行って感動したことを覚えています。
でも一番大きな衝撃は、数年前に娘といっしょに上野の美術館で、
レンブラントの自画像を見たこと。

絵の前から離れられなくなって、何故か涙がぽろぽろ流れました。
絵の中のレンブラントはじっと私を見て、
「いいんだよ、大丈夫だよ、なんとかなるよ」と、
優しく語りかけているようでした。
何かとてつもなく大きな暖かいものに包まれたような気持ちになりました。
絵のもつ力の凄さを実感しました。
そのとき、何人もの人が私と同じようにその絵の前で動けなくなっていました。
それから、娘が美術の勉強をしていたことや、
姉がかなりの美術番組おたくだったこともあって、
さらに意識的に絵を見るようになりました。
ロンドンの美術館めぐりも拍車をかけてくれました。

4月からパートの仕事を始めて、やけに現実的な疲労困憊の毎日を過ごす中で、
気がつくと絵のことを考えている自分がいました。
これは一種の現実逃避かなという気がしないでもない。
でも好きなものは好き。そうやって日々過ごせるならそれもいい。
そう思っています。

ところで、昨日図書館で何気なく手にした本にサミュエル・パ-マ-が載っていました。
そこには、
青年期にブレークに深く傾倒し、ショーラムの谷間におよそ10年を過ごした。この時代の作品は牧歌的あるいは宗教的な主題を豊かな想像力で描いたもので、神秘主義的な色彩にいろどられている。その地を離れてからは堅実な写実の風景画に帰っていった。水彩画も多い。
とありました。
さすがイギリスの画家!(笑)
クールベさんより14年前に生まれ、
クールベさんより4年長生きしました。
まさに同時代を生きた画家のひとりです。
オクスフォードの美術館に彼の絵があります。
いつか必ず行って、彼の絵を見たいものです。



岩波新書「クールベ」

2007-05-30 | 美術
岩波新書・坂崎 坦(しずか)著「クールベ」を読む。

30年も前に発売された本だが、文章も読みやすく内容も充実していて、読み始めたらとまらず一気に読み終えた。「好きな画家はドラクロアとクールベ」という著者のクールベへの共感と愛情がそこかしこにうかがえて、それがこの本をただの画家の評伝に終わらせない独特のものにしていると感じた。
この本が取り上げているのはクールベの画家としての在り方と彼の作品がその時代にどう評価されたかということなので、彼の私生活はみえてこない。たぶん資料ものこっていないのだろう。クールベは終生独身で絵に生涯を捧げた人であったようだ。たっぷりの才能を授かって画家になるために生まれてきた人という印象を受けた。長身で肩幅広くがっしりした体格でまあまあの美青年。しかし、クールベが若い頃に自画像を何枚も描いたのは、彼がナルシストだったからではなく、パリに出てからは涙ぐましいほどの節約生活だったのでモデルも雇えず仕方なく自分を描いたというのが真相のようだ。
時は新古典主義のアングルとロマン主義のドラクロワの2大勢力全盛のパリ画壇。これだけの才能があれば瞬く間にサロンデビューと思いきや、当初から写実主義を明確に打ち出したクールベの作品はそう簡単には受け入れられなかった。作品そのものも衝撃だったのに加えて、クールベの尊大・自信過剰・誇大妄想気味の物言いや態度も反感をかったらしい。これは数少ない彼を支持くれた人たちにも辟易とされるくらいかなりのものだった。
たとえば、「ベラスケス、レンブラント、そしてクールベを越えられる画家などいない」がいい例。アングルもドラクロアもあっけにとられたことだろう。美の完璧主義者アングルには忌み嫌われたが、ドラクロアは違った。本物は本物の才能を見抜く。ドラクロア日記(読みたい!)には、クールベ賞賛の文章が残っている。
 
しかし凄い時代ですよね?タイムマシンがあったらその頃のパリに行ってみたい。この目でサロン見てみたい!自信作を拒否されて破れかぶれで開いたクールベ個展の会場に行きたい!!ほとんど人が来なかったみたいだから私は毎日通いたい!だってこの時代にはアングル・ドラクロアだけじゃなくてジェリコーとかコローとかミレイとかいたはずだし、少し後には印象派の面々だって控えてる。実際、ファンタン・ラトゥールとバジールはクールベの弟子だったし、モネには経済的に援助してたし、ホイッスラーだって助けてたんですよ、クールベさんは。

 クールベの若い人々に対する態度は、その性格のように率直で、明けっ放しで、親切で、田舎者で、弟子の独創を気にするようなことは全然なく、彼としては真の優秀性を具えた青年画家を、認識し支持することにその親切を惜しまなかった。「クールベ」より

クールベの「画家のアトリエ」(↑の写真)
キャンバスの前に小さな男の子が描かれていますよね?もちろん実物は見たことありませんが、この絵を目にするたびに「なぜこんなところに子供を描いたのだろう」と思います。その子がちょこんとして画家をみている。ああ、クールベさんて優しい人なんだなぁ、暖かい人なんだなぁと。この絵を見るたびに思います。クールベさんが尊大で自信過剰だったのはきっとそうなんでしょう。でも本当に自信のある人はそれを大声にして言ったりしません。確かに自尊心は相当なものだったのでしょう。それと、著者が分析しているように若い頃父親に仕送りを頼む手紙を書くときに、いかに自分が頑張っているか、才能があるかということを大げさに書く習慣が身に付いてしまったということもあるでしょう。それに世間を騒がせたり物議を醸したりすることも決してきらいではなかった。でもこの男の子を見ると、もしかしたら本当は傷つきやすくて脆くて、そんな自分を奮い立たせるために尊大な態度をとったのかなぁなんて思うわけです。

そんなクールベさんも次第に認められ、51歳のときに、とうとう国から勲章を授けるという話が持ち上がります。これに対しクールベは勲章をもらうわけにはいかないと書いた公開文書を送りそれが新聞紙上に掲載されまたまた大騒ぎになります。「国家が芸術に干渉すべきではない」といった内容のものです。このときのあるエピソードがクールベさんという人をとてもよく表していると思います。

ある日クールベは、偶然にもドーミエと出くわした。ドーミエも同時の受勲者でありまた彼と同じく辞退者の一人である。クールベは喜びの声をあげながらドーミエの胸に頭を押しつけてこう叫んだ。「ああ・・・どんなに君が好きになったかしれん!君も叙勲を断ったんだってね!それにしても派手に断らなかったのは残念だったよ!」するとドーミエは年より老けてみえる顔をふりふり、どこか深みのある眼差しでじいっとクールベを見すえて、なじるような口調でこういった。「・・・・そんなことをして何になる!僕は自分で思ったことをしただけだ。それでよかったと思ってる。世間とは関係ないんだよ」と。「クールベ」より

クールベさんのきょとんとした顔が目に浮かぶようです。思慮深い人から見たら「なんだ、こいつは!調子にのって!」と思われても仕方ない。でも長い間不遇の時代を過ごしたクールベにしてみればそのくらい言わなきゃ気が済まないという気持ちもわかりますよね。

クールベは単純で人が好くて容易に他人の思想に支配され、熱しやすく自尊心が強く、一時の感情に駆られて一身を誤るようなことをしでかしたが、芸術の領域においては自分を偉大にする才能に恵まれていたし、その才能を意義あらしめるために努力に努力を重ねた。「クールベ」より

「単純で人が好くて容易に他人の思想に支配される」クールベさんは、否応なく政治にまきこまれていきます。普仏戦争に負けてパリ陥落。パリに留まったクールベは美術家協会の会長になり、ルーヴルの美術品の管理を任されます。そしてクールベのその後の人生を決定的なものにする、ナポレオン崇拝の象徴である円柱破壊事件が起こります。決してクールベさんが指示したのではないのですが、パリコミューン崩壊後、クールベさん一人にその責任を押しつけられ6ヶ月の投獄。投獄中に母親が死去。クールベさんも病気になり、3ヶ月の投獄の後病院に移される。

今、クールベの頭を去らぬ考えは、故郷に帰って思うさま歩き、走り、草の上をごろごろ転がることであった。彼は野の土をひとにぎりつかんで匂いを嗅ぎ、樹の腹に平手打ちをくらわせ、水洞に石を投げこみ、小川をひっかきまわすなど、少年時代に帰って自然を余すところなく食いつくすことにあった。「クールベ」より

その後スイスに亡命。失意の日々を送り58歳で病死。
なんてこったぁ!の結末です。でも、投獄中も亡命してからもクールベさんは絵を描くことは決してやめなかった。どんな失意の中でも描き続けた。彼は死ぬまで画家であった。

「僕には師匠などというものはない、絶対に!僕は自然の弟子なんだ!」


クールベさん、こんにちは。

2007-05-29 | 美術
国立西洋美術館・常設展に行ってきました。
クールベさんの絵が4点ありました。

ここにたどり着くまでにほぼ2時間。
「17世紀以前のイタリア絵画」から始まって、
「北方ルネサンス」
「17世紀のフランドル絵画」
「17世紀のオランダ、スペイン、フランス絵画」
「18世紀のさまざまな絵画」
を、メモをとりつつ堪能し、疲れ切って、
はて、私は今日ここに何を見に来たんだっけ?
思い出しました。
クールベさんじゃありませんか(笑)

「18世紀絵画」は軽く流して、
いよいよ「新古典主義から印象派の絵画」

おお!!ドラクロア!!
「墓に運ばれるキリスト」20×30くらいの小さな絵ですが、
磔の十字架からおろされて洞穴のようなところに運ばれるキリストが、
それはドラマティックに描かれていました。
「聖母の教育」も小さな絵です。
友人ジョルジュ・サンド(!)の別荘で、サンドの使用人の母子をモデルにして
描かれた絵です。こちらは優しいタッチの詩的な絵でした。

ドラクロアに感心し、
さらにコローの「ナポリの浜の思い出」特大縦長の絵にうっとりし、
やっとやっとクールベさんにたどり着き、
「罠にかかった狐」を見たとたん、もうお母さん涙ポロポロでした。
それがこの絵。

雪がうっすらと積もった地面の冷たさ、
もがく狐の緊張、
その場の冷気が伝わってきて身震いするような絵でした。
しばらく絵の前で魅入っていたら、
となりでフランス語を話すおじさまが若い青年とこの絵について熱く語り合っています。
何を言ってるかさっぱり解りませんが、たぶん、
「ごらん、この地面の描き方すごいね」とか(笑)
「さすがフランスを誇る画家だねぇ」とか(笑)
そしておじさまったらかばんの中からデジカメをとりだして、
この絵を撮りたい放題!!
えーーーー、写真撮っていいのぉ?

すぐ近くにいた美術館の方に尋ねたら、
「フラッシュなしならいいんですよ」
どーして早くそれを教えてくれないの?
バッグにデジカメ入っていて良かった!!
こうなったら私の独壇場(笑)
娘にこの絵を見せないと!
あ---でもバッテリーがちかちかしてる。
ええい、なんとしてもクールベさんだけは、これだけは撮るぞ!
・・・・の一枚でございます。はぁはぁ。
そうこうして周りを見てみると、
ここは日本の美術館?と思うくらい、
外国人ばかりで、うきうきとビデオカメラをまわしてるアメリカのおっさんとか、
カリエールの絵の前で固まってるイギリスの青年とか(どーしてわかる?)
絵を見に来たのか?と聞きたくなるくらい早足で通り過ぎていくどこかの国のカップルとか、
それはそれで面白かった。
挙げ句の果てビデオのおっさんには、
「テープをとりかえるにはどーしたらいいか知ってるか?」なんて聞かれるし、
「ごめん!知らない!」と答えたけど、
ほんとは「あなたはどうやってテープをいれたのですか?」とこっちが聞きたかった。

とまあ、そんな喧噪の中、無事「クールベさん、こんにちは」をすませ、
ロセッティも見たし、


セガンティーニ素晴らしかったし、
(何故か胸がきゅんきゅん締めつけられました)


ゴーギャンにも感動したし、


モネの睡蓮もたっぷり見れたし、
マネもピサロもシスレーも・・・・

でも今日クールベさんの次に感動したのがこの絵でした。
リュシアン・シモン(1865-1945)の「婚礼」

村の婚礼を描いた一枚です。
春のうららかな陽射しのなか、若い花婿と花嫁が歩いてきます。
長い人生の中のしあわせの一瞬が見事に描き出されていました。




who is he ?

2007-05-28 | 美術
娘からプレゼントされた「500の自画像」という本に、

サミュエル・パ-マ-(1805-81)
「自画像」1826年頃
オクスフォード・アシュモリアン美術館

と紹介されているこの絵。
見るたびに思わず見入ってしまう。
21歳の青年の肖像。

巻末に、
イギリスの画家、素描家、エッチング版画家
とあるだけで、他になんの資料もない。
ネット検索してもまったくヒットしない。

素晴らしい自画像だと思うのですが、
どなたか彼のことを知りませんか?

クールベさん

2007-05-27 | 美術
なんとなくクールベさんが頭から離れなくて、
ネットで検索していたら、こんな写真をみつけた。
クールベさんの時代に写真あったんですね。
写実主義の第一人者クールベさんらしい。

日本で見ることのできるクールベ作品もけっこうあるみたいなので、
今度のお休みは西洋美術館にでも行ってみるか?

天使を描いてくれと依頼されて、
Show me an angel, I will paint one.
と答えたクールベさん。
一筋縄ではいかない頑固者の一面も。
題材は歴史か神話か宗教か、あるいは金持ちの肖像が主流だった時代に、
自分の目にみえるものしか描かない宣言は反骨の証。
彼の人生も波乱に満ちていたようです。
政治的なことも含めて時代に関わっていたので、
ナポレオンの柱を壊す許可を出して投獄されたりね。
後半はスイスに亡命してアルコール中毒で58歳で死んでしまった。

webmuseumでみたこのデッサン、好きだな。
妹を描いたのかな?